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第三十七話

 以前の試射場は化学肥料・農薬工廠建設のため撤去され今は工廠西奥の中津川堤端に台地を造成し新たに建設されていた、また試射場は以前の竹矢来でなく三十間四方を高い煉瓦塀で築き周囲から遮断され川側だけは煉瓦に代わり頑丈な引き戸が設えられ、塀外五町周辺は五十人の兵が厳重なる警戒体制を布いていた。


またこの試射場では毎日のように実弾のロット毎実射が行われ不発弾一発でも見つかるとそのロット一万発は分解され検査の上リロードされる、また生産される全銃器は抜き取り検査でなく全数試射し機関故障や薬室検査がなされ異常が無かった銃器だけが武器庫に収納された。


一行が試射場に入ると中央に試射係が二名立ち大殿に一礼した、すると川側の引き戸が係員によって開かれていく。


一瞬で目の前に中津川の全貌が開けた、その川向こうに中津川と山国川に挟まれた三角州が浮かび その三角州中央付近に小屋が建ち屋根には赤い旗が風に翻っていた。


小屋までの距離はおよそ四町ほどはあり、誠二郎は大殿に振り返り「これより川向こうに見えるあの小屋をこの迫撃砲で破壊してご覧に入れまする」そう言うと佐八郎に「照準は合わせたか」と問うた。


「はっ、ここよりあの小屋まで丁度四町(436m)と三角測量で算出致し、砲弾初速二町/秒から弾道計算における迎角αは 正弦sin2α=4町×g/二町^2 から真数表より八十七度二十五分となりもうし、砲弾は高曲射軌道を描くように致しまする。


なお高曲射軌道は横風の影響を受けやすくまた砲弾の空気抵抗を鑑み模擬弾を先程三発撃ち迎角微調整と方位調整を行いもうした」


「よしそれならいいだろう、では風速・風向が模擬弾調節時と同じになったところで撃て」と誠二郎は指図した、このとき後方に控えた如水らは二人の会話に側耳を立てていた…しかしその会話は珍粉漢で如水には異国の謎めいた呪文の様にしか聞こえなかった。


佐八郎は暫く小屋の屋根に翻る赤い旗の動きを見ていたが急に緊張した面持ちになり砲手に砲弾を手渡した、砲手はそれを羽根側より砲口に差し込み佐八郎の合図を待った、旗の動きを見ていた佐八郎は暫くして「撃てぃ!」と大声で叫んだ、その声で砲手は砲弾から手を離す と同時に 砲手や廻りの係員は一斉にしゃがみこんだ、それにつられるように見学者も慌ててしゃがみ込む、甲高い発射音と共に煙が砲口より吹き出し火矢が天空に飛び立っていった、一同は一斉にそれを目で追う。


だがすぐにその火矢を見失い視線は自然と前方の小屋に転じられる、その時小屋の真上に光る筋が見えたと覚えるや小屋は猛烈な勢いで噴き飛び炎と黒煙が三角州を覆い尽くした、その凄まじい爆発音は少し遅れ試射場を震わせ その爆発衝撃は地響きとともに誠二郎の足に伝わってきた。


一同固唾を呑んで煙が薄くなるのを待った、空一面には飛び散った夥しい欠片が陽の光を浴びキラキラ輝き舞っている、やがて煙が薄らいだときその三角州には何も見えずあの三間四方の小屋は跡形無く粉砕され広い範囲に飛び散ったのだ。


大殿如水はしゃがんだまま眼を剥いて唸っていた、それは小さな砲弾一発がこれほどの威力を発揮するとは思ってもみなかったからだ、如水は遂に尻餅をつき手を叩き始めた。

「この威力であれば攻城戦で攻め込む必要もなくただ遠方より撃つのみ…これが百門も有ったればそれは鬼神のごとし、向かうところ既に敵無しじゃ」と呟き満足げに誠二郎を見つめた。


その後は呆けたまま大殿如水とその一行は製鉄場や肥料工場を見学し城へ引き上げて行った。

残された誠二郎・三左衛門・佐八郎は手を取り合って如水を迎えての試射や工廠見学が成功裏に終わったことを讃え合った。



 昼過ぎ誠二郎と三左衛門は承認用の書類を携え本丸奥に行き大殿如水に承認花押を得ようと控えの間に座った、しかし出てきた如水は工廠見学の礼を述べると書類の山を一瞥し、誠二郎が予想した通り「お前らに任せたではないか、責任は儂がとるゆえ思う通りやればよいのじゃ」と忙しそうな顔をつくり すぐに奥へ引っ込んでしまった。


残された二人は顔を見合わせ「やはりおぬしが言った通りよ、せめて認めの何か証拠でも頂けぬものかと思うたが…やはり無駄足じゃったな」と三左衛門はボソっと呟き誠二郎を見た。

次の朝、如水は二百の兵を引き連れ大手門より威風堂々と出陣し朝鮮釜山に渡海すべく肥前名護屋へと行軍していった。



 この年の秋の実りは予想通りの豊作で、当初二万石増と見込んでいたが何と三万石も多く刈り入れがあり、都合二十三万石の収穫高となった、やはり途中からの化学肥料と農薬の効果であろうか、また殖産振興による税収も予想以上で昨年より一万石もの増加を記録した。


三左衛門は満足げに「誠二郎殿、これなら来年はもっと期待できますな、それを見こし兵の増員は来春早々に二千ほど募りとうござるが…やりくりは可能に御座ろうか」と聞いてきた。


「急に二千はちときついですなぁ、朝鮮での成り行きが未だ掴めませぬよって…出来れば春口に一千、夏過ぎに一千として頂ければ助かりまするが」


「分かった、では早々に手配致そう、しかし領内の百姓には手を付けず他国者を募るとなれば…この御時世どこの大名でも兵は足らぬはず、集まりますかなぁ」と三左衛門は首を捻った。


「この九州や中国四国では無理でしょう、やはり大阪以北に募集範囲を広げる必要はあろうかと存ずるが」


「ふむぅ…しかしそれほど遠国に兵募集をかければ自然と大阪城にも聞こえ、軍役足るに何故今さら兵を募るのかと疑られるやもしれず、下手をすれば謀反の企み有りやと領内に素っ破でも送られ工廠を探られたらそれこそえらいことになろう、これは簡単には行かぬなぁ」



 慶長二年七月、慶長の役での初戦となる大規模な海戦が釜山沖南西の巨済島周辺で始まった。

朝鮮は秀吉の再派兵を察知するやいち早く動き、都体察使の李元翼は朝鮮水軍の本営を閑山島に前進させると海峡を挟む対岸の巨済島周辺を監視させ、南対馬から釜山海域に侵入してくる日本の軍船や兵粮船を各個攻撃する挙に出た。


朝鮮水軍は釜山近海に大量の番船を出動させると対馬から渡る日本通船に各個攻撃を開始した、この撃っては引く手慣れた海戦に日本側は翻弄され次第に海運出動が覚束ない事態へと陥っていく。


こうした小規模各個海戦に勝利した李元翼はその勢いに乗じ釜山に集結中の日本軍大部隊に対しても総攻撃を加えるよう命を下した。


しかしこの命令に朝鮮水軍の司令官 李舜臣イ・スンシンは陸側からの応援もなく水軍単独での日本軍大部隊への攻撃は余りにも危険と 海戦経験の浅い李元翼に進言し出撃をためらった、だがこのとき水軍の将・元均の讒言が李元翼の耳に入るや怒りに発した李元翼は愚かにも「救国の英雄李舜臣」を罷免してしまう。


その李舜臣に代わって三道水軍統制使となったのは讒言した元均であった、だが彼もまた攻撃指令に対して消極的であり…六月十八日ついに李元翼の厳命が下されると元均は仕方なく艦隊を出撃させた、六月十九日 朝鮮艦隊は安骨浦と加徳島へ出動し日本軍との海戦に突入したが この海戦で水軍幹部の負傷が相次いだため一旦閑山島まで艦隊を後退させた。


元均の艦隊は七月の初旬、再度の命令に従い全艦隊を率い出撃、七月七日給水のため加徳島に軍船を係留し兵を一旦上陸させた、ところが待ち構えた小早川隆景軍の攻撃をまともに受けてしまう これに耐えられず李元翼は敗走し多くの兵を失った、これを知った都元帥 権慄は元均を厳しく叱責し杖罰を加えるとともに三道水軍統制使から主将へと降格させた。


七月十四日、朝鮮水軍の主力は日本軍を殲滅すべく閑山島の本営を発すると十五日夜半に巨済島と漆川島の間にある漆川梁に停泊した、この情報を得た日本軍は朝鮮側の動向に対し藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明などの猛将らはいち早く動き水陸から朝鮮水軍を挟撃する作戦をたてた、それは七月十四日から十六日にかけて繰り広げられた漆川梁海戦である、十六日の明け方より藤堂高虎ら日本水軍は海上から攻撃を開始すると陸上部隊がこれに呼応し海に向かって猛攻を仕掛けた。


戦いは日本水軍が朝鮮水軍を完全に駆逐し、敵兵数千余を討ち取ると陸に逃げる敵には陸上から猛攻を加えその殆どを討ち取った、そして朝鮮水軍の番船百六十余隻を捕獲し さらに進撃しこの海域全ての敵船を殲滅し焼き捨てた。


この海戦で朝鮮水軍の主将のうち元均、李億祺、崔湖は戦死し、この海戦により朝鮮水軍は壊滅的打撃を受け 勝利した日本軍は陸海で西進することが可能になった、だが元均の死により再び李舜臣は返り咲き、以降 李舜臣の知略により日本軍は苦しむことになる。


初戦に勝利を収めた日本軍は秀吉の命により全羅道(赤国)への侵攻を開始した。

八月に入り日本軍は軍勢を二分し二方向より全羅道の要衝である「南原」を目指すことになった、二方向のうち右軍は毛利秀元を主将とし加藤清正を先鋒に明・朝鮮軍を牽制しつつ陸路を北上し南原へと軍を進めた。


また左軍は宇喜多秀家を主将とし小西行長を先鋒に海路にて西進し南原へと軍を進めた、この南原は古来より全羅道の要衝にあり、北は全州・公州より漢城に至る、南は順天、西は羅州に通じる。


この行軍中に日本軍の侵掠・略奪は現代にも伝わるほど凄まじいものであったという、それは豊後臼杵の太田飛騨守に従った真宗僧 慶念の日記「朝鮮日々記」により今に伝えられる。


日本軍が大挙して泗川(サチョン)河東(ハドン)に至ったことを知った明の副総兵・揚元(ヤンユアン)は南原城の守りを固めると城外を焼き払い日本軍の来襲を待った。


これに対し日本軍は八月十二日、南原城を包囲し十五日夜襲を仕掛け南原城を陥落させた、この戦いで明・朝鮮連合軍は甚大な被害を蒙り、守将の揚元(ヤンユアン)は辛うじて脱出するが朝鮮軍の将・李福男(イポクチム)以下多くの将兵は壮烈なる戦死を遂げ明軍も同様に多くの将兵を失った。


その被害は「城内外での死者は五千余に及び、公私の官舎や家屋はことごとく灰燼に帰すなり」と伝えられ、慶念の日々記にも「十六日、城内の兵 残りなく打ち殺し生け捕られたる者は無し」と記され、翌日には「夜が明けて城の外を見れば、道には死人が砂子如し、目も当てられぬ気色なり」と夥しい戦死者の状況を書きとどめている。


この南原陥落により明・朝鮮連合軍は 全州の守将らに救援勧告を行った、しかし命ぜられた全州の守将らは日本軍を怖れ援兵を派遣するどころか全州を放棄し遁走する始末であったという、こうして秀吉の念願である全羅道攻略の足掛かりを掴み、南原城陥落は九月中旬に秀吉の元に知らされた。


秀吉はこの報に接し大いに喜び軍功のあった諸将に対し「感状」を発給した、こうして勢いを得た日本軍は全州を目指すことになるが前述の如く全州の守将らは遁走しており小西行長ら左軍は戦わずして八月十九日全州に入った、数日後ここに右軍の諸将も合流し世に言う慶長の「全州会議」なる軍議が開催されたのである。


しかし夏から秋近くになると明・朝鮮連合軍は次第に勢いを盛り返し、日本軍の快進撃はこの季節を境に停滞していくことになる、そして秋から冬にかけ明・朝鮮連合軍の本格的な反抗が開始されていくことになる。


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