第十五話
文禄元年十月中頃に朝鮮東岸にある咸興の明川以北は朝鮮義軍の手にことごとく堕ちたという。
一時は咸鏡道北端の会寧からオランカイまで侵攻し、女真族の多くの城を攻略した加藤清正軍はその勢いに乗り、吉州や端川など朝鮮最奥まで進撃するも十月の末頃にはその周囲を朝鮮軍に奪還されつつあり今や孤軍に陥ったとの報告が十一月も終わろうというころ六十里ほど南下した三番隊黒田勢が護る黄海道へともたらされた。
そのころ江陰城を護る黒田勢の鉄炮二番組ではそれら形勢不利なる情報を聞く余裕も無く、兵舎裏に設けられた仮工廠で、昼夜を徹し短機関銃と9mm実包の製作が急がれていた。
当初、白兵衛(誠二)は機関銃構造はマキシム機関銃を模倣簡素化したものにしようと設計を進めていた、しかし水冷式で重く嵩張るイメージはどうにも払拭出来ず、当初の目的である火縄銃より速射を可能とする銃であれば大型銃に拘泥する必要はないと構造仕様を変更、数日かけて短機関銃へと設変した。
この設変により試作決定されたのはドイツのヘッケラー&コッホ社のMP5短機関銃を模したものとなった、この短機関銃は9x19mmパラベラム弾を使用する携行自動火器として開発されたものだ。
MP5は当時多くの短機関銃で採用されていたオープンボルト発火方式ではなく、ボルトを閉鎖した状態から撃発サイクルがスタートするクローズドボルト発火方式と、ローラー遅延式ブローバック機構を取り入れたことで発砲時の反動が抑えられ、命中精度も高くフルオート(連射)時のコントロールが容易な短機関銃となっていた。
誠二が設計を終え試作にかかったとき頭を悩ましたのは予想通り工作機械が無いことだ、そんなことは初めから分かりきったことだが いざ造り始めると穴一つ開けるのも溝一筋彫り込むのも細工師の手業が必要で、部品全ては鋼を赤熱し叩いてヤスリで削り砥石で磨くしかなかった。
ゆえに精度を必要とする部品嵌合部は交差表記しても意味は無く、対部品は互いに現合摺合わに依存した、現代なら2時間工数の部品が五日も係ってしまうことはざらで、四丁の試作部品で同寸部品は一つとして存在しなかったのも この時代ならではの特色であろうか。
しかし時間さえ掛ければ牛歩であっても工程は確実に進んでいく。
現在短機関銃の工程はすでに後半工程に差し掛かっていた、それは機関部に実弾を装填し、発射させては機関詰まりを解消していく遊底・排筴廻りの調整工程に入っていた。
当初、ローラー遅延式ブローバック機構は、誠二が以前これを模して工作機械のツールワンタッチ把持部に応用し、特許を数件取得した経験から自信を持って採用したが…結果としてローラー精度とその硬度、またロッキングピースの硬度が不足し五十発程度の試射で打痕や偏摩耗から機関詰まりを起こしてしまった。
このため佐八郎と協議し仕方なく威力を犠牲にした簡便なるシンプルブローバック機構に変更することにした、しかし今度は火薬爆発と同時に薬莢・遊底が早期後退するため薬室から半抜けした紙巻薬莢は薬莢筒部のバックアップを失い薬莢破裂を起こし機関詰まりを発生させた。
この不具合から遊底質量を上げたり復座バネの常数を上げたりして何とか薬莢破裂はなくなるも、弊害として遊底が後退端まで行けず排筴ロックや次弾装填詰まりを起こしてしまった。
結論から言えば紙と漆の紙巻薬莢では内圧耐力が不足しすぎている、つまり散弾銃や単発ライフルの如く薬室内で完全燃焼を終えてから空薬莢を抜き出す銃であれば紙巻薬莢で事足りようが、自動機関銃の如く発射ガスによる薬莢後退をガス圧ピストンとして機関応用させるには強度が足りないということだ、誠二は口径9mmのパラベラム弾に紙巻き薬莢を実用化させるなどは無謀に過ぎたと悔いていた。
銃工廠と言えば聞こえはいいが火床や鞴、ヤスリがけ用の木製万力が設えられただけの二十畳広さの仮小屋だ、そこにいつものメンバー六人が集まり朝から溜息をもらしていた。
「薬莢造りに紙と漆だけでは弱いと考え薄い綿布も巻き込みもうしたが…結果は何の改善も見られませぬ、やはり何度やっても結果は同じかのぅ」と落胆声の佐八郎がくさったように天井を見上げていた。
「やはり薬莢は紙でなく銅か真鍮で抽筒板ごと一体成形しなけりゃならんということよ…」と源三郎が言う。
すると作左右衛門が「そうかもしれぬ、二十日もかけ深絞りの金型を十工程分も造り挑戦したが何度やっても七型目で薬莢胴は破れてしまう、やはり一振りの槌打撃で銅を深絞りする工法は絞り速度が速すぎるのだろう、師匠が言われるように絞り速度が調節できる油圧プレスなるものを造らにゃいかんのかもしれん、それと深絞り専用の潤滑油脂も見つけぬとのぅ…」と力なく肩を落とした。
その時新たにメンバーに加わった猪助が口を挟んだ、この男は肥前や筑前・筑後などを転々と流れ歩いて修行したという細工師で仏具細工の技に優れ源三郎が彼の器用さを見込んでメンバーに推挙した者だ。
「そげなもんは絞るけんはなく銅ば叩いて板にして、そいば巻いて筒にして銀鑞付けし、次いで抽筒板も鑞付けしゅれば簡単に造れるっちゆうもん、一個に造るに時間は係るけんのこん際は致し方ありりまっしぇん」と得意顔で話してきた。
「銅板を巻いてロー付けするか…それは初期に考えた方法だが、手間が掛かるということで却下したが、この方法だと一日でどれほど出来そうか」と誠二は猪助に向き直って聞いた。
「そーたいな、四人で分業し朝から晩までやれば一日で百五十個ほどは出来ましょーたいか」
「百五十個か…では倍の人数にすれば三百個はいけますな、んんもう時間も無いゆえ仕方ないがそれでいきましょうか、では早々に試作品を二十個ほど造って下され」
とは言ったものの、誠二は後に量産することを考えれば銅板巻き薬莢ではいずれ頭打ちとなろう、やはり深絞り専用多頭プレス機を早期に開発しなければと思った。
また当面はロー付け薬莢にするとして、ロー付け部の引張り強さは400~500N/mmほど有り、銅の引張り強さの1.5倍ほど、これならロー付け部での引き裂けは無いだろうとも考えた。
「弾頭径基準で銅板薬莢を造るとなれば薬莢径が小さくなりますよって薬室の内径もそれに合わせ小径化改造しなければなりませんが、五郎太殿 面倒かけますが薬室に嵌め込む補強筒の内径を猪助殿が造るロー付け薬莢に合わせて作り直して下され、それと銃身の現在の進み具合はどうでしょうか」
「銃身四本の旋条切りはすでに終わり、師匠に教えていただいた“ずく鋳物棒”に弁柄を付けて銃腔内を真円に磨いておりましたが、本日より作左右衛門殿が造られた弾頭被甲との締め代を嵌合し始めたところでございます」と五郎太は応えた。
「銃腔の締め代は前にも申しましたが締めすぎは機関破壊や銃身炸裂を起こす危険性があり、また強烈な逆火が排筴口より吹き出し非常に危険です、逆に締めが足らねば弾はすっぽ抜けしの威力も命中精度も削がれます、適度な仕上がりが得られたなら弾丸を銃腔に棒などで装填し、銃身を縦に置きその棒に何貫のおもりを乗せたら弾丸が銃腔内を滑り抜けるかを記録し、その際の旋条痕とともにそれがしに見せて下され」と五郎太に注意を込めて言った。
「師匠、一昨日指示された試作実弾の気密検査の件でござるが、昨日十発ばかり水中に四半時ほども浸漬し分解検査しましたら十発中二発も火薬が濡れており、不思議に思い紙巻薬莢を裁断して調べたところ抽筒板と紙薬莢の接着部に錆が発生しており、その錆が接着部を浮かせていると判明しました、造ってからまだ十日も経たぬ実包が接着部を浮かすほど腐食するは如何なる理由でござろうか」と佐八郎が不安顔に聞いてきた。
「硝化綿が出来た段階で水で煮洗を10回、流水洗を5回ほどくり返し念入りに酸を洗い流す必要がありますが…そうですな時間にすれば丸三日は係りましょうが、試作の時はどの程度の洗滌をされたのでしょうか」
「……申し訳御座らぬ、実際はその半分も手間をかけてはおりませなんだ、実弾製造の際は必ずそうするよう火薬係に申し付けますよって」と申し訳なさそうに応えた、
次いで作左右衞門が「それにしても凄いです、無煙火薬と聞いて初めはあんな薄気味悪い液体に綿浸けて何で火薬が出来ようかと思うておりましたが、実際火を点けて驚きもうした、なんせ原料は炭でのうて真綿ですからのぅ…実に驚きです。
それと師匠が描かれた図面に従って機関の諸部品を造り、嵌合や改良には時間を費やし苦労しましたが、当初は何のカラクリか想像も付きませなんだが…組んでみて驚きもうした、もう凄いとしか言いようがないほどのカラクリでござる、しかし正直申してあの絶妙な間合いで相互に動く仕掛けが何の役目を果たすのかさっぱり分かりませぬが、何故か見ているだけで心躍る工夫でござる。
あれに比べれば火縄銃のカラクリなんぞ子供のおもちゃですわい、師匠は一体どこであのような凄いカラクリを学ばれたのでござろうか、儂の知る限り堺や国友では見たことも聞いたこともござらぬが…」と作左右衛門は首を傾げて誠二を見つめてきた。
「あのカラクリはそれがしの工夫です、現在 機関部の試しはそれがしと佐八郎殿の二人だけで行っておりますが、実際に銃が出来上がりましたなら皆さんに試射をお見せします、それまでは我慢して下され」と誠二は皆を見ながら言った。
誠二が未来から来たことを知っているのはまだ佐八郎だけであった、また今まで試射を見せなかったのは銃身のない機関部だけの動作を見ても彼らに理解は難しいし、暴発した際の怪我も憂慮したからだ。
「おいは今までん工具ぼんくらり造っちいたけんが皆の何しよーとかすったりわかりまっしぇん、御師匠様に言われるなり作り上げたとたいドリル・タップ・ダイスげなゆう螺旋なるもんは一体どげんやっち使うもんかもしらごつろしょろ教えていただいてもよかころでは…」
と猪助が恥ずかしげな眼差しで誠二の眼を覗き見た。
「ああぁ、あれは螺子を造るものです、猪助殿が造られた一分(M3)から五厘おきに造っていただいたドリル・タップ・ダイスは既に使われ機関部品のネジ穴や部品締結用のネジ鋲を造り、ほれこの様に使われておるでしょう」と誠二は机上に置かれた機関部を取り上げ、ネジの部分を猪助に指差して見せた。
「ほぉう、これのネジっちゆうもんやけどか、んんしっかりくっついておるけんなぁ」と猪助は組まれた部品を引き剥がそうと力を込めていた。
「猪助よ、ドリル・タップ・ダイスは摩耗が早い、今のを模範にあと五組ほどを作っておいてくれぬか…これ猪助!おぬし壊すつもりか」と猪助がむきになって機関の側板を引き剥がそうとするのを作左右衛門は慌てて抑え引き取った。
それを見て皆がどっと笑ったのを機に打合せは終わった、皆それぞれの持ち場へ散っていく、誠二も設計事務所兼寝所として与えられた冷え切った部屋へ戻った。
机に座ると昨日の続きの計算を開始した、但し便覧や参考資料が無いことから大学時代の記憶を辿り、熱化学反応式の物質量当たりの生成熱などはある程度大まかな値で計算を進めていた。
(作動方式はクローズドボルト発火方式でシンプルブローバックになった、これだとディレードブローバック方式に比べガス圧は遊底イナーシャとバネ常数にしか望めないからガス圧低下は…んん こんなに下がってしまうのか、銃身長は六寸八分(225mm)だから締め代によるガス圧上昇率は施条隙間損を算入すると…こんなものか、ということは発射初速は350m/sまで下がり、有効射程も200mを切ってしまう…。
あぁライフルに比べたら気の遠くなるほどの低威力じゃないか、しかし銃の重さは1貫(3.7kg)を切っており、後の黒田藩陽流の形式銃と言われる三十匁筒は重さは三貫も有り射程は100mというから、まっこの時代なら上出来としておこう。
それより問題は連射速度だろう、基剤のニトロセルロースだけのシングルベース火薬、他に緩燃剤や焼食抑制剤、それと安定剤も添加しなければならないが この時代では合成する材料は何も無いときている、しかし最低でも緩燃剤を入れないと単なる爆薬に過ぎず発射速度は800発/分を超え機関部の質量慣性から機関ロックする危険性は非常に高い、んん何か添加しないとなぁ…)
そんなことを考えながらブルっと震えた、誠二はその寒さに朝鮮障子の隙間から外の景色を眺めた、朝から降り出した霙らしきものはまだ降りやまぬ、この部屋は隙間だらけで北風が容赦なく吹き込むのに暖を取るものは何も無いときている、こんなことなら工廠の火床横で暖を取りながら進めた方が能率は上がろうというもの、誠二は堪らず計算資料を抱えると再び工廠へと戻った。
火床横に置かれた樽の上に計算資料を置き 床にどかっと座った、そして火床に手をかざすと火は消えかかっていた、誠二は火掻き棒で火床を掻き上げた、するとフッと炎が上がり暖かさが揺らいだ。
青白く揺れる炎を何気なく見ていたとき灰が火床横に集められ灰山が出来ているのを見つけた、誠二はふとニトロセルロースの粒子間に不燃灰という邪魔物を介在させればその邪魔物によって燃焼反応は遅くなるのではと思えてきた。
(一度試してみるか)
以前ライフル射撃をしていたころ銃砲店で購入する実包は一発700円もするため射撃場で撃ち終わった薬莢はその都度持ち帰り、自宅で市販火薬をリロード(詰め替え)して使っていた、無煙火薬は当時500g入りで12000円程、雷管は100個入りで2000円ぐらい、弾頭は一個が95円だったため、実包一個は300円ほどで出来た記憶があった。
このため無煙火薬は常に手元に有り、或る日 興味本位で無煙火薬を燃やしバーンズレート(燃焼速度)を試したことが有った、ゆえに市販火薬の燃焼速度は眼が覚えていた。
誠二は工廠隅で抽筒板を成形している佐八郎の所へ行き、火薬を皿に一掴み分けて貰うと 目の細かい篩を借り火床の所へ戻った、そして灰を両手一杯に掬うと篩に入れ揺さぶった。
次ぎに火薬を5匁計量し その中へ灰を0.2匁入れ、角材の上にこの灰混合火薬で幅2分ほどの線を引き、その端に火を点け 昔試した燃焼速度を思い出しつつ炎の走る速度を慎重に見つめた。
この作業で灰の量を少しずつ増やし、6回目の燃焼試験でほぼ市販薬に近い音と燃焼速度に感じられた。
(我ながらなかなかやるもんだ)と思いつつ工廠隅の佐八郎を見た、すると向こうでも興味深げにこちらを見ていた。
「佐八郎殿!火薬の配合量が決まりましたぞ」と叫ぶと佐八郎が何事かと近づいてきた。
「火薬に混ぜる灰の量が決まったのです」そう言うと紙にその比率を書き、手渡しながら「これから薬莢に装填する火薬は硝化綿だけでなく灰を混ぜたものにしてください」と大声で言った。
「師匠、灰など混ぜれば威力は半減するのではござらぬか」と佐八郎は疑問顔である。
「まっその事は後ほどゆるりお話ししますよって」と言い樽上の計算資料に再び視線を転じた。
師走に入ると城中が慌ただしくなってきた、白川城よりお偉方が頻繁に来訪しては昇華院で御重役方と軍議を重ねている。
一方、各地に点在する日本軍の兵粮問題が深刻化してきたとの情報が佐八郎の耳にも届いた。
彼が聞いた情報に寄れば、咸鏡道の加藤清正の陣中では徹底した節約令が出され、兵だけでなく馬の餌にも節約令が出されたという。
これは経験した事の無い朝鮮半島の過酷な冬を乗り切るための方策であろうが、その前途には確保された兵粮の絶対的不足を この凍てついた朝鮮の寒空の下で兵等は痛切に感じた事だろう。
過ぐる十一月に再び名護屋に入城したという秀吉の元には、続々と朝鮮各地から兵粮枯渇の情報がもたらされたという、たとえば咸鏡道尚州にいた戸田勝隆や黄海道の白川城・江陰城に展開している黒田長政からも注進が相次いだ、こうして兵粮枯渇という事態は局地的問題では無く 朝鮮に渡海した日本軍の全将兵が今まさにその危機に晒されようとしていたのだ。
これに対し秀吉は「朝鮮在陣の衆、兵粮これ無き由、聞こし召し届けられ候に付き、釜山海にて来年八月までの兵粮下さるべしとて、数万石召し寄せ師走下旬までに届け候」と兵粮補給を約束した。
一方 仮工廠では銅製薬莢の強度テストも終わり現在は鉄炮組総出で実包製造に取り掛かっていた、また四丁の短機関銃も現在は実弾試射による最終機関調整中でこのまま何事もなければ今月末の衣笠久右衛門との約束は何とか果たせようと心躍る想いであった。
十二月末、朝鮮各地より多くの荷車を曳いた人夫雑兵らが釜山海へ向けて出立した、彼らは秀吉が約束した「師走下旬まで兵粮届け候」に従い出発したのだ、しかしこの時期の対馬海峡は時化が続いていた…寒風吹きすさぶなか荷駄隊は一路釜山を目指したが約束通り釜山に兵粮が届いているとは到底思えず、寒さと飢えも手伝い荷車隊列はさながら死の行軍に見えたという。




