わたくしと魔王の選択
細く儚すぎる道しるべ。時折ランプの灯をうけチカリと瞬くのは、天然鉱石の類だろうか。左手に持った灯りを頼りに、右手で角ばった岩肌を伝い、唯一の手がかりを見失わぬよう眉間に皺を寄せれば、隆起した岩につま先がつっかかる。
歩けない事は無い、しかし舗装されているとはお世辞にも言えない洞窟内を注意深く進むクライドは、吐いたばかりの息を意識的に細く深くゆったりと吸い込んだ。冷やされた湿度は透明で、閉鎖した空間に嫌でも尖る神経を僅かに落ち着かせてくれる。
以前のように地図を手にしている訳でもない。洞窟は深く入り込み、無駄な考え事に意識を逸らせば途端、迷子と化しかねない。
果たして、無事たどり着くことはできるのだろうか――。
クライドの視界に揺れる小さな灯りが映ったのは、元来た道をただ入念に記憶し続ける脳裏に、そんな弱気が過り始めた頃だった。
向こうもそれに気が付いたのだろう。足早に縮めた距離の先、相手の顔を視認すると同時に不機嫌な声が落ちる。
「遅いわ」
確かに道しるべは彼女の手元に続いていた。一言だけを告げ通り過ぎて行った後ろ姿を、慌ててクライドは追う。
「まさか本当に会えるとは思いませんでした」
「わたくしが本気を出せばこんなものよ……無駄口を叩いていないでさっさと連れて逃げて頂戴。この先は枝分かれしているでしょう?」
先を急ぐ足並みと小さく返された台詞。追いついたクライドは、一歩分の先導を切りながら首を傾けた。
彼女は一体、何から逃げているのだろうか。クライドとしては何故相手が“逃げる”という認識を持っているのかが分からない。
「そこまで急がなくとも良いのでは? 急ぐと危ないです、姫様」
各々手にランプを持っているとはいえ、洞窟内の視界は良いものではない。ましてや平らな道の上しか歩きなれていないであろう姫にクライドが控えめな声をかければ、内緒話をするかのような声色に苛立ちが混じった。
「急ぐに決まっているでしょう! もし魔王が、部下達が追いかけてきたらどうするの!」
「それは確かに恐ろしいですが……恐らくそれは有りませんよ」
「……そうね。魔除けの効果は抜群のようだわ」
ぽとり、と。鍾乳石を伝い落ちる雫のように零された姫の声に、またしてもクライドの首が傾く。
「魔除け、ですか?」
「そう。その魔除けを身体にかけられるとね、追いたい相手の存在を認知できなくなるようよ」
それを魔王に、又は部下たちに振りかけてきたということなのだろうか。クライドの首はますます傾く。
魔王ともあろう存在がそう簡単に魔除けなどにかかるものなのか。そもそも何故魔除けなどというものを姫が持っているのか。そして、機会はいくらでもあっただろうに、何故今それを行使したのか。
「えー……それならばやはり、魔王が追いかけてくる可能性は低いのでは? それに第一、俺が姫様を迎えに来れるよう手引きしたのは、魔王本人ですよ?」
「それは……そうとも、言うけれど。兎に角それとこれとは話が違うのよ!」
魔王本人ね、と。姫が小さく零したため息の意味が、クライドにはやはり良く分からない。魔王の気が変わるかもしれないという事だろうか。けれど彼女自身、それはもう無いと分かっているように思う。
安全確認のため、先の道から視線を外せないクライドだが、言葉を落とした相手が今どんな表情をしているかは安易に想像できる。
不可解と苛立ちと苦渋。記憶の中にある姫のものとは思えない程に感情の込められた声だ。
「何にしても安全第一ですよ。この先細い道もありますので、注意深く進みましょう」
いったん足を止め視線を流せば、伏せられていた姫の顔が上がった。片手にランプを、もう片方の手に抱いた靴をしっかりと胸にかかえている姿は、微かに震えているように見えた。
「あ、申し訳ございません。寒いですか?」
地上に比べ、洞窟内は格段に冷える。
クライドが纏っていたマントを脱ぎ姫へと差し出せば、瞬時にして冷気に冷やされた湿度が膜のようにが身包むが、纏った鎧と手袋のお蔭か、姫のように震える程寒いとは感じない。
「……ええ、寒いわ。寒いし暗いし歩きにくいし最低よ。確かに、不便だわ」
「何がですか? あ、着用方法が分かりませんか?」
「……相変わらずね、クライド」
姫が差し出してきたランプと靴を預かり軽い瞬きを返せば、また小さな苦笑が落ちる。
「あなたってば何時も何処かずれているんだから。良くあの魔術を正確に使えたわね」
「正直、まさか本当に上手く行くとは思いませんでした」
一応教会で確認を行ってもらったそれは、魔王の城から洞窟内に蹴り落とされた際に手向けられた“餞別”のうちの一つだ。
「ふふっ……あれは『人にも扱える程度のもの』。大丈夫だとは思っていたわ」
「燃やしても中々煙になりませんでしたし……その煙自体も途中で消えたらどうしようかと」
「そもそも煙になるまでは時間が掛かるのよ」
歩幅に合わせて揺れる姫の小さな頭。その項についた髪飾りがランプの灯をちかりと反射させている。
その魔術を、司祭は修復の魔術だ、と言っていた。
軽く交し合いながら、それでも足並みは早く。間違っても転んで怪我をさせる事など無いようクライドは姫の歩みに気を向けながら回想する。
「にしてもあいつは一体、何を考えているんでしょうね。何にしたって手段がまどろっこしいんですよ」
以前クライドが魔王の城を後にした際、餞別として受け取っていた二つの物品。帰路に使用した地図の道は魔王の言葉通り二度使えるものではなかった為、現在、無事姫と再会を果たせているのは、残り一つの修復の魔術が記されていた羊皮紙のお陰だといえる。
あと、昨晩カラスが持ってきた追加の物品。
しかし、それはクライドにとって非常に不可解だった。
「大体あいつから貰う魔術の紙というのはどうにも嘘っぽいですし、次は何かと思えば正体不明の木片でしたし」
「し、正体不明!? 明らかに靴のヒールでしょうっ!」
「分かりませんよ。男の靴と女の靴の踵は違うんですから。カラスの習性か何かかと思いました」
なので正直捨てようと思いました、と零せばすぐさま飛んできた鋭い非難の視線に引かれるよう、クライドが下ろした視線の先、じっとりと目を座らせた姫の手の中には美しい靴が握られている。それが無ければ恐らくクライドの中で『謎の木片』に『靴のヒール』という名が与えられる日は来なかっただろう。
「まぁ何か意味は在るのだろうとは思いましたが……あれはその靴のヒールだったのですね。しかしまさか修復の魔術が追跡になるとは思いませんでした」
「修復、とあって燃やす、ときたら当然煙に意味があるに決まっているわ。挿絵にも描かれていたでしょう?」
「確かに司祭もそんな事を言っていましたが……しかし、だからと言ってまさか靴の元に煙が帰るとは……いや、修復なんですけどね。用途は修復だけじゃないとも言われていたんですがね」
初めて試みる魔術はクライドにとって、姫の救出に使用するにはあまりにも不確かな手段だった。
しかし実際、少しずつ燃焼していく靴の踵から立ち上った濃い煙は見事動き出した。それを追えば靴を持った姫との見事な再会、開口一番の『まさか』は心底の本音だったと言える。
「……本当に全てが奇跡的、な再開だったわけね。司祭様に確認まで取りに行くなんて」
本当に何処かへたどり着くのかという危惧と、見失いかける度に幾度も流した冷や汗の数々。洞窟の中、煙という儚すぎる道しるべを思い返しながらクライドは姫の言葉に深く頷いた。
「確認するに決まっています。魔王から渡されたものですよ? 安易に使用してとんでもない事になったらどうするのです」
「そこは信用しなさいよ」
「相手は魔王です。何か企てていてもおかしくありません……まぁあの雰囲気というか調子を思えば、あまり考えられない話ですけどね」
「つまり知能が低そうだという事かしらっ!?」
何故声を荒げられたのか。分からず姫を振り仰げば慌てたように逸らされる視線にどうにも違和感ばかりが過り、クライドの脳裏が疑問符で満ちる。
「ま、まぁお蔭で上手くいっているのだから良いじゃない」
「……それはそうですね」
言い訳のように続けられた姫の言葉にクライドは通路先へと向き直り、一応の納得を吐き出した。結果良ければすべてよし、という部分は確かにあるよう思える。
「けれどそれにしても不審です。姫様を帰すなら帰すできっちり洞窟の出口までは送り届けるべきだと思いますし、俺に迎えに来させた理由も良く分かりませんし、方法はまどろっこしいし、一体魔王は何を考えているんでしょうか」
「……さあ。事情、というものがあったのではなくて?」
「姫様にも知らされていない事があるんですか?」
だからこそ帰路を急いでいるのだろうかと、何処か引っかかりながら回想するクライドの耳に靴底が砂利を擦る音が届いた。
「……聞けばなんだって答えてくれたわ、己の企ても全て馬鹿正直に。何故だか分からないけれど、嘘をつかれた事は無かったの。だからこそつい、色々な事を聞いてしまって、でもお蔭で色々を知れたのよ」
振り返った先、何かに足元を取られたのかバランスを崩した姫が岸壁に手を付いている姿がある。呟くように落とされた声に手を差し伸べながら、クライドは率直な疑問を口にした。
「ならば何故、今回の事は言わなかったんでしょうね」
「……聞かれなかったもの」
「え、けれどあの魔術に関しては知っていたんですよね?」
「うるさいわねそれはまた別なの!」
歩きやすいようにと差し出した手を乱暴にとられ、クライドはぱちりと瞬きを返す。
「大体、あなたが来るのが遅いのがいけないのよ。そのせいで、そのせいで私はあの城で時間を過ごし過ぎてしまったわ」
「す、すみません……けれど姫様にとっても意味のある時間だったのでは? 以前お会いした時より快活になっておられる気がします」
「それもまた別の話よ……意味があったから困るの」
繋いだ手が不満気に揺らされる。少し力の籠ったそれにクライドが苦笑すれば握りつぶさん勢いの握力が掛けられる。
「いっ、痛いですよ!?」
「……貧弱ね」
「いや、その……魔王との別れが寂しいのは分かりますが、また会えば良いじゃないですか」
悩ませた挙句、零した言葉。我ながら適当だと呆れるクライドの耳に姫からの多大なため息が届く。
「適当な事を言わないで頂戴。それに……また会えば良い、なんて話じゃないの」
やはり言われたと内心クライドが反省すれば、次に呟かれた声は酷く小さいものだった。
まだ一緒にいたかったのよ。
恐らく相手に聞かせるつもりはなかったのだろう。それでも聞こえてしまった手前、振り返ったクライドは足元へ視線を向けている姫の姿にまた、顔の向きを前方に戻した。
「……魔王もですが姫様自身も自国に、城に帰られる事を選ばれたのですよね?」
「……」
「その選択は正しいと思います。冷静な判断だと」
沈黙する姫の中、多大な葛藤があったのであろう事くらいクライドも察している。その態度からして選択は身を切るようなものだったらしいと、確かに彼女はあの城で時を過ごし過ぎたのかもしれないと。
だからこそ肯定の言葉をかけたいクライドだが、うまい言葉がすらすらと出てくるほどの甲斐性もなく、情けない無音の時が落ちる。
「……あるべきものは、在るべき場所に帰るべきでしょう」
「そうですね……あなたの存在は国にとって大きい」
押し固められたかのような姫の声に頷いたクライドの脳裏に、教会からの帰り際、立ち寄った武器屋と街の様子が過ぎる。
店内にはあまり武器が置いていなかった。民は兵士を親族に持ちながらにして、物陰で武器を手に取る事を選んでいた。
今晩にでも行われるであろう歪な国の反乱を止められるとすれば、それは抑々のきっかけであるカルバスの王女の存在だけだろう。
「……選んだのよ」
「選ぶ、ですか」
「そう。選ばされた、なんてものは許せないもの。そうでしょう?」
「……それは姫様が、王族だからですか?」
「いいえ。私も、貴方も。カルバスの民もよ」
全て分かって落とされている。そう思える姫の言葉の響きにクライドは僅かに眉を寄せた。
「……逃げる、というのも選択の一部だとは思わないのですか」
「それを選択することは出来ないわ」
「自らの思いよりも取らねばならないものが有る、という事ですか」
「でなければ全てが無意味なの」
強く落とした姫の声が洞窟の内壁に遠く響く。
「彼だけが教えてくれたの、カルバスの皇女相手に全てを語ってくれたのは彼だけだったの。大切な……大切な、意味のある時間だったのよ、だから……」
言葉を一度切った姫は直ぐ、あっさりとした調子で笑みを浮かべる。
「なんにしても直ぐに死ぬわけもなし、呪いも解いてもらったから大丈夫よ」
「……はっ!? の、呪いが解かれたのですか?」
「そう。呪いは解け、あるべきものはあるべき場所に返ったの」
解呪の事実には驚くクライドだが、震える姫の手に未だ寒いのだろうかと今度は手袋を差し出す程に鈍感ではなかった。
自分自身は逃げる事を選んだ。過去のあの日にカルバスという国から逃げ出した事を、クライドは一度として後悔しなかった。
姫もそうなのだろうか。そう思えるのだろうか。そんな燻るような焦燥感に眉根を寄せたクライドは、相手の顔に浮かんだ笑みから視線を逸らす。
彼女は選択したのだろう。そう確信できる姫の笑みの中には、確かな魔王との時が存在していた。
「思いも夢も、全て形にして置いてきたわ」
遠くへと向けられた姫の声は、クライドの脳裏に魔王の城での情景を浮かび上がらせる。
「……どこかの国で耳にした御伽噺を思い出しました」
「御伽噺?」
「はい。悪い魔女に呪いをかけられ、百年間眠り続けた姫のお話です」
窓から煌びやかに差し込む陽光も小鳥の囀りも、召使が扉を叩く音もない暗闇は彼女に優しいものだっただろう。
小さな室内、ベッドと机と二つの椅子。四六時中の闇に灯るランプの元で幾多の会話が交わされたのか。
呪いが解けた姫はもう夢をみない。全ては時の流れを曖昧にする、閉鎖された空間でのお話。




