勇者と鴉の知人のよしみ
飛び起きたクライドは眼前に広がった大きな目玉へと、枕の下から素早く短剣を引き抜いた。
その刃の短さからして、どうしても至近距離。
弾力のある感触を裂けば魔物の体液がぶちまけられ、深緑の匂いがどっと溢れかえる。それをクライドは、当然頭から被る羽目になった。
即座に視界を覆う生温かさを拭い、反射的に閉じていた瞼を開けば、ベッドの上が大惨事と化していることが分かる。
「…………。」
一先ず動悸を落ち着かせようと。
頭に手をやり、立てた片膝に顔を埋めようとするが、クライドのそれらはどれもこれも魔物の体液でしとどになっていた。ぼとぼとと布団から床へと滴り落ちる水滴が、むわりとした温かさを放っている。
気分が悪い、どころの話ではない。
震える拳を握りしめ、クライドは細く深呼吸をした。
溢れかえった深い森の匂いは何処までも気分を落としこむ。目覚めと同時に目に入った魔物は、短剣に裂かれ中身を垂れ流し萎んでいる。
クライドは平べったくなった巨大な眼球の魔物を、とりあえず摘まみ上げてみた。そのままちらりとベッドに面した窓に視線を向けてみれば、外観は未だ宵闇に包まれて入るということが分かる。
しかし二度寝は出来そうにない。
取りあえず、この何をしに来たのか分からない物体を窓の外に捨てようと。
魔物をつまんだまま窓際へ足を進めたクライドは、鍵に伸ばした手を、ふと止めた。夜闇に紛れ此方を見ている、見覚えのある影がそこにあった。
「お前……!」
「いい格好だナ、勇者」
宙に留まった魔物の黒羽が大きく羽ばたく。
クライドは少しばかり逡巡した後、窓の鍵をあけ萎んだ魔物を放り落とした。その様子をじっと眺めるカラスが、羽根をたたみながら軽く首を傾ける。
「何をどうシたらソウなル?」
「……嫌な夢をみたらこうなる」
クライドは窓を閉めた。
「何故窓を閉めル!?」
ご丁寧に鍵まで掛けたクライドに、カラスが抗議の声を上げた。
「機嫌が悪いからだ」
追い払うように軽く手を振ったクライドは、重いため息を落とす。
カルバスには魔物が多い。ささくれ立った神経を鎮める為、八つ当たりするにカラスは適していなかった。
「……今は茶を出す気にもなれない、何しに来たか知らないがさっさと帰れ」
改めて顔面を拭ったクライドはむわりと鼻をついた深緑の匂いに、夢の名残りを感じる。
おぞましい夢だった――気がした。
内容は覚えていないものの、寝起きの感覚は最悪である。
けれど、そんなまどろみの残骸は時と共に霧散するだろう。しかし、魔物の体液によってこっ酷い有様になってしまったベッドは放っていても元には戻らない。
宿の店主に部屋を変えてくれというに、時刻は遅すぎた。
こうなれば野営かと。とりあえず身を洗いたい思いでベッドから降りようとしたクライドの耳にその時、窓を叩く硬質な音が届く。
「邪魔するゾ」
窓縁に舞い降りたカラスの影が、室内へと伸びている。
クライドが何と無く嫌な予感を過らせる中、滑らかに影は窓の枠を這い上がり、軽々と閉めたばかりの鍵を押し上げた。
「帰れと……言っただろう」
「知るカ。我は用があっテ来タ」
きっぱりと言い切り、当然の様に窓を開けたカラスに、クライドは眉を寄せ舌打ちをする。慌てて再度鍵を閉めようと伸ばした手は、少しばかり遅かった。
「全くなんだって魔物はそうなんだ、姫様の食事ならまだ足りているだろう」
「そンなものはどうでもイイ、今日は私用で来タ」
「どうでも良くないんだが。 大体、私用だと? 監視か何かか……まさか先程のもお前の仕業か」
眠っている間、いつからかじっとその様を観察していたのであろう、目玉の魔物。
窓を開けただけで部屋には入ろうとしないカラスに、クライドは鋭い疑惑を向けた。しかし、相手は首を振る。
「アノような魔物など我は知らン。物珍しサに入り込んだダケではないカ?」
「……本当か?」
「くどイ。……何だ、見ラレたくないモノでもあったカ?」
嘲弄するよう薄く開かれた嘴に短剣が飛ぶ。
カラスの影は即座に向けられた刃を弾き、鉛色の切っ先はクライドの元へと帰った。
「相変わらず短気な事ダ」
「気が立ってると言った筈だ」
碧眼を据わらせるクライドにカラスは肩を竦めるよう黒羽を上げる。
「ダカラなんだ、八つ当たりするナ」
「お前が勝手に入って来たんだろう!?」
「アト、うるさイ。今は夜更けダ」
まさか魔物から常識を諭されるとは思わず、クライドは露骨に舌打ちをした。戻ってきた短剣を手にしたまま、胡坐をかき、ベッドの背へと上体を預ければ、カラスが数回瞬きをする。
「なんダ、本当に機嫌が悪イな。何故ダ?」
「お前こそなんだ、心配でもしてくれているのか?」
鼻で笑い短剣を手に弄ぶ、見るからにやさぐれたクライドの態度を興味深そうにカラスが覗き込む。
「銀とイッテも本当に人と変わらなイと思ってナ」
「ああ変わらない。少しばかり特別扱いされるだけだ」
「アト機嫌が回復しなイ限り本題に入れない気がスル」
話を聞いているのか、と言いたくなるカラスの言葉にクライドは軽く息をつく。相手に退散の気配はない。力ずくで追い払おうとすれば夜更けの騒音に加え、破損物の弁償も免れそうになかった。
「俺の機嫌が悪いのはだな、見ろ。この部屋の有様を。到底楽しくお喋りなんて気分じゃないんだ」
「ソレは自業自得というものダ」
「目の前に巨大な眼球があれば切って当然だろう。そうだ、空気を読まない同族の不始末としてお前、これを何とか出来ないか」
散々な状態の布団をクライドが指させば案の定、カラスは不機嫌そうに羽根を膨らませた。
このまま気分を害して去ってくれればいいと思うが、しかし相手は動かない。
「知りモしない魔の後始末などダレがするカ! ……しかしマァ、そうだナ」
言うカラスの視線が布団を刺すクライドから机の上のランプへと流れる。
「魔が来たのはソレだけではなイ。ヤツには清掃の件で借りがあッタからな、丁度いいカ……」
「何?」
「動くなヨ」
問い返すクライドに短く飛んだ指示。カラスの足元の影が広がり、部屋の闇が一層深くなったかのようでクライドは反射的に身を構えた。
「動くなと言っただろウ」
「普通動くだろ! 何をする気だ!?」
鋭いクライドの視線にカラスがあからさまなため息を落とす。
「清掃しテやろうと言ってイル。あのランプの灯に籠った魔力には覚えガあル……アレに引かれて目玉はやってキタのかもしれン」
「ランプ?」
「知り合イに火を使う魔がいてな、ランプの灯はまぁ間違いなくソイツのものダ。独立してイルぶん呪いに近く見えるが、コレはまた違ウ。込められた魔力が消滅スれば火も消えル、まぁ単に少シばかり長く灯る蝋燭ダ」
説明の言葉を並べるカラスの足元へ、広がった影が収縮していく。それに伴い大参事だったベッド付近が全て元の色を取り戻し、唖然とするクライドの身から緊迫感が抜けた。
「どういう原理だ……」
「散ラかった魔の塊を取り込ンダまでダ」
「はっ? いまお前、食事したのか?」
そうとしか思えないカラスの言葉にクライドは膝立ちのまま目を見開く。魔物の食事といえば生物に頭から齧りつく印象しかなかった。
「モノを取り込む、とイう事を食事と呼ぶならソウなのだろウ……それヨリだ、面倒な事をサセタからには当然此方の要件も聞いテもらうゾ」
あくまでもカラスはしつこい。目蓋を半分おろし何処かほくそ笑むかのような魔物の態度にクライドは軽く息をついた。
「断る」
「ご、強情ナッ! この生意気な恩知らずメ!」
「そうだ、俺は強情で薄情で生意気で恩知らずだ。分かったならさっさと帰れ」
「勘違イするナよ、前置きを入レタのはあくまで知人の好というモノ。断ると言うなら力づくで行ク」
カラスの影が枝分かれし四方へと散開すると同時、クライドは速やかな腕の振りに合わせ上体を後方に倒し床に手をつく。肩に鋭い痛みが走るも無視し腹筋を一気に絞め、反り返った身体を振るに合わせて手で床を突き放した。
出来る事ならもう一度後方転回したいクライドだったがそれには手と足の距離が離れすぎている。
「オオッ、大道芸人!」
「勇者だ」
何処かずれた驚きの言葉に返し、着地したクライドは短剣を構えた。俗にダガーと呼ばれる短剣は指す事と投げる事には向くが、その小ささ故四方からの攻撃を弾くに向かない。本数さえあればカラス本体を狙う事も出来ただろうにと、内心舌打ちするクライドは警戒を尖らせる。
「確かにソノ何としてでも魔物なんゾには協力しなイ、という態勢は勇者といえば勇者だガ……ソレにしても気まぐれダ。魔物以上に気まぐれダ」
「魔物が気まぐれというのは一般的見解だろう」
恐らく城では特に暴れもしなかった穏便な勇者の態度を言っているのであろうカラスに、抑々魔の根城で単騎暴れまわるなど自殺行為であると、クライドは内心回想しながら返す。
伸びてきた影から身をかわしランプの傍に身を固めれば、それを目にカラスは顔を斜に伏せた。
「そうだナ、魔は基本的に迷わないカラな……時事に合わセ速やかに思考を切り替えるからコソ、人の目には気まぐれに映ル」
「自己分析出来ているようでなによりだ」
「お前もソウなのだろウ。判断が早イ」
闇を這う影はランプの灯の元にまでは伸びてこない。
その際ぎりぎりにまで迫り蠢く影を目に、やはり影は明かりの中には存在できないのだとクライドは再確認する。
「だが甘イ」
嘲笑するようなカラスの声を受け反射的に振り返ったクライド。
しかし時すでに遅く、その先ランプ自体から伸びた影が短剣を握った腕を拘束する。
「火は全テの根本。ソコに影が無いはずがなイ……ヤはり普通、影の切り離しはコウいう場合に使うと思うのだガ」
カラスが何やらを零す間にも、クライドの腕は巻き付いた影と拮抗していた。徐々に喉元へ近づいてくる刃に冷や汗が流れる。
「シカシどうにも意思あるモノの影は取り込んデも扱いにくイ……退魔となれば尚更、カ?」
「知るか!」
「ダガ疲労するも苦痛が無イ……退魔の能力は媒体が無ケれば発揮できぬと見ルべきカ」
考え事を口に出すのは癖なのか。淡々と呟くカラスもそれなりの疲労は感じているらしい。
己の能力についてなど深く考えた事がなかったクライドは、媒体という単語に即座、希望的判断を下した。
まだ自由に動く左手で短剣の刃を握る。一拍置いて流れ出た鮮血は媒体と呼べるのか分からなかったが、せめてもの気持ちでそこに殺意を込めて見れば、滴るそれから逃げるよう、瞬く間に影が腕を開放した。
あまりにも超自然的憶測だったぶん失敗すれば恥ずかしい事この上なかったが、なんとか成功したらしいとクライドはほっと胸を撫で下ろす。
「ヨシッ!」
しかし同時にカラスが発した歓喜の声。何事かと再度身構えたクライドの足元、落ちた鮮血を影が攫っていく。
「邪魔しタな、勇者。デハ」
「ちょっと待て!」
満足気に翼を広げたカラスをクライドは慌てて呼び止めた。
「何ダ、我は忙しいのダ」
「お前、本当に何しに来た!?」
どの口で人を気まぐれだなどと称したのか。
予測の範囲を超えたカラスの態度にクライドが問えば、嘴が軽く左右に振られる。
「全く、今になってソレか。我は銀の血を頂きに来たのダ」
「血!? せ、せめて監視だとか主を傷つけられた仕返しだとかじゃないのか?」
「うぬぼれルな。一応監視は仰セつかっテいるガ、主が捨て置イた者に構う程、我は暇ではナイ」
「だからといって血ってなんだ、おかしいだろう!」
影に攫われた鮮血は確かにカラスの足元にあった。
怪しげな魔術、という推測がクライドの脳裏を過るが、魔物がそんな回りくどい事をするとも思えない。
「全テはお前が魔王サマに付けた傷を治スためダ。しかし主はどうにモ、血を口にすルのを嫌がってナ……成分を伏セ、コッソリ傷薬を練ろうと思ウ」
「血で薬……!? かえって悪化するだろ……」
まるで好き嫌いをする子供の母かの様なカラスの言葉に、クライドは首を振る。
そんな理解不能の態を露わにすれば向き直ってくるところ、カラスは中々面倒見が良いようだった。
「人に分かりやすイよう言えばそうダナ、毒蛇にかまレタ治療に同じ蛇の毒を使うのと同じダ」
「違うだろ」
「うるさイ。ともかく我は決シテ魔王様に汚物を向けル思イではナイという事ダ」
「汚物……!?」
それならばまだ血と言われた方がましなクライドだが、とんでもない話なのはどちらにしても同じ。
速やかに止めようと伸ばした手は間に合わず、カラスは血を引き連れ窓縁から飛び立った。
「シかし今日のお前を見テ思っタ。やはり変化には原因がアルとナ」
宙に滞空しながら告げるカラスは、恐らく先程までの勇者の不機嫌さを言っているのだろう。
クライドは窓から上体を乗り出し手を伸ばすも、その指先は相手に届かない。
「そんな事はどうでもいいから血を返せ!」
「ソノ変化が頭悩ますものなラ、原因の排除が一番だナ」
「それはそうだろうが、とりあえず戻ってこい!」
クライドがどうにもならない指先を無駄に足掻かせる中、薄く嘴を開いたカラスは笑っているかのように見えた。
「ヤハリそうカ。自信がついタ……魔王サマの件は正直腹立たシイが一応、感謝するゾ勇者」
一見礼儀を弁えているよう見えるカラスは、しかし何も弁えていない。静止を聞かず飛び去った黒鳥のあとを、数滴の血液が綿毛のような軽やかさで追っていく。
やはり主を傷つけられた嫌がらせだったのではないかと呆然と窓縁を握ったクライドの視線の先、月光に照らされた影は一直線に魔王の城へと帰っていった。