世界で一つの香り(四)
その夜のことだった。
実は昼に国庫管理課に届ける資料を見て不審に思ったことがあった。
全体的にばらつきがあると思っているが、よく見ると物納である年貢方は少なくないのに、税収の方が減っている。
税収入を持っている貴族はその収益によって税の加算が決まるが、その主な部分は物品の売り上げに依存しているはずである。
つまり何かの要因があって特産品の売買が不振だったことが考えられる。
だが不思議なことに物品の年貢は変わらないのに貨幣税収だけが減っているのは少しおかしい。
特に顕著なのはラバール伯爵領だった。
ラバール伯爵領を含め不審な税収のある地域がどこなのかを知るためにスライブは夜の図書室に調査をしに来たのだ。また、もしこれが不正ならば流通過程で何かの問題があるのかもしれない。とにかく調査は必要だった。
深夜の図書室など人はいないはずでゆっくり調べ物をして頭が整理できるだろう。そう思って図書室を開けると意外な人物がいた。
セシリアは窓べりに腰かけて何かを読んでいたが、その姿は執務中のものとは違く、非常に薄着だった。
少し顔が赤く火照っているように見えるのは風呂上がりなのかもしれない。
近づいてみるとセシリアのあの香りがいつもより強く香ってきて、その色香に思わず胸が高鳴った。
(それにしても……目の毒だな……)
セシリアは薄着で女性らしい柔らかな体つきが見える。本人は気づいてないようだったが、見ているこちらとしては意識してしまう。
とりあえず話に集中しようと何をしているのかを聞いてみると気候のデータをチェックしているという。
その他にも聞いてみるとトーランドにはない測量方法を行っていることを知った。と同時に自然任せにしている農業というものもデータを取れば不測の事態に対処できる可能性も示されて、この考えにも舌を巻く。
菜園についてもより効果のある薬の開発のために行っており、それらを全て論文や文献などから知識を得ているようだった。
少年王という名に慢心するのではなく、自ら考え民を導く姿勢。
同じ王族という枷を持っているスライブにセシリアは眩しく見える。そしてセシリアと共に歩けるように自分も努力しなくてはと強く思ったのだった。
スライブが少し無言でいると何を勘違いしたのか、セシリアは少し苦笑したように言った。
「ルディも僕が奇想天外な行動をすると思ってるんだろう?」
きっと今までにない政策を打ち出す年若い王の行動をそう揶揄されるのだろう。
"貴賤問わず最低限の衣食住が保証されて、教育や医療が受けれるようになる"
あのランドールの丘でそんな信念を語ったセシリアを思い浮かべた。
彼女はそのために努力を惜しまない。なんと言われようと行動を起こす。それがより良い国になるためだと信じて。
だからスライブはゆっくりとセシリアの瞳を見つめて言った。
「私はそうは思いません。陛下は自分の信念のままに生きているのですね」
よく頑張っているという思いが少しでも伝わればいい。
そんな君が好きなんだと伝えられればどんなにいいのか。
じっと見ていると不意にセシリアが目を逸らした。少し顔が赤い気がするが……どうしたのだろうかと思っていると、セシリアがスライブが探していた本を取ってくれるという。
女性に梯子を上らせるなど危険なので止めさせたいが、セシリアは言うことも聞かずに慣れた足取りで梯子を上って行く。
そして案の定というか、バランスを崩して梯子から転げ落ちた。
スライブは慌ててセシリアを背後から支えようとしたが、勢いづいた梯子は止まることなく倒れてきて、スライブもろとも押し倒したのだった。
(!!胸が!!当たってる……!!)
湯上りで胸当てをしていなかったのだろう。薄着でセシリアに乗りかかられる格好では、セシリアの双丘がスライブの胸に当たる。そして鼻孔をくすぐるセシリアの香り。
スライブは反射的にセシリアを抱きしめたくなった。そして押し倒してキスをしたい衝動に駆られた。
それをなけなしの理性をフル動員して何とか押し留める。
だが、そんなスライブの怒涛のような心中も知らず、更にセシリアはスライブの顔を覗きこみ、スライブの怪我の心配をしている。
(赤く色づいた唇を塞ぎたい)
そんな不埒な考えを何とか捨てて、平静を装って立ち上がった。セシリアは悔しいくらいに平然としてスライブが探していた本を渡してきた。
動揺を抑えつつもその本を受け取りさっさと図書室から出ようとしたところ、またセシリアは変なことを言い出したのだ。
セシリアがいかに魅力がないかを熱弁している。
(自分を嫌われようとしている?そんな言葉で俺を諦めさせようなんて……無駄なことを)
しかもどうやらセシリアはスライブが自分を好きな理由が命を助けたからだと思っているようだ。
「うーん。やっぱり分かってないなぁ」
何故自分が好かれているのかが分かっていないのかと思わずぼやいてしまう。
彼女にとっては命を救ったことも、その言葉でどん底にいたスライブを救ったこともごく自然のことだったのだと思うと同時に、だからこそスライブを救うことに対しても特別な感情はなかったのかもしれない。
だから少し意地悪をしたくなったのだ。自分を振り回しておきながら平然としているセシリアに。
「はい、男性にしては華奢ですし。少し筋肉がないのか女性のような抱き心地です。柔らかくて、正直女性のような体つきですし」
「だ、抱き心地?!」
「ええ、この間刺客に襲われた時に少し触れされていただきましたが。あまりにも華奢て折れてしまうのではと心配になりましたよ。まるで女性みたいな」
その体が柔らかいことも、少年王がセシリアであり女性であることに気づいているということを匂わせた。
だがセシリアの反応はまた予想外のものだった。
「筋トレをすればいいのか?」
「そう来ましたか……」
予想の斜め上を行く言葉に少し頭を抱えつつ、スライブはまたセシリアを見つめる。
早くセシリアから真実を聞きたい。
セシリアの口から自分の名前を呼んでほしい。
心身ともにもっと近づきたい。
そんな思いを乗せて呟いた言葉は果たしていつかセシリアに届くのだろうか。
踵を返して図書室を出ると、先ほど抱きしめた時の移り香が自分からしてきた。
顔が赤くなっている自覚はある。手で口元を塞いでため息をついた。
この香からはもう抜け出せないと改めて知ったのだった。