プロローグ
カチッ、パチン――と、硬いソケットの中で電球がうまく噛み合わず、彼は小さく舌打ちをした。
「なんでこう、最後の一回転が入りにくいんだよ……」
東京郊外の築三十年のマンション。その三階の共用廊下。
仕事帰りにスーツのままで、懇意にしている住民に頼まれた電球交換をこなしているのは、28歳の会社員――管理会社に勤めるこのマンションの運営担当だった。
脚立は持ってきていなかった。というより、「面倒だからいいか」と、廊下の手すりに片足を掛けての作業を選んでしまったのだ。
今思えば、完全にアウトだった。
そのときだった。
パキッと小さな音がして、彼の履いていた革靴の底が鉄製の手すりから滑った。
「あっ……」
次の瞬間、世界が反転した。
重力が襲いかかる感覚、風のように抜ける意識。背中から地面へ落ちていくはずの体――だが、着地の衝撃は来なかった。
かわりに、白。
視界のすべてが、眩しいほどの白い光に包まれた。
「なんだこれ……どこだ、ここ……」
耳鳴り。心臓の鼓動がやけに大きく響く。
まるで時間の流れが止まったような、静止した世界に一人取り残されたような感覚。
周囲は空っぽで、床も空もなく、ただ自分という存在だけが浮かんでいるようだった。
やがて、意識が糸のようにほどけていく感覚が彼を襲い、彼はそのまま、真っ暗な眠りに落ちた。
* * *
――カタン。木の窓枠が、風に揺れた音で目を覚ました。
まぶたを開けた瞬間、まず視界に飛び込んできたのは、木で組まれた格子状の天井だった。
その下には、しっかりとした作りのベッドと、厚手の毛布。空気はやけに澄んでいて、どこか森林の奥にでもいるかのように静かだった。
「……病院? じゃないな……ここは……?」
体を起こすと、軋む音が静寂に響いた。壁は石造りではなく、磨かれた木板。家具は西洋風の装飾が施されており、窓の外には高い木々と、小さな噴水のある庭が見える。
あまりにも現実離れした光景だった。
夢でも見ているのかと思った。
だが、肌に感じる布の質感や、窓から吹き込む風の冷たさ、そして心臓の鼓動はあまりに現実的すぎた。
そして、目線を落とした先――小さな机の上に、一通の封筒が置かれていた。
上質な紙に金色の紋章。達筆な筆文字でこう記されていた。
『ようこそ。異世界よりの来訪者よ』
その一文を読んだとき、彼は思わず声に出して笑ってしまった。
「マジかよ……漫画みたいな展開だな……」
だが、心のどこかで理解していた。
あの落下の瞬間、自分はもう、あのマンションの廊下にはいなかったのだと。
ここは――見知らぬ世界。けれど、妙に現実味のある、もう一つの現実。
そうして、28歳、会社員。マンション管理会社で日々忙しく働いていた彼の、異世界での新しい日常が始まることになる。
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