019.思い出
蔵を改造した書庫は、いつ来てもヒンヤリとした空気で出迎える。微かな紙と墨の匂いと、高い位置から差し込む光。持ち主の性格が反映されているのだろう、分類ごとに行李や木箱に納められた書物たちは、すました顔で此方を見ていた。
「技術はね」
その人はゆっくりした声で語る。
「口伝だけだと廃れるんだよ」
「くでん、すたれる、ですか?」
幼い子供の甲高い声が、疑問符を付けて書庫に響いた。
「あー、口伝っていうのは実際にやってみせたり、口で説明したりすることで、廃れるっていうのは、忘れるとか無くなるとかそんな意味の言葉だよ」
子供に説明するのは難しいなと言いつつ、幼子が興味を持つこと自体は嬉しいのだろう。柔らかく笑って手引書を開いて見せた。
「ほら、こうやって本に残しておけば、たとえ教える人がいなくなっても確認できるだろう?」
其処に書いてあったのは、初歩的な心力の使い方についてだった。
幼子は、ふっくらした指で文字をなぞりつつ、たどたどしい物言いで言葉を紡ぐ。意味が分からないところは教えを乞うようにチラリと上目遣いで見つめると、その人は破顔して丁寧に教えてくれた。
「ね? こうやって手引書に添って教えられれば、次にどうだったか確かめたい時、また見返せばいいだろう?」
「それは、伯父上のお教えが良いからです」
幼子は何かを思い出してムッと口を尖らせた。
「父さんが教えてくれたように、チロとか、グンとか書かれたら、読み返しても分からないと思います」
「あー……アイツは感覚派の天才肌だからなぁ」
困ったように伯父は笑う。
「だったら、自分が分かるように書いて残しておけばいい。自分の言葉で書くんだ、忘れることはないだろう?」
「自分で、ですか?」
「そう、自分でだ」
頭をなでる伯父の大きな掌。ジトリと見ればにこりと笑う。
「難しいです。私には、無理そうです」
「大丈夫だよ」
しょぼんとした顔をした自分を抱き上げて、伯父はぐるりと書庫を見回した。
「そのための手引書はたくさんある。たくさんの本を読んで、たくさん学びなさい。どういう言葉を使えば後で読み返した時に、その時のことを思い出すことができるのだろうかと、ほんの少し頭の隅に入れて、本を読むと良い」
「たくさん、本を読む、ですか?」
ぎゅっと伯父に抱き着いて、行李や木箱の群れを見る。
「難しそうです」
「そんなことはないさ」
伯父は笑うと、また座って膝の上に抱えてくれた。
「もちろん、最初から難しい本に挑戦したら挫折……途中で分からないってなるかもしれない」
こくりと幼子は頷く。
「でもね、段階を踏んで……簡単な本から読んでいって、分かったら少し難しい本に挑戦して、それが読み終わったら、またちょっと難しい本を読んで……そうやって行けば、やがては難しい本も分かるようになるんだよ」
「簡単な本を読んでから、少し難しい本で、最後は難しい本ですか?」
「そう。そうやって少しずつ学んでいくんだ。何事も一足飛びに進むのは良くないからね」
「……何かよくわからないです」
むぅっと不満げな幼子の姿に、伯父は楽しげに笑った。
「大丈夫。そのために先生たちがいるだろう? 私だっているし、周りの大人だっている。キミがどう進めばいいのか迷った時に道を示してあげよう」
「先生には言えません。私が駄目なところしか答えてくれぬのです」
しょげかえる幼子に聞こえぬよう伯父は微かな声で呟いた。
「そうか……駄目としか言われないのだな。それは困ったことだ」
ゆっくりと幼子の頭をなでる。
「お前にもその教育は合わないのであろうな……難儀なことだよ」
そう誰に言うとはなしに呟きながら、遠くを眺めていた。
そして、何かを思い出したように、目を細めるとゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「駄目と言われるのは辛い。ただね……駄目と言われて諦められるなら、それはそこで終わらせていいと思うよ。でもね、たとえ駄目と言われても自分の考えを諦めきれなかったら、きっとね、駄目の方が間違いなんだ。内緒で頑張ってもいい……私はね、そう思うんだよ」
キョトンとした顔で見上げる幼子を優しい目で見つめた。
「そうやって、私もキミの父さんも大人になったんだから」
だから頑張ってもいいんだと伯父は言外に認めてくれたのだ。
その言葉を胸に、先生を始め大人たちに「駄目」と言われて諦められるものかどうか自分の中で測り、諦めきれなかったら周囲に分からぬよう努力した。
多分、伯父はその姿を見ていたのだろう。調べるために書庫に行けば、その時必要な書物が見えるところに置いてあった。あの整理整頓を常としている伯父が、置き忘れるはずがない。
見守っていてくれる大人がいる。それだけで、心強くなれたものだった。守られていたのだ。
あんなことがなければ、オレはゆっくり大人になれたのだろう。
伯父が亡くなったのだ。その原因の一つが父の刀だった。
周りの自分を見る目が辛かった。その時すでに、母は父を止めるために命を落としていた。伯父の妻である伯母は、領地の立て直しに奔走していた。
自分の傍には誰も居なかった。
最後に書庫を訪れた時、其処に必要な書物は置いてなかった。行李や木箱に収まった書物たちは冷たい目で此方を見ていた。
無言で主人を返してくれと言われているようで、慌てて書庫から逃げ去った。
そのまま、衝動的に旅に出た。誰にも何も相談できなかった。ただ、逃げたかっただけかもしれない。
人気のない道をトボトボと歩く自分。その前を歩いていた行商人の男の服の隠しから何かが落ちた。転がり落ちたそれを、思わず拾った。何だろうと手にあるものを見ようとした時だった。
「クソガキが! そんな小さな成りでコソ泥か?」
男に手を掴まれ、怒鳴りつけられた。その時まで、そんな大声で怒鳴られることなどなかったため、何が起こったのか理解するまで時間がかかった。
それが男には惚けているように見えたのだろう。さらに怒りだし、掴む手に力がこもった。
子供の細腕である。ギリギリと握り込まれる手の力の強さに、痛みに悲鳴を上げるも、止める者は誰も居なかった。
男の太い腕が振りかぶるのが見えた。
反射的に、ぶたれると思った。思わず掴まれていない方の手を頭の上にかざして防御し、それでも恐怖に目を開いていられなくてグッと閉じて、出来るだけ縮こまる。
衝撃は、来なかった。
「おっさん……流石にそれはねぇと思うぜ?」
年若い男の声がした。目を開けて、そっと窺うと、青年が振り上げた男の腕を掴んでいた。
「紐、擦り切れてんじゃん。大事なもんは、落とさねぇように、ちゃんと確認しろって」
青年はギリリと掴んだ腕を握りしめる。自分を掴む男の力が緩むと同時に、男の顔は痛みに歪んだ。
「は、離せ……」
「そっちも離してやれよ。誤解だったんだろ?」
パッと腕を離された。慌てて手を自分の胸元に押し付けて男から二歩距離を取った。
男が腕を離したのを確認したのだろう。青年は男の手を放しつつ、二人の間に入ると「ガキにあたってんじゃねぇよ」と呆れたように男に告げた。
「契約切られたのは、おっさんの身から出た錆だろ? 次んとこでも同じことにならねぇといいな」
手の中にあった拾った何かが、いつの間に青年の手の中にあって、青年は其れを男に投げつけた。慌てて拾った男は、悔し気に「覚えてろ」と怒鳴ると足早に立ち去る。
どうやら因縁のある相手だったようだ。
何が起こったか分からず目を白黒にしていると、青年は此方を振り返り、微妙に驚いたような顔をした。
「……?」
「……あー、坊主、どうしたんだ? 迷子か?」
フルフルと頭を振る自分に、青年は「どーすっかなぁ」と何かに迷うような素振りを見せる。
このままでは連れ戻されるのではと、身体中から冷たい汗が噴き出してきた。
(どうすれば……)
「家まで送ってくぜ」
フルフルと頭を振った。
「家……ない……」
「……」
黙り込んで下を向く。帰れないのか、帰りたくないのか、自分でも分からなかった。ただ、居られないと思って飛び出したのだ。
「そっか……」
青年の手が頭に乗った。
「じゃぁ、旅でもするか?」
「え?」
思わず青年の顔を見た。
「そのかわり、楽じゃねぇぜ? っていうか、苦労しかしねぇ」
こくんと頷く。
「それに、なんだ……あー、毎日が勉強の連続だ」
もう一度頷いた。
「旅、する」
「そっか」
仕方ないなぁとでも言わんばかりの苦い笑みを浮かべた青年は手を差し出した。
「最初は手を引いてやる」
おずおずと自分も手を差し出した。
「でもな、すぐに放す。だから、それまでに色々見て覚えろ」
こくんと頷いたら、ガシリと手を握られた。
「俺は黒鋼屋の黒ノ助」
「私は……」
シッカリと黒ノ助の顔を見て答えた。
ニカリと笑った黒ノ助は「よろしくな、相棒」と応えると、「行くぜ」と歩き出す。
その後を必死で追いかけた。




