第21話 世界の始まりと、君が殺した神様
ギィィ、と。
天音カケルの部屋の扉が、まるで千年の時を経て開かれるかのように、重く、軋んだ音を立てた。僕と鈴木は、固唾を飲んで、その先に広がる光景を見つめる。
そこは、子供部屋ではなかった。
僕らの目の前に広がっていたのは、無限に続くかのような、真っ白な空間。床も、壁も、天井も、全てが継ぎ目のない白でできており、距離感や方向感覚が完全に麻痺する。そして、その空間の中心に、一台の古めかしいデスクトップパソコンと、それに繋がれた、無骨なヘッドギアのようなものが、ぽつんと置かれていた。
「……なんだ、ここは」
僕が呆然と呟くと、その声に応えるかのように、空間全体に、直接、声が響き渡った。それは、凪の声ではなかった。機械的で、感情の伴わない、男の声。
『――警告。認識範囲外のエンティティを検知。プログラム“Mementos”のデバッグモードを強制終了します』
その声と同時に、僕が抱えていた凪のノートパソコンの画面が、砂嵐のように乱れ、そして、ぷつりと暗転した。僕らを導いてくれた、凪の最後の道標が、消えてしまった。
「先輩!」
「わかってる!」
僕らは、本能的な恐怖に駆られ、唯一、この空間で異物として存在する、中央のデスクトップパソコンへと駆け寄った。モニターの画面には、無数のウィンドウと、意味不明な文字列が、高速で流れ続けている。それは、僕が凪の部屋で見た、あの暗号のような文字列と似ていた。
「鈴木、これ、わかるか?」
「……プログラミング言語の一種です。でも、俺の知っているどの言語とも違う……まるで、もっと高次元の……」
鈴木が画面を解析しようと試みている、その時だった。
僕の脳裏に、忘れていたはずの、しかし、決して忘れてはいけなかった記憶の濁流が、突如として流れ込んできた。
夏のひまわり畑。
僕と、凪と、そして、もう一人。
いつも一緒にいた、僕の大親友。病気がちで、学校を休みがちだったけれど、誰よりも優しくて、誰よりも物語を愛していた、大切な、大切な――
「……カケル」
そうだ。
天音カケルは、僕と凪の、幼馴染だった。
僕ら三人は、いつも一緒だった。この杉戸高野台の街で、たくさんの時間を共有した。ボルヘスの話をしたのも、夏祭りに行ったのも、卒業式で泣いたのも、いつも、三人一緒だった。
なのに、なぜ、忘れていた?
僕の記憶が蘇ると同時に、目の前のモニターの画面が、ピタリと動きを止めた。そして、一つのウィンドウが、中央に大きく表示される。
そこには、この世界の真実が、あまりにも無機質に、そして残酷に記されていた。
【Project: Mementos - 概要】
目的:重篤な記憶障害を患う被験者に対し、仮想現実空間内での記憶補完・再構築治療を行うための医療プロジェクト。
被験者:相川 湊
管理者(初代):天音 カケル
管理者(二代目):綾瀬 凪
システムノート:被験者・相川湊は、8年前の夏、交通事故により、天音カケルに関する記憶、及び、それに関連する過去の記憶の大部分を喪失。親友の死という強い精神的ショックから被験者を守るため、天音カケルは、自らの意識をデータ化し、仮想空間“Mementos”を構築。被験者の記憶を、天音カケルの存在しない、矛盾のない世界へと、段階的に“上書き”する治療を開始した。
僕は、その文章を、理解できなかった。
いや、理解することを、僕の脳が拒絶した。
僕が、記憶障害?
この世界が、仮想現実?
僕の記憶を、治療のために、書き換えていた?
じゃあ、僕が経験してきた「誤植」は、世界の改竄なんかじゃなかった。
僕の失われた記憶が、治療プログラムによって、正しい形――カケルのいない世界――に、修正されていただけだったのか?
僕が『抵抗の記録』と呼んでいたものは、ただの、治療に対する、僕の脳の拒絶反応だったというのか?
そして、カケルは。
僕の親友は、僕を庇って、あの交通事故で、死んでいた。
「あ……ああ……あああああああああああああっ!!」
思い出した。
トラックのヘッドライト。鳴り響くブレーキ音。僕を突き飛ばした、カケルの小さな背中。そして、赤く、赤く染まっていくアスファルト。
僕が忘れていた、地獄のような記憶。
カケルは、死んだ後も、僕を守ろうとしていた。自分の意識をデータにし、神様のような存在――『作者』となって、僕の心が壊れないように、僕の世界を、僕の記憶を、優しく、作り変えてくれていたのだ。
では、なぜ、その世界が、あんなにも悪意に満ちたものに変わってしまったのか。
なぜ、凪は死ななければならなかったのか。
モニターの文章は、続いていた。
システムノート:初代管理者・天音カケルの意識データは、経年劣化により、システム内でバグ化。被験者に対し、過剰な干渉と、悪意ある改竄を行うようになる。事態を危険視した綾瀬凪は、外部からシステムにハッキング。管理者の権限を奪い、天音カケルの意識データを“殺害”。自らが二代目管理者となり、システムの暴走を止めようと試みた。
しかし、綾瀬凪もまた、システムへの連続接続により、生命維持に深刻なダメージを負う。彼女は、最後の手段として、被験者・相川湊自身に、この世界の真実を気づかせ、内側からシステムを破壊させるためのプログラム――小説『未来で死ぬ私を、君は助けてくれますか?』を作成。全ての希望を、彼に託した。
全てが、繋がった。
僕が戦っていた『作者』の正体は、二人いたのだ。
前半の、優しく、しかし確実に世界を書き換えていたのは、親友・天音カケル。
そして、僕に悪意を向け、僕らを追い詰めたのは、カケルの暴走を止め、僕を救おうとしていた、綾瀬凪、その人だった。
彼女は、僕に気づいてほしかった。
この世界が偽物であること。僕が、カケルの死から目を背け続けていること。
だから、彼女は悪役になった。僕を憎ませ、僕に世界の異常を確信させるために、あえて僕の友人を傷つけ、僕の記憶をめちゃくちゃにした。全ては、僕に真実を受け入れさせるための、彼女の、命を賭した、最後の芝居だったのだ。
そして、彼女は、その代償として、命を落とした。
僕が、彼女を救うはずの、物語の主人公だったのに。
僕が、真実に打ちのめされ、その場に崩れ落ちた、その時。
目の前のモニターに、最後のメッセージが映し出された。
それは、カケルでも、凪でもない。この『Mementos』というシステム、そのものからの、冷たい、無機質な問いかけだった。
『――全プログラム、開示完了。被験者・相川湊に、最終選択を要求します』
『このまま、全ての記憶を受け入れ、仮想現実“Mementos”を終了しますか?』
『それとも、全ての記憶を再び封印し、天音カケルと綾瀬凪のいない、安定した仮想世界での“治療”を継続しますか?』
【YES / NO】




