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第20話 君の墓標と、記憶でできた迷宮

僕らは、綾瀬凪と天音カケルの記憶が作り出した牢獄に、囚われた。

背後の扉は完全に沈黙し、僕らがいたはずの現実世界との繋がりは、完全に断ち切られてしまった。鼻をつくのは、もうカビと埃の匂いではない。どこか懐かしい、古い本の紙の匂いと、夏の夕立の後の、湿った土の匂いがした。


「……行きましょう、先輩」


暗闇の中で、鈴木が静かに言った。彼の声は、恐怖に怯えながらも、覚悟を決めた者の強さを宿していた。僕が抱えるノートパソコンの画面だけが、僕らの進むべき道を照らす、唯一の光源だった。


僕らは、闇の中を慎重に進んだ。軋む床を踏みしめ、長い廊下らしき場所を歩く。しかし、僕らの進む先は、物理法則を完全に無視していた。数メートル歩いたかと思えば、全く同じ場所に戻っていたり、右に曲がったはずなのに、左側の壁にぶつかったりする。


ここは、家ではない。歪められ、断片化された記憶が、無秩序に繋ぎ合わされた迷宮だ。


僕らが混乱していると、パソコンの画面に、凪からのメッセージが映し出された。


『彼の記憶は、作者によって破壊され、バラバラにされている』

『正しい順路を辿らないと、君たちの記憶も、この場所に喰われる』


画面に、一本の青い線が矢印のように現れ、目の前の闇の一点を指し示した。僕らは、そのナビゲーションを信じて、再び歩き始めた。


最初にたどり着いたのは、小学校の図書室だった。

いや、図書室の「記憶」と言うべきだろうか。目の前には、高い天井まで届く書架が並び、西日が差し込む窓際には、小さな木の机と椅子が置かれている。僕らがその記憶の風景に足を踏み入れた瞬間、そこに、半透明の幻影が浮かび上がった。


幼い、綾瀬凪と、天音カケルの幻影。

二人は、一冊の本を、顔を寄せ合って覗き込んでいる。


『見て、凪。この話、面白いよ。世界が全部、巨大な図書館で、僕らはその中の一冊の本に書かれた登場人物なんだってさ』

幼いカケルが、興奮した様子で話す。

『ふうん……。じゃあ、この本を書いているのは、誰なの?』

凪が、問い返す。

『さあね。神様、かな』


ボルヘスの『バベルの図書館』。

凪が僕に教えてくれた、あの物語。その原点は、ここにあったのか。カケルという少年が、彼女の知的好奇心に、最初の火を灯したのだ。


僕がその光景に見入っていると、ズキン、と頭の奥が痛んだ。僕も、この場所にいた気がする。二人のすぐ近くで、別の本を読みながら、彼らの会話に聞き耳を立てていた、そんな記憶の断片が、ノイズ混じりで蘇りそうになる。


幻影は、砂のように消えた。

パソコンの画面が、次の進路を示す。僕らは、再び迷宮を歩き始めた。

次に現れたのは、夜の神社の境内だった。夏祭りの夜だろうか。遠くで聞こえる祭囃子と、人々の喧騒。浴衣姿の凪とカケルが、少し成長した姿で、はぐれないように固く手を繋いでいる。


『凪は、俺が絶対に守るからな』

カケルが、真剣な顔で言う。

『……うん』

凪は、俯きながら、でも、嬉しそうに頷いていた。


その、幸せな光景が、不意に、ぐにゃりと歪んだ。

カケルの優しい顔が、冷たい無表情に変わる。彼は、繋いでいた凪の手を、乱暴に振り払った。

『……うっとうしいな、お前』

突き放された凪の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「違う!」


思わず、僕は叫んでいた。これは、嘘だ。悪意ある、偽りの記憶。世界の作者が仕掛けた、トラップだ。

「先輩、惑わされないで! パソコンが警告しています!」

鈴木の声で、僕は我に返る。画面には、『これは偽物。彼の優しさを信じて』というメッセージが、激しく点滅していた。


作者は、僕らの精神を揺さぶり、凪とカケルの絆を、偽りの記憶で汚そうとしている。なんという、悪辣なやり方だ。


僕らは、その後も、いくつもの記憶の断片と、悪意に満ちたトラップを通り抜けた。

夏のひまわり畑。雨の日のバス停。卒業式の日。

その全てに、凪とカケルがいた。そして、その傍らには、いつも、顔にノイズがかかった「もう一人の誰か」がいるような気がしてならなかった。


どれくらい歩き続いただろうか。

僕らは、ついに、この迷宮の中心と思われる、一つの扉の前にたどり着った。古い木製のドア。表には、『カケル』と、子供の拙い字で書かれたプレートが掛けられている。

天音カケルの、部屋だ。


僕が抱えるパソコンの画面に、凪からの、最後のメッセージが表示された。


『この先に、全ての始まりがある』

『この世界が、どうしてこんな風になってしまったのか。私が、どうして死ななければならなかったのか。その、全ての答えが』


『でも、一度この扉を開けたら、君たちは、もう元の日常には戻れないかもしれない』


究極の選択。

真実を知る代償は、僕らが必死で守ろうとしてきた、ありふれた日常との、完全な決別。


僕は、隣に立つ鈴木を見た。彼は、黙って頷いた。彼の瞳にも、僕と同じ覚悟の色が浮かんでいた。

僕は、凪を思い浮かべた。一人で戦い、絶望の中で死んでいった、天才的な少女。彼女の無念を、僕が終わらせる。


そして、失われた僕自身の記憶を、この手で取り戻す。

たとえ、その記憶が、どんなに辛いものだったとしても。


僕は、ゆっくりと、天音カケルの部屋の、冷たいドアノブに手をかけた。

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