第20話 ネクロマンサーの覚醒
祭壇の前で、ノアは立ち尽くしていた。
『死者を支配する者よ』
『お前は、死者の声を聞く覚悟があるか』
黒い石に浮かんだ文字は、しばらくすると消えた。
代わりに、祭壇の奥に刻まれた紋様が淡く光り始める。
「覚悟って……何をすればいいんだ?」
ノアが問いかけても、返事はなかった。
フィアが隣へやって来る。
「さっきの死体たちは、もう動かないみたい」
地下室を振り返ると、五体の死体は膝をついた姿勢のまま静止していた。眼窩の黒い光も消えている。
まるで、長い役目を終えたかのようだった。
「でも、完全に死んだわけじゃない気がする」
「死体が死んだ、というのも変な話ね」
「……そうだな」
ノアは苦笑した。
笑える状況ではない。それでも、フィアの言葉に少しだけ緊張が解けた。
彼は祭壇へ向き直った。
黒い石の周囲には、五つの窪みがある。そのうち四つには、赤、青、緑、白の小さな石が埋め込まれていた。最後の一つだけが空いている。
ノアは自分の手を見た。
ネクロマンサー。
五つの職業の中で、誰も選びたがらなかった職業だ。
死体を動かす。死者を操る。人々から恐れられ、冒険者の仲間にさえ入れてもらえない。
そんな力を、自分は何のために使えばいいのだろう。
村で少女を助けられなかったことが、今でも頭から離れない。
あのとき、もっと強ければ。
もっと早く動けていれば。
誰かを守る力があれば。
けれど、目の前の祭壇が求めているのは、単純な強さではないように思えた。
「ノア、無理に触らなくてもいいんじゃない?」
フィアが言った。
「何が起こるか分からないし、ここから出ることを先に考えましょう」
「そうだな。ここに長居する理由はない」
ノアは祭壇から離れようとした。
その瞬間、黒い石が脈打った。
ドクン。
まるで心臓のような音がした。
ノアの胸の奥で、何かが応える。
頭の中に、無機質な声が響いた。
『適合者を確認』
『職業情報――ネクロマンサー』
『第一層試験、暫定合格』
「暫定……?」
次の瞬間、ノアの視界が暗転した。
目の前に、知らない景色が広がる。
灰色の空。崩れた城壁。地面を埋め尽くす無数の遺体。
その中心に、一人の男が立っていた。
黒い外套をまとい、顔は影に隠れている。片手には杖。もう片方の手には、黒い光を放つ石が握られていた。
男の足元には、何十体もの死体が並んでいる。
だが、彼らは男に襲いかかることも、命令を待つこともなかった。
まるで、生きていたときと同じように、静かに横たわっていた。
『死者を支配することと、死者を使うことは違う』
男の声が響く。
『死者には、死者の終わりがある』
『その終わりを奪うなら、お前は何を返す?』
ノアは声を出そうとした。
だが、口が動かない。
男がゆっくりと振り返る。
その顔を見ようとした瞬間、景色が砕け散った。
「――っ!」
ノアは祭壇の前で膝をついていた。
フィアが肩を支えている。
「ノア! しっかりして!」
「今のは……何だったんだ」
額から汗が流れていた。胸が激しく上下し、頭の奥がずきずきと痛む。
祭壇の黒い石には、新たな文字が浮かんでいた。
『技能を獲得しました』
『残響感知』
ノアは文字を見つめた。
「残響感知……?」
意味は分からない。
だが、名前を見た瞬間、先ほどの感覚が蘇った。
骨を通して、階段の下にある死体の存在を感じたとき。あのとき、自分は死者の輪郭に触れていた。
残響感知は、その感覚を意図的に使うための能力なのかもしれない。
ノアは床に落ちていた小さな骨片を拾った。
目を閉じ、意識を集中する。
冷たい感覚が指先から広がった。
骨片そのものの形だけでなく、かつてそれが存在した場所のようなものが、かすかに伝わってくる。
古い石床。
湿った空気。
そして、微かな恐怖。
ノアは慌てて手を離した。
「……今、何かを感じた」
「どんなもの?」
「はっきりとは分からない。でも、死者に何が起きたのか、その痕跡を感じられるのかもしれない」
それは、死体を動かす力とは違う。
死者を従わせる力でもない。
誰かが生きていたという事実に、少しだけ近づくための力だった。
ノアは黒い石を見つめた。
「この能力なら……あの人のことも、もっと分かるかもしれない」
家族のもとへ返すと決めた男の遺体。
彼がどこから来て、何をしようとしていたのか。なぜ、あの場所で命を落としたのか。
残響感知が答えをくれるとは限らない。
それでも、何も分からないままにするよりは、一歩近づけるかもしれなかった。
そのとき、地下室の奥で大きな音がした。
ゴゴゴゴ……。
壁の一部が動き、別の通路が現れた。
その先には、地上へ続いているらしい階段が見える。
「出口だ!」
フィアが声を上げた。
ノアは最後に、祭壇を振り返った。
黒い石は、もう光を失っている。
しかし、階段を上り始めた瞬間、頭の中に再び声が響いた。
『第一層の試験を完了しました』
『探索記録を保存します』
『次層への進入条件――未達成』
ノアは足を止めた。
「次層……?」
声はそれ以上、何も告げなかった。
今は、ここを出ることが先だ。
二人は階段を上り、崩れた石造りの建物の外へ出た。
空は夕暮れに染まっていた。
森の中に魔物の姿はない。遠くから風が吹き、草木を揺らしている。
ノアはその場に座り込んだ。
「生きてる……」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
フィアも隣に座り、長く息を吐いた。
「本当に、帰ってこられたのね」
「ああ。……まだ、何も終わってないけどな」
男の遺体は、ダンジョンの入口付近に残したままだ。
ノアはすぐに立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、再び膝をついた。
「今日は無理よ。あなた、立っているのもやっとじゃない」
「でも、遺体を……」
「分かってる。明日の朝、村から人を呼んで一緒に運びましょう。あなたが倒れたら、誰も得をしないわ」
ノアは反論しかけて、口を閉じた。
彼女の言う通りだった。
自分一人で何もかも背負おうとすることが、必ずしも正しいわけではない。
「……分かった。明日の朝、必ず戻ろう」
二人は、ゆっくりと村への道を歩き始めた。
その途中、ノアは自分の手を見つめた。
ネクロマンサー。
人々から恐れられる職業。
だが、自分はまだ、その力のすべてを知らない。
死者を動かすことしかできないと思っていた。けれど、残響感知という新たな技能が目覚めた。
死者の痕跡を知り、その最期を知り、時には生きている者を救う手がかりにできるかもしれない。
ノアは初めて、自分の職業に可能性を感じていた。
しかし、その期待は、村へ戻った直後に打ち砕かれることになる。
村の入口に、人だかりができていた。
人々は何かを囲み、ざわざわと声を上げている。
ノアが近づくと、村の男がこちらを振り向いた。
「おい、あんた! どこへ行っていたんだ!」
「ダンジョンだ。事情があって――」
「そんなことはどうでもいい! 墓地で、また死体が動いたんだ!」
ノアの表情が変わった。
「……何だって?」
「今度は一体じゃない。墓地の墓がいくつも掘り返されている。しかも、動き出した死体が、村の外へ向かって歩いていったんだ!」
フィアが息を呑んだ。
「そんな……墓地には、まだたくさんの遺体が……」
ノアは、ダンジョンで見た五体の死体を思い出した。
そして、黒い石に浮かんだ文字を思い出す。
――お前は、死者の声を聞く覚悟があるか。
あの場所で起きたことと、墓地で起きている異変。
二つは、無関係ではないのかもしれない。
ノアは顔を上げた。
「墓地へ案内してくれ」
男が戸惑う。
「まさか、お前……」
「俺はネクロマンサーだ。死者が動いているなら、調べられることがあるかもしれない」
周囲の人々が、一斉にノアを見た。
恐怖。疑念。嫌悪。
その視線は、いつもと変わらなかった。
それでも、ノアは目を逸らさなかった。
今度は、見ているだけでは終わらせない。
死者を操る者としてではなく、死者と向き合う者として。
ノアは、墓地へ続く道を歩き始めた。




