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明治純愛フィロソフィア  作者: 猫塚ルイ


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第5話

地下室での一件以来、伊織様の様子がさらにおかしくなった。


あの日を境に、伊織様は夜会へ出かける回数が極端に減り、夕食を家で食べることが増えた。


それどころか、私が家事をしていると、どこからともなく現れてはじっとこちらを見つめている。


「あの……伊織様? 何かお手伝いしましょうか?」


廊下で鉢合わせるたびに問いかけるけれど、伊織様は決まって顔を逸らし


「……別に。通り道だ」とぶっきらぼうに言うだけ。


でも、その耳はいつもほんのり赤い。


ある日の午後、私は伊織様に呼び出された。


向かったのは、あの地下の書庫。


今日は修復作業ではなく、整理整頓をしているようだった。


「紬。……これを持っていけ」


差し出されたのは、革装丁の小さくて可愛らしい本だった。


「これは……?」


「君、以前『実家では本が少なくて、同じものを何度も読んでいた』と言っていただろう。これは西洋の詩集を和訳したものだ。……言葉が平易だから、君でも読めるだろうと思ってだ」


伊織様は、わざとらしく棚の整理を続けながら、背中越しに言った。


私はその本を胸に抱きしめ、ぱあっと顔を輝かせた。


「……ありがとうございます! 私のために選んでくださったのですね。なんてお優しい……」


「書庫の整理をしていて邪魔だっただけだ。……ふん、どうせ難しい言葉は分からないだろうし、絵でも眺めて喜んでいればいい」


いつもの意地悪な言い方。


でも、私は知っている。


この本の栞が挟まれているページには、私が以前「好きだ」と言った季節の花の押し花が、そっと添えられていることを。


「伊織様。……やっぱり、素敵です」


「……何がだ。しつこいぞ」


伊織様の手が、ぴたりと止まった。


「ただ本を贈るだけでなく、私の好みを覚えていて、さりげなく元気づけてくださる。……そんな細やかなお心遣いができるなんて。伊織様は、本当の『紳士』なのですね」


私は一歩歩み寄り、振り返った伊織様の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「遊び人のふりをして、本当は誰よりも情が深くて、繊細で……。私は、そんな伊織様を、昨日よりももっと、尊敬してしまいます」


「…………っ!!」


伊織様の持っていた本が、音を立てて床に落ちた。


彼は目を見開き、まるで毒でも飲まされたかのように、胸を押さえてよろめいた。


「……つ、紬……君、それは……わざと言っているのか?」


「え? 嘘偽りない本心ですが……」


「……本心、だと……」


伊織様は顔を真っ赤に染め、わなわなと震えながら私に歩み寄ってきた。


逃げる間もなく、私は壁際まで追い詰められる。


伊織様の手が、私の横の壁をドン、と叩いた。


いわゆる「壁ドン」というやつだ。


「……いいか、よく聞け。俺は、君が思っているような高潔な男じゃない」


「……君にそんな、一点の曇りもない瞳で『尊敬します』なんて言われるたびに、俺の中の何かが……めちゃくちゃに掻き乱されるんだ!」


至近距離で放たれる、熱い吐息。


伊織様の瞳は、余裕たっぷりだったあの日とは違い


ひどく必死で、潤んでいるようにも見えた。


「尊敬なんて、もういい。……俺は、君に……」


「伊織様?」


「……あー、もう!! クソッ、なんでこんなに上手くいかないんだ!」


伊織様は叫ぶと、私を抱きしめるかと思いきや、そのまま自分の顔を私の肩に埋めてしまった。


「……お願いだ、紬。しばらくそのままでいろ。…今の君の顔を見たら、俺は……本当に、元に戻れなくなる」


「伊織様……?」


肩越しに伝わる、伊織様の激しい鼓動。


ドクンドクンと、まるで早鐘を打つようなその音は、私の胸の音と重なっているようだった。


「尊敬」という言葉が、どうしてこれほどまでに旦那様を追い詰めてしまうのか。


私にはまだ分からない。


でも、しがみつくような伊織様の腕の力強さに、私の心も少しずつ、ざわめき始めていた。


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