表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明治純愛フィロソフィア  作者: 猫塚ルイ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/15

第15話

あの大騒動の夜会から、季節がひとつ巡った。


私たちは九条の本家を離れ、帝都の端にある小さな


けれど陽当たりの良い平屋で暮らし始めている。


伊織様は家名を捨てたわけではないけれど、一族の援助を一切断ち切り


今は大学での講義や古書の修復依頼を受けて、自らの腕一本で私を養ってくれている。


「……紬。またそんな、重いものを持って。俺がやると言っただろう」


庭先で洗濯物を干していた私の手から、伊織様がひょいと籠を奪い取った。


今の伊織様は、かつての軍服や夜会服ではなく


柔らかな木綿の着物に、修復作業で汚れた襷をかけている。


「ふふ、ありがとうございます。……でも、伊織様もお忙しいでしょう? 論文の締め切りが近いと言っていたのに」


「そんなものより、君が指先を荒らすことの方が一大事だ……こっちへこい」


伊織様は籠を置くと、私の手をそっと取り、縁側に座らせた。


そして、彼自身の大きな手で、私の指先を包み込むようにマッサージし始めた。


「……あ、あの、伊織様。……誰かに見られたら、恥ずかしいです」


「誰も見ていないだろ…それに、俺は今、猛烈に君『不足』なんだ。昨夜も修復作業に没頭して、君を抱きしめる時間が足りなかったからな」


「っ……!」


さらりと言うその言葉に、私の顔が火照る。


遊び人だった頃の「口説き文句」ではなく、本気で、余裕なく、私を求めてくれるその熱量。


伊織様は私の指先にそっと唇を寄せ、切なげに目を細めた。


「……紬。俺は今、世界で一番幸せな男だ。……地位も名誉も失ったが、代わりに、君という真実を手に入れた。……君の瞳に映る俺が、あの日よりも少しは『男』に見えているなら、それでいい」


伊織様は、私の膝に頭を預け、甘えるように見上げてきた。


かつての「帝都の蝶」が、今では私の膝の上で、羽を休める一羽の鳥のようだ。


「……ふふっ、男らしいです」


「…また褒めてくれるのか?」


伊織様は苦笑いしながらも、私の言葉を待つように耳をそばだてた。


その耳は、相変わらず私の視線を感じるだけで、ほんのりと赤く染まっている。


「はい。……だって、あんなに華やかな世界にいらした方が、こんなに質素な生活を、慈しむように楽しんでいらっしゃる」


「……私の作ったお味噌汁一杯を、宝石よりも大切だと言ってくださる。こんな旦那様…愛しても愛しきれません…」


「…………っ!!」


伊織様は、弾かれたように顔を上げた。


そして、あの日と同じように、顔を真っ赤にして私を抱き寄せ、そのまま押し倒すように縁側に横たわらせた。


「……紬。君は本当に、最後まで俺を『立派な男』に仕立て上げようとするんだな…」


「でもな、これは『清らかな心』なんかじゃない。……君を、この小さな家の中に閉じ込めて、俺だけのものにしたいという、最低で強欲な愛執なんだぞ」


伊織様の唇が、今度は逃がさないと言わんばかりに、深く、熱く重なった。


「尊敬」と言われるたびに、彼の理性が溶けて、甘い独占欲へと変わっていく。


彼は唇を話すと、私の顎を持ち上げ、目線を合わさせてくる。


「……尊敬なんて、もう言わせない。……愛していると言え、紬。……俺だけを、愛していると……」


「……ふふっ…言われなくても、始めから愛していますよ、伊織様」


私がそう囁くと、伊織様は泣きそうなほど幸せそうな顔をして、私の首筋に顔を埋めた。


「フィロソフィア」を極めた男が、最後に辿り着いた真理。


それは、一人の女性を、余裕をなくすほどに愛し抜くことだった。


庭先の勿忘草が揺れる中、私たちの新しい物語は、まだ始まったばかり。


伊織様の耳は、今日も私の「尊敬」と「愛」の言葉で、世界で一番幸せな色に染まっているのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ