是非に及ばず、異世界へ
「……人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり……」
パチパチと、小気味よい音が耳に届いていた。
肌を灼くような熱。視界を遮る黒煙。そして、耳を塞ぎたくなるほどの喧騒と、裏切り者たちの勝ち鬨。
天正十年、六月二日。京都、本能寺。
織田家当主・織田信長は、燃え盛る本堂の奥で、静かに自らの腹に刀を突き立てていた。
信頼していた明智光秀の謀反。
無念か、と問われれば、否だ。天下統一を目前にしたこの終わり方もまた、時代のうねりの一つ。
「是非に及ばず」
そう呟き、意識が完全に白く染まる直前――信長は、自らの体が炎に焼かれるのではなく、底知れぬ漆黒の「穴」へと落ちていくような奇妙な浮遊感を覚えた。
「……おい。起きよ、うつけ者め」
冷たい風が頬を撫で、信長は目を覚ました。
本能寺の熱気はどこにもない。そこは、見たこともないほど巨大な巨木が連なる、鬱蒼とした見知らぬ森の中だった。
「……生きている、か?」
上質な小袖を確かめる。焼け焦げた跡すら残っていない。自らの手を見る。天下の差配を振り続けたその掌は、驚くほど軽かった。
それだけではない。懐を探ると、愛刀である「薬研藤四郎」と「長谷部国重」、そしていつも持ち歩いていた火縄銃が、一分の傷もなく収まっていた。
「ここが冥府というわけではなさそうだな」
信長が不敵に笑い、立ち上がったその時だった。
ガサリ、と前方の茂みが大きく揺れた。
現れたのは、猪ではなかった。体長は優に三メートルを超え、全身が鋼のような漆黒の毛皮で覆われた、二足歩行の巨大なオーク(魔物)だった。その醜悪な顔には、ぎらぎらとした凶暴な肉食獣の目が光っている。
「グルゥゥゥ……!」
魔物は信長を見つけるなり、丸太のような棍棒を振り上げ、凄まじい風圧と共に叩きつけてきた。
ドガァァァン!
地面が爆ぜ、土煙が舞う。
だが、そこに信長の姿はなかった。
「ふむ、鈍いな」
魔物の背後。太い木の枝の上に、信長は軽々と飛び乗っていた。
戦国時代、常に最前線で修羅場を潜り抜けてきた信長の戦術眼と身体能力は、異世界の化け物相手でも微塵も衰えていなかった。
「貴様のような面構えの野盗は、尾張にもゴロゴロおったわ」
信長は枝から飛び降りると同時に、腰の「長谷部国重」を抜刀した。
刃が陽光を浴びて鋭くきらめく。
「グルアッ!?」
驚愕して振り返る魔物。その太い首筋に向けて、信長は一切の迷いなく刃を一閃させた。
カキィィン!
手応えは硬い。魔物の皮膚は、まるで鉄の甲冑のようだった。
並の剣士なら刃が弾かれて怯むところだが、信長は着地した瞬間に刀を鞘へと納め、即座に懐から火縄銃を引き抜いた。
「皮が硬いなら、中身をブチ抜くだけよ」
驚くべきことに、異世界へ転生したこの火縄銃には、信長の「覇気」に呼応するかのように、未知の光のエネルギーが自動で充填されていた。火薬も火縄も必要ない。ただ、信長が殺意を込めるだけで、銃口がパチパチと青白い火花を散らす。
魔物が再び棍棒を振り上げたその瞬間、信長は銃口をその大きく開かれた口内へと真っ直ぐに向けた。
「神妙にせよ」
ズドォォォォン!!!
森全体を揺るがす爆音が轟いた。
信長の放った一撃は、魔物の口内を貫通し、その巨躯を後ろへと盛大に吹き飛ばした。ズシン、と大きな音を立てて倒れた魔物は、二度と動かない。
硝煙が漂う中、信長は銃口にふっと息を吹きかけ、不敵に唇を歪めた。
「未知の化け物、未知の武器……。ほう、これは面白い」
信長は周囲の広大な森を見渡し、その瞳に本能寺の炎よりも熱い野心の火を灯した。
「神仏がオレをこの地に落としたか。良いだろう。この『異世界』とやらも、オレが丸ごと天下布武して見せようぞ」
第六天魔王・織田信長。
異世界の地にて、新たなる覇道の幕が、今上がった。




