第一話:地下牢のモブ王女
ズキズキと、頭の奥が脈打つように痛んでいた。
どうやら、かなり強く打ち付けてしまったらしい。鈍い痛みは後頭部から首筋へと広がり、少し身体を動かしただけでも視界が揺れる。
けれど、その衝撃のおかげなのだろうか。
忘れていたはずの記憶が、濁流のように頭の中へ流れ込んできた。
「っ、ぁ……」
耐え切れず、その場にうずくまる。
知らない景色。知らない人々。けれど確かに自分だった記憶。
深夜まで働き続けたオフィス。鳴り止まない通知。積み上がる資料。乾いた笑い声。
前世の私は、どうやら限界OLというやつだったらしい。
……最後がどうなったのかは、いまいち思い出せない。過労死でもしたのだろうか。あまりにもあり得そうで、逆に笑えてくる。
やがて膨大な記憶の奔流が落ち着き、荒れていた意識も少しずつ輪郭を取り戻していった。
重たい瞼を上げ、ゆっくり周囲を見回す。
視界に映ったのは、薄暗い石造りの壁と鉄格子だった。
じめりと湿った空気。鼻につくカビの匂い。どこか遠くで水滴が落ちる音が響いている。
――牢屋だ。
「うわぁ……」
思わず乾いた声が漏れた。
現世の記憶も次第に蘇ってくる。
私はカタジナ。王の愛妾となった踊り子の連れ子で、お飾り同然の王女。
そしてつい先日、母を毒殺された挙げ句濡れ衣を着せられ、この地下牢へ放り込まれた。
……なるほど。
つまり私は、可哀想なモブ王女に転生していたらしい。
「おい、大丈夫か?」
不意に声を掛けられ、顔を上げる。
向かいの牢に囚われている少年が、こちらを案じるように眉を寄せていた。
赤髪に、澄んだ碧眼。薄暗い牢の中でも、その顔立ちは驚くほど整って見える。
さっきから何度も声を掛けてくれていた、親切な人だ。
「はい。何とか生きてます。お騒がせしました~」
心配をかけまいと、努めて明るい声を返す。
すると少年は、じっと私を見つめながら口を開いた。
「……お前、さっきと感じが違うな」
うっ。
かなり怪しまれている。
けれど、それも当然だろう。つい先ほどまで半狂乱で壁に頭を打ち付けていた少女が、急に落ち着いて会話を始めたのだから。
このまま警戒されるのはまずい。なにせ彼は、私の生命線なのだ。
私は観念したように姿勢を正した。
「実は、さっき頭を打った衝撃で前世の記憶を思い出しまして」
「……正気か?」
露骨に引いた声が返ってきた。
ですよね。
でも仕方ない。私だって逆の立場ならそう思う。
「信じられないのも無理ありません、ヘンリク王子」
「……お前に名乗った覚えはないが」
少年――ヘンリク王子が、訝しげに眉をひそめる。
「なぜ俺のことを知っている?」
その視線には、はっきりとした警戒が宿っていた。
だが私は、内心で小さく拳を握る。
よし。食いついた。
「私、この世界によく似たお話を知っているんです。良かったら聞いてみませんか?時間もありますし、暇つぶし程度に」
へこへこと揉み手しながら愛想よく勧めてみる。
媚び?もちろん売る。
だって、この人は未来の英雄王なのだから。
何としてでも助けてもらわなければならない。
「……まぁ、確かに時間だけは有り余ってるな」
ヘンリク王子は半ば呆れたように眉を上げ、それでも興味深そうにこちらを見た。
「よし。話してみろ」
半信半疑ではあるが、とりあえず聞く気にはなってくれたらしい。
私はほっと胸を撫で下ろした。
「私はカタジナと申します。母は踊り子でしたが、国王陛下に見初められて愛妾となりました」
そこで一度言葉を切る。
「ですが、先日毒殺されまして。私は王妃様を逆恨みし、武器を隠し持っていた――という罪を着せられ、この地下牢に」
さらりと説明したあと、ついでのように付け加えた。
「あ、ちなみに母に毒を盛ったのは王妃様です」
「……」
一瞬、ヘンリク王子がなんとも言えない顔をした、そして静かに頷く。
「あぁ……父上の愛妾に連れ子のいる踊り子がいたな、カタジナというのか。母君のこと、誠に残念だった。お悔やみ申し上げる」
その声には憐憫が感じられた。
地下牢に囚われ、自身も理不尽な扱いを受けているはずなのに、他人を気遣う余裕を失っていない。
あぁ、やっぱり。この人は、物語の主人公なのだ。
自然と笑みが零れる。
「ふふっ。ありがとうございます。でも母も野心家でしたから、仕方ありません」
そう。大人しく愛妾の座に留まっていれば、命までは取られなかった。
けれど母は、畏れ多くも王妃の座を望んだ。この結末はある意味当然だったのだろう。
私は小さく息を吸い込み、本題へ入る。
「それでですね。私の知っているお話では、ヘンリク王子――あなたが主人公なんです」
「……は?」
「このあと王子様は、レジスタンスに助け出されます。そして悪政を敷く国王を倒し、英雄としてこの国の王になるんです」
思い切って、盛大なネタバレをかました。当然ながら、返ってきたのは冷たい沈黙だった。
「…………」
……うん。信じてない。
まあ、急にこんな話をされたら普通そうなる。
けれど止まってはいられない。
「王子様が牢に入れられた理由は、平民の護衛騎士ヤンを庇い、反逆の疑いをかけられたからですよね」
「――ッ」
ヘンリク王子の目が大きく見開かれる。
「そのヤンが、今レジスタンスのリーダーとなって、あなたを助け出そうと動いています」
地下牢の空気が、一瞬張り詰めた。
妾の子に過ぎない少女が、なぜ王子の護衛騎士の身分や名前を知っているのか。
疑念と警戒が、彼の瞳に色濃く浮かぶ。
けれど私は構わず続けた。
ヘンリク王子が主人公の物語を。
前世で何度も読み返した、大好きな物語を。
地下牢の薄暗い闇の中で、私はゆっくりと語り始めた。




