第1話
剣を握らない日は、この三十年で一度もなかった。
だからといって、俺が大層な剣士かといえば、そんなことはない。
辺境の村グレンダで、朝は畑を耕し、昼は村の見回りをして、夕方に子供らへ剣の手ほどきをする。それだけの男だ。
名はロイド・ヴァーガス。今年で四十二になる。
嫁はいない。若い頃に一度だけ縁談があったが、相手の娘に「剣の素振りと私、どっちが大事なの」と問われ、三秒ほど考え込んでしまったのが運の尽きだった。
三秒は長すぎたらしい。
村の連中は俺を「剣振りのロイド」と呼ぶ。尊敬の意味は、たぶん含まれていない。魔物なんてめったに出ないこの村で、毎朝の素振りを欠かさない男など、変わり者以外の何者でもないからだ。
「ロイドさん、また朝から振ってたのかい。ご苦労なこったね」
「習慣なもので」
「その熱心さを畑に向けてくれりゃあ、うちの婆さんも喜ぶんだがねえ」
井戸端でそんなことを言われるのが日常だった。
悪意はない。ただ、期待もされていない。それが俺の立ち位置だった。
それでも剣を振り続けたのは、師匠の遺言があったからだ。
俺に剣を教えたのは、村外れに住んでいた片腕の老人だった。
名前すら教えてくれなかったその人は、死の間際にこう言った。
「ロイドよ。お前の剣は、いずれ誰かを守るためにある。だから、一日たりとも鍛錬を欠かすな」
誰かを守る日など、この平和な村には来なかった。来たのはせいぜい、畑を荒らす猪と、酔って暴れる隣村の男くらいだ。
猪は一閃で仕留めたし、男は峰打ちで眠らせた。
村人たちは「猪相手なら大したもんだ」と笑った。
――そんな俺の唯一の自慢が、教え子たちだった。
夕暮れの広場で剣を教えた子供らは、大きくなると次々に村を出ていった。都会で兵士になった者、商隊の護衛になった者。
中でも印象的だったのが、ミーナという娘だ。
赤毛の娘で、幼い頃から俺の道場もどきに通い詰めた。呑み込みが早く、負けず嫌いで、転んでも絶対に泣かなかった。成長して村を出るとき、彼女は言った。
「先生、あたし王都で冒険者になる! 偉くなったら先生を呼ぶからね!」
それから六年。ミーナからの手紙は季節ごとに届いた。銅級に上がった、銀級になった、パーティを組んだ――便りを読むたび、俺は自分のことのように嬉しかった。
その手紙の様子が変わったのは、半年ほど前からだ。
文字に元気がない。文面が短い。そして先月届いた手紙には、こう書かれていた。
『先生。私のパーティ、金級昇格試験を受けることになりました。でも前衛が一人抜けてしまって、このままだと受験資格を失います。臨時でいいんです。誰か、剣が使える人に心当たりはありませんか。……先生が来てくれたら、なんて。冗談です。忘れてください』
冗談です、と書いた文字だけ、少し滲んでいた。
俺は手紙を三度読み返し、剣架から愛用の剣を下ろした。刃こぼれひとつない、よく手入れされた無銘の剣だ。
「母さん、ちょっと王都へ行ってくる」
台所の老母に声をかけると、母さんは驚きもせずに芋の皮を剥き続けた。
「あらそう。ミーナちゃんのとこかい」
「なんで分かるんだ」
「あんたが剣を持って遠出する理由なんて、それしかないだろうよ。お行き。ただし、都会じゃ猪退治の腕は自慢するんじゃないよ。笑われるからね」
「分かってるさ」
俺は苦笑して、旅支度を始めた。
冒険者試験を受けるには、まず冒険者登録が要るらしい。四十二の田舎者が今さら登録など、受付で笑われるかもしれない。まあいい。笑われるのは慣れている。
ミーナの試験までは一月と少しある。臨時の前衛として、足を引っ張らない程度に働ければ十分。試験が終われば、また村に帰って畑を耕す。それだけの、短い旅だ。
俺はただの、田舎の剣振りおっさんなのだから。
――この時は、まだそう思っていた。




