スラファト
その夜、隠れていた星が、三年ぶりに戻ってくる。
星図の頁に、そう算えられていた。光がいちばん細り、そこから満ちはじめる夜。上がっている者を、呼び戻す夜だ。
シェリアは塔の階をのぼっていた。
衛兵の交代の隙を縫う必要は、もうない。書き換えられた国の記録に、儀の正しい形は残っている。添星は二人一組。片方が上がって欠けた光を埋め、星が戻る夜に、地上に残った片方が名を呼ぶ。呼ばれた者は降り、呼んだ者が次に上がる。外されていた頁は綴りに戻され、新しい名簿には、あの夜に生まれた娘の名がふたつ、並んで書かれている。
階の途中で、祭儀長が待っていた。三年前よりさらに老いて、燭を持つ手が細い。
「祝詞は、いかがいたしましょう」
「要りません。名前だけで、届きますから」
老人は深く頭を下げて、階を譲った。
頂の円い床に、風はなかった。決められた線は、もう引かれていない。
シェリアは中央に立ち、空を見上げた。細りきった光が、頼りなく瞬いている。かつて、自分はあの位置に立っていた。隣にもうひとつ星があると知って、呼ばれる日を数えながら待っていた。
今度は、地上で数えた。
息を吸う。
「——ラフィ」
光が、揺れて、割れた。
ひとつに見えていたものがふたつに分かれ、隠れていた星が姿を現す。降りてくる光へ、シェリアは両手を上げた。受け取るには、両手が要る。自分が、そうして受け止められたのだから知っている。
掌に、重さが落ちてきた。人ひとりぶんの。
膝が折れかけて、堪えた。腕の中であたたかいものが息をして、それから、掠れた声が言った。
「……交代、ずいぶんお待たせいたしました」
「三年ですよ」
「存じております。上から、数えておりましたので」
「あら。数えるなとは言っていませんけれど」
「はい。仰せつかっておりません」
三年ぶりの憎まれ口だった。シェリアは腕の力をゆるめないまま、少し笑った。
「ちなみに、いくつになりました」
「千と、九十五でございます」
「わたしの数と、同じですね」
地上と空とで、同じ数を数えていた。それがなんだか可笑しくて、ふたりぶんの肩が、同時に揺れた。
それから、ふたりで床に座った。持ってきた包みを開く。焼いた木の実と、葡萄酒。杯は、ひとつしかない。
「冷めていますよ、木の実」
「……冷めているほうが、ようございます」
「知っています。あなた、熱いのが苦手ですから」
ラフィは何か言いかけて、やめて、木の実をひとつ口に入れた。それから杯に先へ口をつけ、「毒味でございます」と言って渡してきた。三年経っても、順番を間違えない娘だ。
「地上の報告をします。湖と、屋根と、畑と、祭り。ぜんぶ行きました。あなたと行った順のとおりに」
「存じております。上からは、よく見えますので」
「湖のほとりで手を振ったのも?」
「見ておりました。星は瞬くことしかできませんので、瞬いてお返しいたしました」
「祭りの夜、ひときわ瞬いた星がありましたね」
「さあ。……どうでしょう」
空では、離れたふたつの星が、ゆっくりとまた近づきはじめている。次にどちらかが隠れる夜が来たら、上がるのは呼んだ者。わたしの番だ。
「次は、わたしですからね」
「……隠れるほうは、わたくしに」
「それは、わたしの台詞です。順番は綴りに書いてあります。書き換えては駄目ですよ、お互いに」
「……はい」
返事まで、たっぷり間があった。この娘は、削られた三文字の窪みを、まだ指で覚えているのだろう。わたしが、写しの毛羽立ちを覚えているのと同じに。
「ラフィ」
「はい」
「あなたが上がっていた三年、約束は効いていましたよ。見上げても、寂しくなりませんでした」
「……仕込んだのは、わたくしではございません」
「同じ四つの夜でしょう。なら、半分はあなたのものです」
「……半分」
「ええ。半分だけ」
ラフィは黙った。長く黙るときは、断っているのではなく、考えている。やがて、小さく言った。
「シェリア」
半分ではない、全部の名前だった。呼び戻すためでも、儀のためでもなく、ただ隣にいる者を呼ぶ声で。
「はい」
「お帰りに、湖へ寄ってもよろしいでしょうか」
「ちょうど、誘うつもりでした」
階を降りると、祭儀長がまだ頭を垂れていた。ふたりで礼を返し、燭の灯りの前を通り過ぎる。壁に、ふたりぶんの影が並んで落ちた。
城の裏手の湖は、あの最初の夜と同じに黒かった。
汀に並んで膝をつき、水面をのぞきこむ。散らばった星のまんなかで、寄り添ったふたつの光が、ゆれて、崩れて、また集まる。
「ラフィ。見て、下にもありますよ」
「……存じております」
「知っているのと、見るのは違うでしょう」
「はい」
今度は、渋られなかった。肩が触れる近さに、この娘はもういる。
「シェリア」
「はい」
「次にあなたが上がられる夜までに、ひとつ、支度をしておきます」
「なんです」
「見下ろしても寂しくならないように、しておきます」
「……人の真似ですね」
「はい。よい真似でございましたので」
シェリアは水面へ目を戻した。笑うと、この娘に見られてしまう。
黒い水の上で、ふたつの光が並んで、ゆれて、崩れて、また集まる。
どちらが隠れる番でも、湖はきっと、ふたつとも映す。




