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隠れるほうは、わたしにさせて 〜夜空へ還る王女と、名を呼べない侍女〜  作者: 鏡花


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1/2

シェリアク

「次に夜空へ(かえ)られるのは、シェリア王女殿下でございます」


 星見の間の床に(ひざまず)き、巻いた紙を読み上げたのは祭儀長だった。


「あら、そう」


 名を呼ばれた当人は、湯気の立つ杯を持ったまま、そう言った。

 シェリア。この国の第二王女で、たったいま夜空に還ると告げられた娘である。


 読み上げた声が高い天井にのぼって消えるまで、誰も口を利かなかった。

 父も、姉も、この場にはいない。王家の者はひとりも来なかった。来なくてよい場だと、誰かが決めたのだろう。


 祭儀長がゆっくりと顔を上げる。


「……殿下。いま申し上げたことの意味を、おわかりでいらっしゃいますか」


「わかりますよ。わたしが死ぬのでしょう」


 天窓から落ちる守りの光が、床を白く()いている。真上の星からまっすぐ差してくる、夜だけの帯だ。子どもの頃からずっと同じ場所にある。ただ、去年の同じ夜より指一本ぶん細い。

 守りが欠けはじめている。だからこの紙が開かれた。


「姫さま」


 背後で、ラフィの声が(かす)れた。

 侍女(じじょ)の娘だ。十のときからシェリアのそばにいる。年は同じで、はじめは遊び相手として城に上げられた。字も、隣に座って一緒に覚えた口である。名を呼んだきり続かない。振り返ると、いつも通りの無表情の中で、目のふちだけが赤かった。


「祭儀長さま。他に、いらっしゃらないのですか」


 ラフィが一歩前へ出た。侍女が祭儀の場で口を利くのは、本来なら(しか)られてもおかしくない。祭儀長は咎めずに、巻いた紙を膝の上で押さえた。


添星(そえぼし)となれるのは、あの星が墜ちかけた夜に生まれた御方のみ。——二十年前のあの夜に生を受けられたのは、この国では殿下おひとりでございます」


「……おひとり」


「城の記録を(あらた)め、辺境(へんきょう)の教会にも照会(しょうかい)いたしました。写しを取り寄せ、一枚ずつ確かめております。あの夜の生まれは、殿下おひとりきり」


 ラフィが黙る。反論の材料が、彼女の手には一枚もなかった。


 祭儀長はシェリアに向き直り、儀のあらましを述べていく。守りが細るのは星がひとつ死にかけているためであること。欠けを埋めるには、その夜に生まれた御方が(うつわ)となって光を受け、夜空へ還らねばならないこと。


「儀は、光がいちばん細る夜に執り行います」


「それは、いつです」


「およそ一年ののちでございます」


 一年。

 シェリアは指を折るような仕草をして、それから窓を見上げた。


「わかりました」


 驚いたのは祭儀長のほうだったらしい。老いた声が短く途切れ、それから深く頭を下げて、退がっていった。


 扉が閉まる。二人きりになる。


「……よろしいのですか」


 ラフィが言った。低い、抑えた声だった。


「よくはありませんよ。でも、わたしが騒いだら光が戻るというなら、いくらでも騒ぎますけれど」


「戻りません」


「でしょう」


 シェリアは笑った。ラフィは笑わなかった。


 この娘は昔からそうだ。褒められても表情を変えず、失敗すればそのぶんだけ長く黙る。今も、握った両手の指が白くなっている。


 ——ああ、この手が。

 この一年で、いちばん見ることになる手だ。


 シェリアは立ち上がり、細くなった光の帯をまたいで、ラフィの前に立った。


「ラフィ。お願いがあります」


「なんなりと」


「この一年、夜に外へ出してほしいのです」


 最初の夜は、城の裏手の湖だった。


 衛兵の交代の隙を縫って、二人は外套をかぶって門を抜けた。風がまだ冷たい季節で、水面は黒く、そこに星が落ちて散らばっていた。


「ラフィ。見て、下にもありますよ」


「……存じております」


「知っているのと、見るのは違うでしょう」


 シェリアは(みぎわ)に膝をついて、水に指を浸した。散らばった光がゆれて、崩れて、また集まる。


 ラフィは少し離れたところに立っていた。この娘は外套の裾が地面につくのを嫌う。今日もつかないように持ち上げている。


「そこでは見えませんよ。もっと近くへ」


「見えております」


「わたしの隣に来なさい、という意味です」


 ラフィが、渋々といった足取りで一歩ぶんだけ寄った。


「ラフィ」


「はい」


「一年しかないのですから、わたしのことは呼び捨ててくださいませんか」


「無理でございます」


「即答ですね」


「王女殿下を呼び捨てにした者は、記録に残るかぎり一人もおりません」


「では、記録に残る最初の一人になってください」


「わたくしが罰されます」


 シェリアは水から指を抜いて、しずくを払った。それから、少し考えて言った。


「では、半分だけ」


「……半分」


「シェリ。それなら呼び捨てではないでしょう。足りない字のぶんだけ、敬っていることにしてください」


 ラフィは黙っていた。長く黙るときは、断っているのではなく、考えている。十年そばにいれば、それくらいはわかる。


「……シェリ」


「はい。よくできました」


「褒められることではございません」


 それでも、その夜からラフィは「姫さま」と言わなくなった。


 夏には、星見の塔の屋根にのぼった。


 石は昼の熱をまだ抱えていて、寝転がると背中があたたかい。真上に星の川が渡っていて、シェリアはそれを指でなぞった。


「あの中に、わたしの星もあるのでしょうね」


「ございます。あれです」


 ラフィの指した先を目で追う。細く、頼りない光だった。天窓から落ちてくるときはあれほど白いのに、空にあるとずいぶん小さい。


「まあ。わたしの星は、地味なのですね」


「そうではなく」


「そうでしょう。地味です」


 シェリアが笑うと、ラフィの喉が一度だけ、ふ、と鳴った。笑ったのだと気づくのに、しばらくかかった。


「けれど、不思議ですね。ほかの星は二つ並んでいたりするのに、あれはひとつきりで」


「……ひとつきりでございます」


 秋は、麦の畑だった。


 刈り入れの済んだ畑は見晴らしがよく、地平のきわまで星が下りてくる。二人は(わら)の山に背をあずけて、持ってきた葡萄酒(ぶどうしゅ)を回し飲みした。杯はひとつしかない。ラフィが「毒味でございます」と言って先に口をつけ、そのまま渡してきた。


「ラフィ。この一年で、いくつ夜を数えたと思います」


「百と、四十七でございます」


「数えていたのですか」


「数えるなとは、(おお)せつかっておりません」


 シェリアは杯を持ったまま、しばらく何も言えなかった。


 この娘は、たぶん残りの数も知っている。知っていて、一度も口にしない。


「ラフィ」


「はい」


「あなたのやりたいことも、その中に混ぜてよいのですよ」


「わたくしのやりたいことは、いま、やっております」


 冬の街の祭りは、いちばん人が多かった。


 顔を隠して人混みにまぎれ、提灯(ちょうちん)の下を歩いた。焼いた木の実を紙の袋で買って、二人で半分ずつ食べた。ラフィは熱いものが苦手で、口をすぼめて息を吹いている。その顔を見られただけで、来た甲斐があったと思った。


 通りの角に、大きな灯りがひとつ据えられていた。

 シェリアはその前にすっと立った。光が(さえぎ)られて、ラフィの顔にちょうど自分のかたちの影が落ちる。


「どうなさいました」


「まぶしそうにしていましたから」


「……はあ」


「こうしていれば、あなたは目を細めなくてよいでしょう」


 ラフィは何か言いかけて、やめた。かわりに、影から動かなかった。


 帰り道、シェリアはふと自分の手を見た。


 人混みの熱で火照ったのだと思った。けれど袖の中に引き入れて、暗がりで開いてみると、やはりそうだった。


 指の先が、薄く光っている。


 握りこんで、外套の下に隠す。隣を歩く娘は気づいていない。木の実の袋を几帳面に折りたたんで、(ふところ)にしまっている。


「ラフィ」


「はい」


「来年の祭りにも、来たいですね」


 嘘をついた。ラフィは足を止めずに答えた。


「では、来ましょう」


 この娘は、残りの夜まで数えている。

 だから、これも嘘だ。


 祭りの夜に見つけた光は、指の先だけでは済まなくなっていた。


 手首の内側、鎖骨のくぼみ、(うなじ)。薄い布の下でぼんやりと灯って、暗い部屋にいると自分の輪郭が見える。眠ろうとして目を閉じても、(まぶた)の裏がうっすら明るい。


 器になるとは、こういうことらしい。星の光が先に体へ入ってきて、少しずつ場所を空けさせる。


 昼のあいだは平気だった。人前では長い袖と高い襟でごまかせたし、そうして立っていれば、誰もこの娘が半分ほど星になりかけているとは思わない。


 城では儀の支度が始まっていた。塔の掃除、(しょく)の数、当日の順路。祭儀長が日に一度やってきて、細かな確認をしていく。誰も「死」とは言わない。全員が「還られる日」と言う。


「ラフィ。あなたは近ごろ、どこにいるのです」


 ある夜、シェリアは寝台の上からそう尋ねた。


「書庫に」


「毎晩ですか」


「毎晩でございます」


 ラフィは水差しを置きながら答えた。指に細かな(ほこり)がついている。古い綴りを触っている手だ。


「何を探しているのです」


「儀のやり方を」


「もう決まっているでしょう」


「決まっているのは、いまのやり方です」


 水差しを置く音が、思ったより硬く鳴った。


「昔のやり方が同じだとは限りません。書き換えられたものは、たいてい書き換えた跡が残ります」


 シェリアは何も言わなかった。

 この娘は、まだ諦めていない。諦めていない者に「無駄です」と言うのは、たぶんいちばん残酷なことだ。


「ラフィ。少し、そこに座りなさい」


 ラフィは寝台のふちに腰を下ろした。背筋はいつも通りまっすぐで、けれど目の下が(くぼ)んでいる。


「髪を()いてくださいませんか」


「……いま、でございますか」


「いまです」


 櫛が通される。ゆっくりと、丁寧に。この娘は昔から、髪を梳く手だけは驚くほどやさしい。


 鏡はわざと見ないようにした。見れば、首すじが光っているのが自分でわかってしまう。


「ラフィ」


「はい」


「もし、やり方が見つからなかったら」


「見つけます」


「もし、ですよ」


 櫛が止まった。


「……見つけます」


 言い直しではなかった。同じ言葉を、二度目のほうが強く置いた。


 シェリアは笑おうとして、失敗した。かわりに、後ろへ手を伸ばして、櫛を持ったままの手をつかんだ。


 ラフィの手は冷たかった。書庫の冷えを持ったままの手だ。


「あなたは、わたしが還ったあと、どうするのです」


「考えておりません」


「考えなさい」


「……考えたくありません」


 はじめて、この娘の声が崩れた。


 振り返れば泣いているかもしれない。だから振り返らなかった。つかんだ手を、そのまま自分の頬に当てる。冷たさが心地よかった。


「ラフィ」


「はい」


「あなたは、いい人ですね」


 言いたかったのは、そんな言葉ではなかった。


 もっと近くて、もっと勝手で、口にしたら最後、この娘を一年ぶんではなく一生ぶん縛ってしまう言葉だ。まだ引き返せるうちに、代わりのものを渡しておく。


「シェリ」


「なんです」


「わたくしは、」


 言いかけて、ラフィは口をつぐんだ。


 二人とも、同じことをした。同じ夜に、同じ理由で。


 しばらくして、櫛がまた動きはじめた。


 その数日後、シェリアは書庫の机に開かれたままの綴りを見た。


 ラフィが席を外した隙だった。埃をかぶった古い頁ではなく、比較的新しい写しのほうだ。星読みの記録で、二十年前の欄が開いている。


 その夜に生まれた子の名。この国でひとり。


 自分の名前が、そこにある。


 シェリアは指を伸ばして、その一行に触れた。触れて、それからすぐに引っこめた。


 紙の表面が、ほんのわずかに毛羽立っている。

 指の腹が、その凹凸(おうとつ)を覚えていた。


 足音が近づいてきたので、綴りから離れた。戻ってきたラフィは、机の上を見て、それからシェリアを見た。


「何か、ご覧になりましたか」


「いいえ。埃が多いですね、ここは」


 ラフィは何も言わず、綴りを閉じた。


 閉じる音を聞きながら、シェリアは思った。

 あと、四十六日。


 この娘には、最後まで気づかせないでおこう。


 儀の前夜は、よく晴れていた。


 窓を開ければ、細りきったあの星が、まだかろうじて見えている。明日の夜、あれは見えなくなる。そういう夜に儀は行われる。


 シェリアはもう起き上がれなかった。


 この一月で急に進んだ。体の内側が明るくなるほど、外側の力が抜けていく。指を動かすのにも順番を思い出さなければならない。


「ラフィ」


「はい」


 ラフィは寝台のそばの床几に座っていた。三日ほど城の部屋に戻っていない。着替えてはいるが、目の下の窪みは深くなる一方だ。


「明日は、いい夜になりそうですね」


「……はい」


「怒っています?」


「怒っておりません」


「怒っていますね」


 ラフィは答えなかった。かわりに、水を含ませた布でシェリアの額を拭った。この娘の手つきは、最後まで丁寧なままだった。


「書庫は、どうなりました」


 訊いてから、訊くべきではなかったと思った。


「……()けた頁がありました」


 ラフィの声は低かった。


「星図の、古い写しです。添星について書かれた部分だけ、綴りから外されていました。誰かが持ち出したのではなく、外して、そのままにしてある」


「隠したのですね」


「隠しました。それも、ずいぶん昔に」


「困った人たちですね」


「……はい」


 ラフィは布を(たらい)に沈めて、絞った。水の音が長く続いた。


「間に合いませんでした」


 その一言を言うのに、この娘はどれだけの夜を使ったのだろう。


 シェリアは、動く方の手をゆっくり伸ばした。指はもう、まぶしいほど光っている。ラフィはその手を、いつものように冷たい手で受け止めた。


「ラフィ。ひとつだけ、言っておきたいことがあります」


「はい」


「わたしが還ったあと、あなたは夜が嫌いになるでしょう」


 ラフィの肩が、わずかに動いた。


「上を見れば、わたしがいます。見なければ、わたしがいないことを思い出します。どちらにしても、あなたは毎晩つらい」


「……」


「ですから、この一年を使いました」


 シェリアは、天井のほうを見た。もう首をめぐらせるのがつらい。かわりに、覚えている景色を順に思い出していく。


 黒い水面に散らばった星。昼の熱を抱いた石の屋根。刈り入れの済んだ畑。提灯の灯り。


「湖も、屋根も、畑も、祭りも。ぜんぶ、あなたと行きました」


「はい」


「これからあなたが夜に上を見るとき、思い出すのはわたしが死んだ夜ではありません。あの四つの夜のどれかです。人はそういうふうにできていますから」


 ラフィが息を吸う音がした。


「見上げても寂しくならないように、しておきましたから」


 しばらく、返事がなかった。


 やがて、握られた手に力がこもった。痛いほどだった。この娘が力の加減を間違えるのを、シェリアははじめて知った。


「……ずるうございます」


「よく言われます」


「言われておりません。誰にも」


「では、あなたが最初です」


 ラフィは笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、握った手を離さなかった。


 その夜、二人は同じことを考えていた。言えばこの一年が別のものに変わってしまう言葉を、二人とも、最後まで口にしなかった。


 翌日の夜。


 塔の頂には風がなかった。


 円い床の中央に立たされ、祭儀長が長い祝詞を唱えている。周囲に並ぶ人々は皆うつむいている。誰も顔を上げない。それが作法なのだと、シェリアは今日はじめて知った。


 祝詞に、名は一度も出てこなかった。殿下。御身。器。そう呼ばれるばかりだった。


 ラフィだけが、顔を上げていた。


 (きざはし)の下、決められた線の手前で、まっすぐにこちらを見ている。近づくことは許されない。侍女の役目は、ここまでだ。


 空を見た。

 あの星は、もうどこにも見えない。ひとつが死のうとしている。


 体の中の光が、外へ出たがっているのがわかった。押さえていたものが、ゆっくりとほどけていく。


 最後に、シェリアはラフィのほうへ顔を向けた。


 言いたいことはいくつもあった。名前を呼んでほしいとか、忘れないでほしいとか、幸せになってほしいとか。どれも、この娘を縛る言葉だ。


 だから、いちばん短いものを選んだ。


「隠れるほうは、わたしにさせて」


 ラフィの唇が動いた。何と言ったのかは、聞こえなかった。


 光が、床から吹き上がった。


 視界が白くなり、音が遠のく。最後に見えたのは、決められた線を越えて走り出そうとする娘と、それを止める何本もの腕だった。


 ——ああ。


 止められてよかった、とシェリアは思った。


 そうして、光は空へのぼり、細っていた星のあたりで、ひとつぶんだけ明るくなった。


 その夜、国の守りは満ちた。


 塔の上には、誰もいなくなった。



 〇〇〇



 三年が過ぎた。


 国の守りは、去年の秋あたりから、また細りはじめている。


 星見の間の床に落ちる帯は、指三本ぶん痩せた。城では次の器の話が出はじめ、祭儀長は毎晩のように書庫へ来る。二十年前の夜に生まれた者は、この国にもういない。いないと知っていて、それでも紙を()るしかない。


 ラフィは書庫にいた。


 侍女の役目は、仕える相手がいなくなった日に終わっている。そのまま城を出るはずだったが、願い出て書庫番になった。給金は下がった。かまわなかった。ここには紙がある。


 昼は目録を作り、夜になると自分の仕事をした。

 欠けた頁を、探している。


 三年のあいだに、ラフィは同じ場所を何度も歩いた。城の裏手の湖。星見の塔の屋根。刈り入れの済んだ畑。冬の祭りの通り。

 行けば、あの人が指を浸した水面があり、背中をあたためた石があった。約束どおり、上を見ても寂しくはならなかった。


 寂しくならないぶん、腹が立った。


 なぜあの人が、自分の残りの夜まで使って、こちらの夜の面倒を見なければならなかったのか。

 その筋の通らなさが、三年間、ラフィを書庫に縛りつけていた。


 もうひとつ、縛っているものがあった。


 城の写しの、二十年前の欄。あの一行のあたりが、わずかに毛羽立っている。

 三年前から気づいていた。何度も灯りに透かした。けれど写しの紙は薄く、削られた文字の窪みまでは残らない。影は浮かばなかった。


 読めないなら、読める紙を探すしかない。


 欠けた頁と削り跡は、辺境の教会の綴りの中から出た。


 城の書庫にないなら、城の外にある。単純な話だった。単純な話に三年かかったのは、教会の綴りが百と七つあり、そのすべてを——写しではなく原本を——取り寄せる許しを得るのに二年を要したからだ。


 その一冊の、二十年前の欄。

 あの夜に生まれた子の名を記した、一行。


 ラフィは灯りを近づけて、そこを見た。


 名前が、二つ書かれていた。


 一つは、シェリア。

 もう一つは、削り取られていた。


 削り跡は丁寧(ていねい)だった。刃物の先で、根気よく、何度も撫でるようにして消してある。それでも厚い原本の紙は嘘をつかない。裏返して灯りにかざせば、消えた文字の窪みが影になって浮いた。


 三文字。


 ラ、フ、ィ。


 息が、止まった。


 自分の生まれた夜など、これまで一度も考えたことがなかった。侍女の娘の生まれた日を祝う者はいない。両親は早くに死に、城に上がってからは、暦のことなど星読みの領分だった。


 あの夜に生まれた子は、二人いた。

 王女と、その侍女。年が同じなのは、偶然ではなかった。


 そして片方の名が、削られていた。


 誰が削ったのかは、考えるまでもなかった。


 祭儀長は、辺境へは照会しかしていない。取り寄せたのは写しだ。そしてその写しには、はじめから名が一つしかなかった。

 つまり削られたのは、写しが作られるより前。国が「あの夜の生まれ」を探しはじめてから、名が読み上げられるまでの、わずかな隙。そのあいだに誰かが辺境の教会まで手を回して、原本に刃物を入れた。


 王女ならできる。


 国が探したのは「ひとり」だった。あの人は、自分が「ひとり」になるように書き換えた。


 紙の毛羽立ちを、あの人は見ている。書庫の机に綴りが開かれたままだった日、戻ってみると机の前に立っていて、「埃が多いですね」と言った。あのとき綴りに触れた指が何を確かめていたのか、いまならわかる。


 ラフィはその場に膝をついた。声は出なかった。三年ぶんの何かが喉のところで詰まって、そこから先へ動かなかった。


 欠けていた頁は、同じ教会の、別の一冊から出た。


 名簿とは何の関わりもない、古い献納記録の綴りである。その末尾に、外された星図の写しが挟まっていた。城の書庫から消えていた、添星の項だ。持ち出した者は、燃やさずに、ここへ隠していた。

 あの人が取り寄せさせたのは、二十年前の欄がある一冊だけだったのだろう。この綴りは、()じ糸のほつれ方からして、何十年も開かれた跡がなかった。


 ラフィは灯りを引き寄せて、一行ずつ読んだ。


 書かれていたのは、こういうことだった。


 あの星は、ひとつではない。二つある。

 近すぎて、地上からは一つに見える。二つは互いのまわりを回りながら、代わるがわる相手の前を横切り、そのたびに片方が相手を隠す。隠されているあいだ、地上に届く光は半分になる。だから守りは細り、また戻る。


 星は死にかけてなどいなかった。

 隠れていただけだった。


 そして、その星の下に生まれる子も、必ず二人。


 次の頁に、儀の古い形が書かれていた。


 器は二人。

 片方が夜空へ(のぼ)り、隠れた星の代わりにそこへ立つ。欠けたぶんの光を、自分の身から出して埋める。焼かれるのは、この役だ。

 もう片方は地上に残る。そして隠れていた星がふたたび現れる夜——光がいちばん細り、そこから満ちはじめる夜に、上がっている者の名を呼ぶ。


 ——()ばれし者は(くだ)るべし。呼びし者は、次に上るべし。


 呼ばれた者は降りられる。呼んだ者が、次の番に上がる。

 そうして代わるがわる上がっているかぎり、どちらも夜空へ還らずに済む。


 呼ぶ者がいなければ、上がった者は降りられない。焼き切れて、星の光に溶ける。

 それを、この国では「還る」と呼んでいる。


 名についても、短く添えてあった。


 ——名は(はだか)のまま呼ぶべし。(うやま)いを帯びた名は、天に届かぬ。


 ひとりで受け続ければ、焼き切れる。

 当たり前だった。星ですら、二つでそうしているのだ。


 最後の一行は、ほかより新しい墨で書かれていた。書き手が変わっている。


 ——対を揃うるは(わずら)わし。ひとりを立たすれば足る。


 ラフィは、その一行を長く見ていた。


 簡単だったのだ。二人そろえて、交代の仕方を教えて、記録を残して、次の代へ渡していくよりも。ひとり選んで、還らせるほうが。


 頁を外したのは、この一行を書いた者だろう。外してしまえば、次の代は知らずに済む。知らなければ、迷いもしない。


 そして——あの人も、知らなかった。


 この綴りは開かれていない。あの人が見たのは名簿だけだ。二人いることは知っていて、交代のことは知らなかった。どちらか一人が選ばれるのなら、こちらにさせない。それだけのために、刃物を入れた。


 ——隠れるほうは、わたしにさせて。


 あれは、順番を知って言った言葉ではなかった。何も知らないまま、たまたま正しい順番を言い当ててしまった言葉だ。


 だから、余計に(たち)が悪い。


 ラフィは頁を閉じた。


 窓の外を見る。今夜も星は出ている。三年前にひとつぶんだけ明るくなった場所を、目をつぶっても指せる。


 星図には、光がもっとも細る夜が算えられていた。


 あと、十一日。


 ラフィは立ち上がった。三年で、はじめて紙より先にすべきことができた。



 十一日目の夜、ラフィは塔にのぼった。


 誰にも断らなかった。書庫番が(きざはし)を上がっていくのを咎める者は、途中まで一人もいなかった。


 頂の床は、三年前のままだった。円く、平らで、風がない。中央に立つと、足の裏から冷たさが伝わってくる。あの人はここに立っていた。ここから、こちらを見た。


 空を見上げる。

 光は細りきって、ほとんど見えない。星図の通りだ。


「——何をしておられる」


 階の下から声がした。祭儀長だった。息を切らせて、燭を掲げている。三年で、ずいぶん老いた。


 ラフィは懐から折りたたんだ頁を出し、階の上から落とした。


 紙が舞って、老人の足元に落ちる。拾い上げて、燭を近づけて、読んでいく。その顔から、だんだんと色が引いていった。


「……これは」


「あなたさまが探しておられた頁です」


「どこに」


「辺境の教会に。原本を取り寄せる許しをいただくのに、二年かかりました」


 祭儀長は頁を持つ手を震わせていた。老人の目が、最後の一行のあたりで止まる。対を揃うるは煩わし、の一行だ。


「わたくしの名は、二十年前の欄に書かれておりました。いまは削られておりますが、原本には窪みが残っております」


「……検めます」


「いま、検めていただかなくて結構です」


 ラフィは空を見た。細った光が、いままさに、いちばん細い。


「頃合いですので」


 老人は何か言おうとして、言わなかった。かわりに、燭を掲げたまま、その場に膝をついた。


 止めない、という意味だった。


 ラフィは床の中央に立ち直した。


 ——呼ばれし者は降るべし。名は裸のまま呼ぶべし。


 三年前、あの人が光になったとき、誰も名を呼ばなかった。呼べなかったのだ。祝詞は殿下と器を繰り返すばかりで、王女を呼び捨てにできる者は、記録に残るかぎり一人もいない。


 あの人は、そんなことは何も知らずに、あの言い方をした。


 半分だけ。足りない字のぶんは、敬っていることにしてください。


 半分では届かない。今夜は、裸のまま呼ばなければならない。


 ラフィは息を吸った。


 三年前に走り出そうとして、腕に押さえこまれた夜から、ずっと喉のところで詰まっていたものが、ようやく動いた。


「——シェリア」


 声が、頂から夜へ出ていった。


 細っていた光が、()れた。


 それから、割れた。


 一つに見えていたものが、二つになる。片方が横へずれて、隠れていたもう片方が、姿を現す。二十年ぶんの光がいっせいに降りてきて、円い床を白く灼いた。


 熱かった。焼かれる、と思った。


 構わずに、ラフィは両手を上げた。降りてくるものを受け取るには、両手が()る。片手では足りない。この三年で覚えたことの中で、いちばん単純な理屈だった。


 掌に、重さが落ちてきた。


 光ではなく、重さだった。人ひとりぶんの。


 膝が折れる。抱きとめた腕の中に、あたたかいものがある。長い髪が首すじに触れて、その下で、細い肩が上下していた。


 息をしている。


 ラフィは動けなかった。腕の力もゆるめられなかった。三年前に離してしまった手を、二度と離さないための力の入れ方を、体のほうが先に思い出していた。


 やがて、腕の中で、まぶたが動いた。


 目が開く。焦点が合うまで、しばらくかかった。それから、その人はゆっくりと息を吸って、掠れた声で言った。


「……交代、ずいぶん待たせましたね」


 ラフィの喉が鳴った。


「……ご存じだったのですか」


「知りませんでしたよ。上がってから知ったのです」


 その人は、まぶしそうに目を細めた。


「向こうに立ってみたら、隣にもうひとつありました。近すぎて、地上からは一つに見えるのですね」


 三年。

 この人は、それを知ったまま、三年のあいだ呼ばれるのを待っていた。


「……窪みは、残るのです」


「あら」


「原本の紙は、厚うございますので」


「……困った紙ですね」


 その人は、それきり言い訳をしなかった。


 ラフィの目から、三年ぶんが、いっぺんに出た。


 みっともない顔をしているのはわかっていたが、隠す手が(ふさ)がっている。塞いだままでいたかった。


「泣いています?」


「泣いておりません」


「泣いていますね」


「……はい」


「ラフィ」


「はい」


「呼び捨てにしましたね」


「……いたしました」


「記録に残る、最初の一人です」


 その人は、そう言って笑った。三年前と同じ笑い方だった。


 階の下で、老いた祭儀長がずっと頭を垂れていた。燭の火が、風もないのに揺れていた。


 空では、割れた二つの星が、また少しずつ近づいていく。次にどちらかが隠れる夜が来たら、上がるのはこちらの番だ。そのときは、この人が地上に残って、名を呼べばいい。

 何度でも、代われる。二人いるというのは、そういうことだった。


 ラフィは、腕の中の重さを抱えたまま、顔を上げた。


 見上げても、もう寂しくなかった。


最後までお読みいただきありがとうございました。


シェリアとラフィの名前は、こと座に並ぶ二つの星から取っています。片方が、実際に「二つで一つ」の星です。


楽しんでいただけましたら、★評価やブックマークをいただけると励みになります。


***


連載中の作品もあります。

「封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史」

こちらは一転して賑やかな話です。よければ作者ページから。


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― 新着の感想 ―
シェリアとラフィ、二人の間にある絆がとても素敵なお話でした。 ただ一緒にいるというだけではなく、相手を大切に思うからこその選択や行動が描かれていて、その想いの深さに惹かれました。 切なさを感じる場面…
感想一覧
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