シェリアク
「次に夜空へ還られるのは、シェリア王女殿下でございます」
星見の間の床に跪き、巻いた紙を読み上げたのは祭儀長だった。
「あら、そう」
名を呼ばれた当人は、湯気の立つ杯を持ったまま、そう言った。
シェリア。この国の第二王女で、たったいま夜空に還ると告げられた娘である。
読み上げた声が高い天井にのぼって消えるまで、誰も口を利かなかった。
父も、姉も、この場にはいない。王家の者はひとりも来なかった。来なくてよい場だと、誰かが決めたのだろう。
祭儀長がゆっくりと顔を上げる。
「……殿下。いま申し上げたことの意味を、おわかりでいらっしゃいますか」
「わかりますよ。わたしが死ぬのでしょう」
天窓から落ちる守りの光が、床を白く灼いている。真上の星からまっすぐ差してくる、夜だけの帯だ。子どもの頃からずっと同じ場所にある。ただ、去年の同じ夜より指一本ぶん細い。
守りが欠けはじめている。だからこの紙が開かれた。
「姫さま」
背後で、ラフィの声が掠れた。
侍女の娘だ。十のときからシェリアのそばにいる。年は同じで、はじめは遊び相手として城に上げられた。字も、隣に座って一緒に覚えた口である。名を呼んだきり続かない。振り返ると、いつも通りの無表情の中で、目のふちだけが赤かった。
「祭儀長さま。他に、いらっしゃらないのですか」
ラフィが一歩前へ出た。侍女が祭儀の場で口を利くのは、本来なら叱られてもおかしくない。祭儀長は咎めずに、巻いた紙を膝の上で押さえた。
「添星となれるのは、あの星が墜ちかけた夜に生まれた御方のみ。——二十年前のあの夜に生を受けられたのは、この国では殿下おひとりでございます」
「……おひとり」
「城の記録を検め、辺境の教会にも照会いたしました。写しを取り寄せ、一枚ずつ確かめております。あの夜の生まれは、殿下おひとりきり」
ラフィが黙る。反論の材料が、彼女の手には一枚もなかった。
祭儀長はシェリアに向き直り、儀のあらましを述べていく。守りが細るのは星がひとつ死にかけているためであること。欠けを埋めるには、その夜に生まれた御方が器となって光を受け、夜空へ還らねばならないこと。
「儀は、光がいちばん細る夜に執り行います」
「それは、いつです」
「およそ一年ののちでございます」
一年。
シェリアは指を折るような仕草をして、それから窓を見上げた。
「わかりました」
驚いたのは祭儀長のほうだったらしい。老いた声が短く途切れ、それから深く頭を下げて、退がっていった。
扉が閉まる。二人きりになる。
「……よろしいのですか」
ラフィが言った。低い、抑えた声だった。
「よくはありませんよ。でも、わたしが騒いだら光が戻るというなら、いくらでも騒ぎますけれど」
「戻りません」
「でしょう」
シェリアは笑った。ラフィは笑わなかった。
この娘は昔からそうだ。褒められても表情を変えず、失敗すればそのぶんだけ長く黙る。今も、握った両手の指が白くなっている。
——ああ、この手が。
この一年で、いちばん見ることになる手だ。
シェリアは立ち上がり、細くなった光の帯をまたいで、ラフィの前に立った。
「ラフィ。お願いがあります」
「なんなりと」
「この一年、夜に外へ出してほしいのです」
最初の夜は、城の裏手の湖だった。
衛兵の交代の隙を縫って、二人は外套をかぶって門を抜けた。風がまだ冷たい季節で、水面は黒く、そこに星が落ちて散らばっていた。
「ラフィ。見て、下にもありますよ」
「……存じております」
「知っているのと、見るのは違うでしょう」
シェリアは汀に膝をついて、水に指を浸した。散らばった光がゆれて、崩れて、また集まる。
ラフィは少し離れたところに立っていた。この娘は外套の裾が地面につくのを嫌う。今日もつかないように持ち上げている。
「そこでは見えませんよ。もっと近くへ」
「見えております」
「わたしの隣に来なさい、という意味です」
ラフィが、渋々といった足取りで一歩ぶんだけ寄った。
「ラフィ」
「はい」
「一年しかないのですから、わたしのことは呼び捨ててくださいませんか」
「無理でございます」
「即答ですね」
「王女殿下を呼び捨てにした者は、記録に残るかぎり一人もおりません」
「では、記録に残る最初の一人になってください」
「わたくしが罰されます」
シェリアは水から指を抜いて、しずくを払った。それから、少し考えて言った。
「では、半分だけ」
「……半分」
「シェリ。それなら呼び捨てではないでしょう。足りない字のぶんだけ、敬っていることにしてください」
ラフィは黙っていた。長く黙るときは、断っているのではなく、考えている。十年そばにいれば、それくらいはわかる。
「……シェリ」
「はい。よくできました」
「褒められることではございません」
それでも、その夜からラフィは「姫さま」と言わなくなった。
夏には、星見の塔の屋根にのぼった。
石は昼の熱をまだ抱えていて、寝転がると背中があたたかい。真上に星の川が渡っていて、シェリアはそれを指でなぞった。
「あの中に、わたしの星もあるのでしょうね」
「ございます。あれです」
ラフィの指した先を目で追う。細く、頼りない光だった。天窓から落ちてくるときはあれほど白いのに、空にあるとずいぶん小さい。
「まあ。わたしの星は、地味なのですね」
「そうではなく」
「そうでしょう。地味です」
シェリアが笑うと、ラフィの喉が一度だけ、ふ、と鳴った。笑ったのだと気づくのに、しばらくかかった。
「けれど、不思議ですね。ほかの星は二つ並んでいたりするのに、あれはひとつきりで」
「……ひとつきりでございます」
秋は、麦の畑だった。
刈り入れの済んだ畑は見晴らしがよく、地平のきわまで星が下りてくる。二人は藁の山に背をあずけて、持ってきた葡萄酒を回し飲みした。杯はひとつしかない。ラフィが「毒味でございます」と言って先に口をつけ、そのまま渡してきた。
「ラフィ。この一年で、いくつ夜を数えたと思います」
「百と、四十七でございます」
「数えていたのですか」
「数えるなとは、仰せつかっておりません」
シェリアは杯を持ったまま、しばらく何も言えなかった。
この娘は、たぶん残りの数も知っている。知っていて、一度も口にしない。
「ラフィ」
「はい」
「あなたのやりたいことも、その中に混ぜてよいのですよ」
「わたくしのやりたいことは、いま、やっております」
冬の街の祭りは、いちばん人が多かった。
顔を隠して人混みにまぎれ、提灯の下を歩いた。焼いた木の実を紙の袋で買って、二人で半分ずつ食べた。ラフィは熱いものが苦手で、口をすぼめて息を吹いている。その顔を見られただけで、来た甲斐があったと思った。
通りの角に、大きな灯りがひとつ据えられていた。
シェリアはその前にすっと立った。光が遮られて、ラフィの顔にちょうど自分のかたちの影が落ちる。
「どうなさいました」
「まぶしそうにしていましたから」
「……はあ」
「こうしていれば、あなたは目を細めなくてよいでしょう」
ラフィは何か言いかけて、やめた。かわりに、影から動かなかった。
帰り道、シェリアはふと自分の手を見た。
人混みの熱で火照ったのだと思った。けれど袖の中に引き入れて、暗がりで開いてみると、やはりそうだった。
指の先が、薄く光っている。
握りこんで、外套の下に隠す。隣を歩く娘は気づいていない。木の実の袋を几帳面に折りたたんで、懐にしまっている。
「ラフィ」
「はい」
「来年の祭りにも、来たいですね」
嘘をついた。ラフィは足を止めずに答えた。
「では、来ましょう」
この娘は、残りの夜まで数えている。
だから、これも嘘だ。
祭りの夜に見つけた光は、指の先だけでは済まなくなっていた。
手首の内側、鎖骨のくぼみ、項。薄い布の下でぼんやりと灯って、暗い部屋にいると自分の輪郭が見える。眠ろうとして目を閉じても、瞼の裏がうっすら明るい。
器になるとは、こういうことらしい。星の光が先に体へ入ってきて、少しずつ場所を空けさせる。
昼のあいだは平気だった。人前では長い袖と高い襟でごまかせたし、そうして立っていれば、誰もこの娘が半分ほど星になりかけているとは思わない。
城では儀の支度が始まっていた。塔の掃除、燭の数、当日の順路。祭儀長が日に一度やってきて、細かな確認をしていく。誰も「死」とは言わない。全員が「還られる日」と言う。
「ラフィ。あなたは近ごろ、どこにいるのです」
ある夜、シェリアは寝台の上からそう尋ねた。
「書庫に」
「毎晩ですか」
「毎晩でございます」
ラフィは水差しを置きながら答えた。指に細かな埃がついている。古い綴りを触っている手だ。
「何を探しているのです」
「儀のやり方を」
「もう決まっているでしょう」
「決まっているのは、いまのやり方です」
水差しを置く音が、思ったより硬く鳴った。
「昔のやり方が同じだとは限りません。書き換えられたものは、たいてい書き換えた跡が残ります」
シェリアは何も言わなかった。
この娘は、まだ諦めていない。諦めていない者に「無駄です」と言うのは、たぶんいちばん残酷なことだ。
「ラフィ。少し、そこに座りなさい」
ラフィは寝台のふちに腰を下ろした。背筋はいつも通りまっすぐで、けれど目の下が窪んでいる。
「髪を梳いてくださいませんか」
「……いま、でございますか」
「いまです」
櫛が通される。ゆっくりと、丁寧に。この娘は昔から、髪を梳く手だけは驚くほどやさしい。
鏡はわざと見ないようにした。見れば、首すじが光っているのが自分でわかってしまう。
「ラフィ」
「はい」
「もし、やり方が見つからなかったら」
「見つけます」
「もし、ですよ」
櫛が止まった。
「……見つけます」
言い直しではなかった。同じ言葉を、二度目のほうが強く置いた。
シェリアは笑おうとして、失敗した。かわりに、後ろへ手を伸ばして、櫛を持ったままの手をつかんだ。
ラフィの手は冷たかった。書庫の冷えを持ったままの手だ。
「あなたは、わたしが還ったあと、どうするのです」
「考えておりません」
「考えなさい」
「……考えたくありません」
はじめて、この娘の声が崩れた。
振り返れば泣いているかもしれない。だから振り返らなかった。つかんだ手を、そのまま自分の頬に当てる。冷たさが心地よかった。
「ラフィ」
「はい」
「あなたは、いい人ですね」
言いたかったのは、そんな言葉ではなかった。
もっと近くて、もっと勝手で、口にしたら最後、この娘を一年ぶんではなく一生ぶん縛ってしまう言葉だ。まだ引き返せるうちに、代わりのものを渡しておく。
「シェリ」
「なんです」
「わたくしは、」
言いかけて、ラフィは口をつぐんだ。
二人とも、同じことをした。同じ夜に、同じ理由で。
しばらくして、櫛がまた動きはじめた。
その数日後、シェリアは書庫の机に開かれたままの綴りを見た。
ラフィが席を外した隙だった。埃をかぶった古い頁ではなく、比較的新しい写しのほうだ。星読みの記録で、二十年前の欄が開いている。
その夜に生まれた子の名。この国でひとり。
自分の名前が、そこにある。
シェリアは指を伸ばして、その一行に触れた。触れて、それからすぐに引っこめた。
紙の表面が、ほんのわずかに毛羽立っている。
指の腹が、その凹凸を覚えていた。
足音が近づいてきたので、綴りから離れた。戻ってきたラフィは、机の上を見て、それからシェリアを見た。
「何か、ご覧になりましたか」
「いいえ。埃が多いですね、ここは」
ラフィは何も言わず、綴りを閉じた。
閉じる音を聞きながら、シェリアは思った。
あと、四十六日。
この娘には、最後まで気づかせないでおこう。
儀の前夜は、よく晴れていた。
窓を開ければ、細りきったあの星が、まだかろうじて見えている。明日の夜、あれは見えなくなる。そういう夜に儀は行われる。
シェリアはもう起き上がれなかった。
この一月で急に進んだ。体の内側が明るくなるほど、外側の力が抜けていく。指を動かすのにも順番を思い出さなければならない。
「ラフィ」
「はい」
ラフィは寝台のそばの床几に座っていた。三日ほど城の部屋に戻っていない。着替えてはいるが、目の下の窪みは深くなる一方だ。
「明日は、いい夜になりそうですね」
「……はい」
「怒っています?」
「怒っておりません」
「怒っていますね」
ラフィは答えなかった。かわりに、水を含ませた布でシェリアの額を拭った。この娘の手つきは、最後まで丁寧なままだった。
「書庫は、どうなりました」
訊いてから、訊くべきではなかったと思った。
「……欠けた頁がありました」
ラフィの声は低かった。
「星図の、古い写しです。添星について書かれた部分だけ、綴りから外されていました。誰かが持ち出したのではなく、外して、そのままにしてある」
「隠したのですね」
「隠しました。それも、ずいぶん昔に」
「困った人たちですね」
「……はい」
ラフィは布を盥に沈めて、絞った。水の音が長く続いた。
「間に合いませんでした」
その一言を言うのに、この娘はどれだけの夜を使ったのだろう。
シェリアは、動く方の手をゆっくり伸ばした。指はもう、まぶしいほど光っている。ラフィはその手を、いつものように冷たい手で受け止めた。
「ラフィ。ひとつだけ、言っておきたいことがあります」
「はい」
「わたしが還ったあと、あなたは夜が嫌いになるでしょう」
ラフィの肩が、わずかに動いた。
「上を見れば、わたしがいます。見なければ、わたしがいないことを思い出します。どちらにしても、あなたは毎晩つらい」
「……」
「ですから、この一年を使いました」
シェリアは、天井のほうを見た。もう首をめぐらせるのがつらい。かわりに、覚えている景色を順に思い出していく。
黒い水面に散らばった星。昼の熱を抱いた石の屋根。刈り入れの済んだ畑。提灯の灯り。
「湖も、屋根も、畑も、祭りも。ぜんぶ、あなたと行きました」
「はい」
「これからあなたが夜に上を見るとき、思い出すのはわたしが死んだ夜ではありません。あの四つの夜のどれかです。人はそういうふうにできていますから」
ラフィが息を吸う音がした。
「見上げても寂しくならないように、しておきましたから」
しばらく、返事がなかった。
やがて、握られた手に力がこもった。痛いほどだった。この娘が力の加減を間違えるのを、シェリアははじめて知った。
「……ずるうございます」
「よく言われます」
「言われておりません。誰にも」
「では、あなたが最初です」
ラフィは笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、握った手を離さなかった。
その夜、二人は同じことを考えていた。言えばこの一年が別のものに変わってしまう言葉を、二人とも、最後まで口にしなかった。
翌日の夜。
塔の頂には風がなかった。
円い床の中央に立たされ、祭儀長が長い祝詞を唱えている。周囲に並ぶ人々は皆うつむいている。誰も顔を上げない。それが作法なのだと、シェリアは今日はじめて知った。
祝詞に、名は一度も出てこなかった。殿下。御身。器。そう呼ばれるばかりだった。
ラフィだけが、顔を上げていた。
階の下、決められた線の手前で、まっすぐにこちらを見ている。近づくことは許されない。侍女の役目は、ここまでだ。
空を見た。
あの星は、もうどこにも見えない。ひとつが死のうとしている。
体の中の光が、外へ出たがっているのがわかった。押さえていたものが、ゆっくりとほどけていく。
最後に、シェリアはラフィのほうへ顔を向けた。
言いたいことはいくつもあった。名前を呼んでほしいとか、忘れないでほしいとか、幸せになってほしいとか。どれも、この娘を縛る言葉だ。
だから、いちばん短いものを選んだ。
「隠れるほうは、わたしにさせて」
ラフィの唇が動いた。何と言ったのかは、聞こえなかった。
光が、床から吹き上がった。
視界が白くなり、音が遠のく。最後に見えたのは、決められた線を越えて走り出そうとする娘と、それを止める何本もの腕だった。
——ああ。
止められてよかった、とシェリアは思った。
そうして、光は空へのぼり、細っていた星のあたりで、ひとつぶんだけ明るくなった。
その夜、国の守りは満ちた。
塔の上には、誰もいなくなった。
〇〇〇
三年が過ぎた。
国の守りは、去年の秋あたりから、また細りはじめている。
星見の間の床に落ちる帯は、指三本ぶん痩せた。城では次の器の話が出はじめ、祭儀長は毎晩のように書庫へ来る。二十年前の夜に生まれた者は、この国にもういない。いないと知っていて、それでも紙を繰るしかない。
ラフィは書庫にいた。
侍女の役目は、仕える相手がいなくなった日に終わっている。そのまま城を出るはずだったが、願い出て書庫番になった。給金は下がった。かまわなかった。ここには紙がある。
昼は目録を作り、夜になると自分の仕事をした。
欠けた頁を、探している。
三年のあいだに、ラフィは同じ場所を何度も歩いた。城の裏手の湖。星見の塔の屋根。刈り入れの済んだ畑。冬の祭りの通り。
行けば、あの人が指を浸した水面があり、背中をあたためた石があった。約束どおり、上を見ても寂しくはならなかった。
寂しくならないぶん、腹が立った。
なぜあの人が、自分の残りの夜まで使って、こちらの夜の面倒を見なければならなかったのか。
その筋の通らなさが、三年間、ラフィを書庫に縛りつけていた。
もうひとつ、縛っているものがあった。
城の写しの、二十年前の欄。あの一行のあたりが、わずかに毛羽立っている。
三年前から気づいていた。何度も灯りに透かした。けれど写しの紙は薄く、削られた文字の窪みまでは残らない。影は浮かばなかった。
読めないなら、読める紙を探すしかない。
欠けた頁と削り跡は、辺境の教会の綴りの中から出た。
城の書庫にないなら、城の外にある。単純な話だった。単純な話に三年かかったのは、教会の綴りが百と七つあり、そのすべてを——写しではなく原本を——取り寄せる許しを得るのに二年を要したからだ。
その一冊の、二十年前の欄。
あの夜に生まれた子の名を記した、一行。
ラフィは灯りを近づけて、そこを見た。
名前が、二つ書かれていた。
一つは、シェリア。
もう一つは、削り取られていた。
削り跡は丁寧だった。刃物の先で、根気よく、何度も撫でるようにして消してある。それでも厚い原本の紙は嘘をつかない。裏返して灯りにかざせば、消えた文字の窪みが影になって浮いた。
三文字。
ラ、フ、ィ。
息が、止まった。
自分の生まれた夜など、これまで一度も考えたことがなかった。侍女の娘の生まれた日を祝う者はいない。両親は早くに死に、城に上がってからは、暦のことなど星読みの領分だった。
あの夜に生まれた子は、二人いた。
王女と、その侍女。年が同じなのは、偶然ではなかった。
そして片方の名が、削られていた。
誰が削ったのかは、考えるまでもなかった。
祭儀長は、辺境へは照会しかしていない。取り寄せたのは写しだ。そしてその写しには、はじめから名が一つしかなかった。
つまり削られたのは、写しが作られるより前。国が「あの夜の生まれ」を探しはじめてから、名が読み上げられるまでの、わずかな隙。そのあいだに誰かが辺境の教会まで手を回して、原本に刃物を入れた。
王女ならできる。
国が探したのは「ひとり」だった。あの人は、自分が「ひとり」になるように書き換えた。
紙の毛羽立ちを、あの人は見ている。書庫の机に綴りが開かれたままだった日、戻ってみると机の前に立っていて、「埃が多いですね」と言った。あのとき綴りに触れた指が何を確かめていたのか、いまならわかる。
ラフィはその場に膝をついた。声は出なかった。三年ぶんの何かが喉のところで詰まって、そこから先へ動かなかった。
欠けていた頁は、同じ教会の、別の一冊から出た。
名簿とは何の関わりもない、古い献納記録の綴りである。その末尾に、外された星図の写しが挟まっていた。城の書庫から消えていた、添星の項だ。持ち出した者は、燃やさずに、ここへ隠していた。
あの人が取り寄せさせたのは、二十年前の欄がある一冊だけだったのだろう。この綴りは、綴じ糸のほつれ方からして、何十年も開かれた跡がなかった。
ラフィは灯りを引き寄せて、一行ずつ読んだ。
書かれていたのは、こういうことだった。
あの星は、ひとつではない。二つある。
近すぎて、地上からは一つに見える。二つは互いのまわりを回りながら、代わるがわる相手の前を横切り、そのたびに片方が相手を隠す。隠されているあいだ、地上に届く光は半分になる。だから守りは細り、また戻る。
星は死にかけてなどいなかった。
隠れていただけだった。
そして、その星の下に生まれる子も、必ず二人。
次の頁に、儀の古い形が書かれていた。
器は二人。
片方が夜空へ上り、隠れた星の代わりにそこへ立つ。欠けたぶんの光を、自分の身から出して埋める。焼かれるのは、この役だ。
もう片方は地上に残る。そして隠れていた星がふたたび現れる夜——光がいちばん細り、そこから満ちはじめる夜に、上がっている者の名を呼ぶ。
——呼ばれし者は降るべし。呼びし者は、次に上るべし。
呼ばれた者は降りられる。呼んだ者が、次の番に上がる。
そうして代わるがわる上がっているかぎり、どちらも夜空へ還らずに済む。
呼ぶ者がいなければ、上がった者は降りられない。焼き切れて、星の光に溶ける。
それを、この国では「還る」と呼んでいる。
名についても、短く添えてあった。
——名は裸のまま呼ぶべし。敬いを帯びた名は、天に届かぬ。
ひとりで受け続ければ、焼き切れる。
当たり前だった。星ですら、二つでそうしているのだ。
最後の一行は、ほかより新しい墨で書かれていた。書き手が変わっている。
——対を揃うるは煩わし。ひとりを立たすれば足る。
ラフィは、その一行を長く見ていた。
簡単だったのだ。二人そろえて、交代の仕方を教えて、記録を残して、次の代へ渡していくよりも。ひとり選んで、還らせるほうが。
頁を外したのは、この一行を書いた者だろう。外してしまえば、次の代は知らずに済む。知らなければ、迷いもしない。
そして——あの人も、知らなかった。
この綴りは開かれていない。あの人が見たのは名簿だけだ。二人いることは知っていて、交代のことは知らなかった。どちらか一人が選ばれるのなら、こちらにさせない。それだけのために、刃物を入れた。
——隠れるほうは、わたしにさせて。
あれは、順番を知って言った言葉ではなかった。何も知らないまま、たまたま正しい順番を言い当ててしまった言葉だ。
だから、余計に質が悪い。
ラフィは頁を閉じた。
窓の外を見る。今夜も星は出ている。三年前にひとつぶんだけ明るくなった場所を、目をつぶっても指せる。
星図には、光がもっとも細る夜が算えられていた。
あと、十一日。
ラフィは立ち上がった。三年で、はじめて紙より先にすべきことができた。
十一日目の夜、ラフィは塔にのぼった。
誰にも断らなかった。書庫番が階を上がっていくのを咎める者は、途中まで一人もいなかった。
頂の床は、三年前のままだった。円く、平らで、風がない。中央に立つと、足の裏から冷たさが伝わってくる。あの人はここに立っていた。ここから、こちらを見た。
空を見上げる。
光は細りきって、ほとんど見えない。星図の通りだ。
「——何をしておられる」
階の下から声がした。祭儀長だった。息を切らせて、燭を掲げている。三年で、ずいぶん老いた。
ラフィは懐から折りたたんだ頁を出し、階の上から落とした。
紙が舞って、老人の足元に落ちる。拾い上げて、燭を近づけて、読んでいく。その顔から、だんだんと色が引いていった。
「……これは」
「あなたさまが探しておられた頁です」
「どこに」
「辺境の教会に。原本を取り寄せる許しをいただくのに、二年かかりました」
祭儀長は頁を持つ手を震わせていた。老人の目が、最後の一行のあたりで止まる。対を揃うるは煩わし、の一行だ。
「わたくしの名は、二十年前の欄に書かれておりました。いまは削られておりますが、原本には窪みが残っております」
「……検めます」
「いま、検めていただかなくて結構です」
ラフィは空を見た。細った光が、いままさに、いちばん細い。
「頃合いですので」
老人は何か言おうとして、言わなかった。かわりに、燭を掲げたまま、その場に膝をついた。
止めない、という意味だった。
ラフィは床の中央に立ち直した。
——呼ばれし者は降るべし。名は裸のまま呼ぶべし。
三年前、あの人が光になったとき、誰も名を呼ばなかった。呼べなかったのだ。祝詞は殿下と器を繰り返すばかりで、王女を呼び捨てにできる者は、記録に残るかぎり一人もいない。
あの人は、そんなことは何も知らずに、あの言い方をした。
半分だけ。足りない字のぶんは、敬っていることにしてください。
半分では届かない。今夜は、裸のまま呼ばなければならない。
ラフィは息を吸った。
三年前に走り出そうとして、腕に押さえこまれた夜から、ずっと喉のところで詰まっていたものが、ようやく動いた。
「——シェリア」
声が、頂から夜へ出ていった。
細っていた光が、揺れた。
それから、割れた。
一つに見えていたものが、二つになる。片方が横へずれて、隠れていたもう片方が、姿を現す。二十年ぶんの光がいっせいに降りてきて、円い床を白く灼いた。
熱かった。焼かれる、と思った。
構わずに、ラフィは両手を上げた。降りてくるものを受け取るには、両手が要る。片手では足りない。この三年で覚えたことの中で、いちばん単純な理屈だった。
掌に、重さが落ちてきた。
光ではなく、重さだった。人ひとりぶんの。
膝が折れる。抱きとめた腕の中に、あたたかいものがある。長い髪が首すじに触れて、その下で、細い肩が上下していた。
息をしている。
ラフィは動けなかった。腕の力もゆるめられなかった。三年前に離してしまった手を、二度と離さないための力の入れ方を、体のほうが先に思い出していた。
やがて、腕の中で、まぶたが動いた。
目が開く。焦点が合うまで、しばらくかかった。それから、その人はゆっくりと息を吸って、掠れた声で言った。
「……交代、ずいぶん待たせましたね」
ラフィの喉が鳴った。
「……ご存じだったのですか」
「知りませんでしたよ。上がってから知ったのです」
その人は、まぶしそうに目を細めた。
「向こうに立ってみたら、隣にもうひとつありました。近すぎて、地上からは一つに見えるのですね」
三年。
この人は、それを知ったまま、三年のあいだ呼ばれるのを待っていた。
「……窪みは、残るのです」
「あら」
「原本の紙は、厚うございますので」
「……困った紙ですね」
その人は、それきり言い訳をしなかった。
ラフィの目から、三年ぶんが、いっぺんに出た。
みっともない顔をしているのはわかっていたが、隠す手が塞がっている。塞いだままでいたかった。
「泣いています?」
「泣いておりません」
「泣いていますね」
「……はい」
「ラフィ」
「はい」
「呼び捨てにしましたね」
「……いたしました」
「記録に残る、最初の一人です」
その人は、そう言って笑った。三年前と同じ笑い方だった。
階の下で、老いた祭儀長がずっと頭を垂れていた。燭の火が、風もないのに揺れていた。
空では、割れた二つの星が、また少しずつ近づいていく。次にどちらかが隠れる夜が来たら、上がるのはこちらの番だ。そのときは、この人が地上に残って、名を呼べばいい。
何度でも、代われる。二人いるというのは、そういうことだった。
ラフィは、腕の中の重さを抱えたまま、顔を上げた。
見上げても、もう寂しくなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
シェリアとラフィの名前は、こと座に並ぶ二つの星から取っています。片方が、実際に「二つで一つ」の星です。
楽しんでいただけましたら、★評価やブックマークをいただけると励みになります。
***
連載中の作品もあります。
「封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史」
こちらは一転して賑やかな話です。よければ作者ページから。




