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享保十五年、「藍姉妹」は江戸一の染物屋として確固たる地位を築いていた。店には常に多くの客が訪れ、その評判は遠く京や大坂にまで届いていた。
お琴と鈴は、父の夢を超える染物師となっていた。茜も十五歳になり、二人から学んだ技術を活かして、独自の作品を生み出し始めていた。
「茜、その模様、素晴らしいわ」
鈴は娘の描いた下絵に目を細めた。そこには、風と波が調和した、新たな表現が描かれていた。
「ありがとう、お母様。これは『風の記憶』と名付けたんです」
お琴も茜の才能に感心していた。
「あなたには私たち二人の良いところが受け継がれているわ。次の『藍姉妹』を担うのは、あなたね」
茜は照れながらも、嬉しそうに微笑んだ。
ある晴れた日の午後、店に思いがけない客が訪れた。
「い、いらっしゃいませ」
茜が迎えた客は、見るからに疲れ果て、ボロボロの身なりの男だった。
「す、鈴はいるか?」
男の声に、茜は一瞬戸惑った。彼女は母の仕事場へと向かった。
「お母様、あなたをお尋ねの方がいらっしゃいました」
鈴が店の表に出ると、そこには十二年ぶりに再会する夫の姿があった。
「す、鈴……助けてくれ」
ボロボロの姿で現れた元夫・喜助に、鈴は冷静に尋ねた。
「喜助さん……どうしたの?」
「俺たちは夫婦だったじゃないか……」
喜助は床に膝をついた。かつての誇り高き越後屋の若旦那の面影はなく、ただの落ちぶれた男がそこにいた。
「あなたが私と茜を捨てたとき、すべては終わったわ」
鈴の声には怒りはなく、ただ静かな確信があった。
「お願いだ……金を貸してくれ。借金取りに追われてるんだ」
鈴は静かに微笑んだ。
「あなたにはもう何も与えることはないわ。でも、一つだけ教えてあげる」
「何だ……?」
「人生で一番大切なものは何か。それは……」
そのとき、店の外で騒がしい声がした。借金取りたちが店に入ってきた。喜助は恐怖に顔を引きつらせた。
鈴は彼らに向き直り、優雅に一礼した。
「この方とは何のご縁もございません。どうぞご自由に」
借金取りたちは喜助を引きずり出していった。彼の悲鳴が遠ざかる中、鈴は静かに言った。
「大切なものは、目の前にあるものを大事にする心よ」
それを聞いていた茜が母に駆け寄った。
「お母様、強いですね」
鈴は娘を抱きしめた。
「強さとは、誰かを打ち負かすことじゃない。自分の道を信じて歩むことよ」
店の奥から、お琴が現れた。
「また素敵な言葉を言うのね」
お琴は喜助の姿を見ていた。かつては鈴を悲しませた男だが、今は哀れな存在でしかなかった。
「あの男、放っておいて大丈夫?」
鈴は穏やかに頷いた。
「彼の人生は、彼自身のもの。私たちが介入することじゃないわ」
お琴は感心したように妹を見つめた。
「あなたは本当に強くなったわね」
鈴は首を横に振った。
「強くなったんじゃない。ただ、自分の心に正直になっただけ」
三人は笑い合った。彼女たちの笑顔は、藍色の空のように澄んでいた。




