10
享保五年の春、江戸の街に大火が発生した。最初は小石川から少し離れた場所での火事だったが、強い風にあおられて、瞬く間に火の手が広がった。
その夜、鈴と茜は小さな部屋で眠っていた。鈴は一日の疲れで深く眠り込んでいたが、何かに目を覚まされた。
「何だろう?」
外からの騒がしい声と、鼻をつく煙の匂い。鈴は慌てて窓を開けると、遠くに赤い炎が見えた。
「火事だわ!」
鈴は茜を急いで起こした。
「茜、起きて! 火事よ!」
茜は眠い目をこすりながら起き上がった。
「お母様、怖い……」
「大丈夫よ。一緒に逃げましょう」
鈴は急いで大切なものを布に包み、茜の手を取った。しかし、彼らが長屋を出ようとしたとき、既に火の手は近くまで迫っていた。
「こっちは危ない! 逆側へ行きましょう!」
鈴は茜を抱きかかえ、反対方向へ走り出した。しかし、そちらも火に囲まれていた。四方を火に囲まれ、鈴は途方に暮れた。
「助けて! 誰か!」
鈴の叫びは、火の音にかき消されていった。茜は恐怖で震え、鈴の着物にしがみついていた。
「お母様、煙くて苦しい……」
「茜、しっかり!お母さんがあなたを守るからね」
鈴は茜を守るように抱きしめ、少しでも安全な場所を探した。建物の崩れる音、人々の叫び声、炎の熱気が彼女たちを包み込んでいた。
もう駄目かもしれない。鈴はそう思った瞬間、一人の男が煙の中から現れた。
「こっちだ! 急げ!」
男は黒い頭巾で顔を隠し、深い藍色の着物を身にまとっていた。彼は躊躇わず、鈴と茜に近づいてきた。
「私についてきなさい。安全な道を知っている」
鈴は一瞬、男を疑ったが、選択肢はなかった。彼女は茜を抱きしめたまま、男の後を追った。
男は迷いなく火の中を進み、二人を火の届かない場所へと導いた。彼の動きは風のように軽やかで、まるで火すら彼を恐れているかのようだった。
「ここなら大丈夫だ」
安全な広場へと着いた男は、そう言って立ち去ろうとした。
「待って! あなたは誰? なぜ私たちを助けてくれたの?」
鈴が尋ねると、男は振り返った。頭巾の下からわずかに見える口元に、小さな笑みが浮かんでいた。
「私か? 私は『藍の風』だ。困った人がいれば吹いていく風さ」
それだけ言うと、男は煙の中へと消えていった。
「藍の風……」
鈴はその名前を呟いた。なぜか懐かしいような、温かいような感覚が胸を満たした。
茜が震える声で言った。
「お母様、あの人、風のようでした」
鈴は頷いた。確かに、まるで風のような人だった。




