報酬は、攻略の前に
迷宮を攻略した報酬が、入口で待っていた。
【白鐘の迷宮・踏破報酬候補】
【神剣ルクシア】
【最深部の守護者を撃破後、受領可能】
最後の一行さえなければ、最高の朝だった。
俺は石板に触れたまま、腰に差した小刀へ目を落とした。革の鞘から覗く柄は、使い込んで黒くなっている。昨日まで荷縄を切るのに使っていた刃だ。手入れはしてあるが、神剣と並べて比較するような代物ではない。
「十二層まで行って、勝ってから。……先にこれが欲しいんだけどな」
入口の風は冷たかった。山肌を割って現れた白い石の門を抜けると、朝日が背中から遠ざかり、湿った土と鉄の匂いが鼻に入ってくる。奥からは、荷車の車輪が石を擦る音がしていた。
白鐘の迷宮。全体の入口が発見されてから、まだ間もない。
浅い層では採集班が仕事を始めているが、最深部の踏破報告はない。門の脇の掲示板にも、そう書かれていた。
俺の名はアルト・レイン。十八歳。
本日、探索者として初めて迷宮に入る。
揃えた荷物は保存食と水、灯り、紐。あとは、母さんが袖を丈夫に縫い直してくれた濃紺の外套。倉庫で働いて貯めた金も、装備を揃えたら銀貨八枚と銅貨四十枚になった。
立派な剣は、もう少し稼いでから。
いい宿も、あったかい風呂も、そのあとで。
そこまで考えて、口の中が少し苦くなった。
前の人生でも、似たようなことを言っていた。
日本の配送拠点で設備を見ていた俺は、忙しい時期が過ぎたら旅行へ行こうと思っていた。仕事が落ち着いたら、食べたいものを食べようとも。
二十六歳で急な病に倒れたとき、落ち着いたあとの予定は、ほとんど手つかずで残った。
今度はそうならないつもりで、ここまで来たのだ。
この世界で育ててくれた家族も、働いて作った手の硬さも、ちゃんと大事にしたうえで。俺自身が、やりたいことを選ぶために。
「一回だけでも、先にもらえないかな。ちゃんと使って、そこまで行くから」
独り言のつもりだった。
石板が、掌の下でぬるくなった。
最下段の文字が消える。
代わりに、青白い線が石の中を走った。輪の内側から、三本の線が同じ方向へ伸びる。見覚えのない紋様だった。
【先遣者認証】
【踏破報酬の前受けを許可】
【神剣ルクシアを受領しますか】
「……前受け? いいのか、いま? まだ、入口だぞ」
声が裏返り、俺は慌てて口を閉じた。
文字を見直した。
目を擦ろうとして、右手が石板に乗ったままだったことを思い出す。
すぐ後ろでは、短い茶髪の受付係が、次の探索者へ登録札の使い方を説明していた。俺の前にある文字には、誰も反応していない。
神剣を、いま。
この入口で。
俺は表示の「受領」に指を重ねた。
空気が澄んだ音を立てた。
目の前に、細い光の輪が開く。その中心から、白銀の柄が静かにせり出してきた。青い石を抱いた鍔、その下に続く白い鞘。手を差し出すと、柄が吸いつくように掌へ収まった。
ずしりと重い。
けれど、持ち直した途端、その重みは腕を引くものではなくなった。握る位置を教えるように、柄のくぼみが指へ合う。
半分だけ、鞘から抜いた。
刃の上を朝の光が滑った。白い金属の中に、細い金の筋が通っている。鏡のような刀身に、短い黒髪の青年が映っていた。
灰色の目をまん丸にしている。俺だった。
【受領済み:神剣ルクシア】
【補助機能:基本操剣・光刃】
【未精算:白鐘の迷宮】
文字がほどけるように消えたあとも、剣の重さは手に残った。
鞘の口を親指で押した。金具が触れ合って、小さく鳴る。
夢なら、もう少し触り心地を雑に作ってほしい。俺が昨日買った安物の手袋より、よほど手になじんでいた。
鞘の金具を腰の帯へ通す。小刀の位置を少し後ろへずらすと、白い鞘は腿の動きを邪魔しない角度に収まった。
手を離してみる。剣は消えなかった。歩いても、金具がきちんと重さを受けている。
まだ何も倒していない俺が、もう持ち歩けている。
口元が緩むのを、止められなかった。
「……本物、だ。これ、俺の腰にあるんだな」
もう一度だけ柄に触れて、ようやく手を離した。
「お兄さん、いまの剣……え、ここから出てきました?」
受付係の声を、奥から響いた破裂音が遮った。
続けて、石が転がる音。
警鐘が二度、短く鳴った。
「東の搬出口だ! 荷車を下げろ!」
俺は剣を鞘へ戻し、声のした通路へ向かった。
受付係が門の前を空け、外にいる組合員へ手を振る。通りかかった男が荷物を壁際へ寄せて走った。怒鳴り声はしていたが、みんなが同じ場所へ押しかけているわけではない。退避してくる人のために、中央が空けられていく。
入口から二つ目の曲がり角を抜けたところで、土煙が見えた。
壁の一部が崩れている。
資材を載せた荷車が斜めに傾き、その向こうに三人の作業員がいた。ひとりは座り込み、足首のあたりを車輪に挟まれている。
通路の奥で、何かが鼻を鳴らした。
茶色い獣の頭だった。
猪に似ているが、肩から背中にかけて灰色の殻が盛り上がっている。突き出した牙が、荷車の軸ほども太い。
石殻猪。
探索者向けの講習で、浅い層でも遭遇することがあると教わった魔獣だ。荷車を盾にし、狭い場所で正面から受け止めるな、と。
猪は、車輪の割れる音と人の声に引かれてきたらしい。
いまは荷車に阻まれ、苛立ったように石床を掻いていた。
「荷物は置いてください。人が先です!」
よく通る女性の声がした。
砂色の短い革上着を着た女の人が、荷車の横に身を寄せている。肩までの栗色の髪。その左側だけ、細い編み込みが耳の後ろへ留められていた。
腰には短い筒と折り畳んだ測量具。片手に小さな灯りを持ち、作業員の足元を照らしている。
「車輪を外へ引かないで。内側に倒れます。先に、下へ木を一本――」
「分かった! 木だな、待ってろ!」
作業員のひとりが、散った材木を拾った。
そのあいだ、搬入口の見張りが長柄の鉤を荷車へ押し当てている。兜の下から白髪の混じったこめかみが覗いた。
猪を刺そうとしているのではない。車体を支え、逃げる隙間を残そうとしていた。
猪が頭を振った。
牙の先が荷台を弾く。乾いた音がして、板が一枚飛んだ。
女の人が伏せる。栗色の髪が頬へかかり、その手から灯りが滑りかけた。すぐに持ち直し、後ろへ逃げる作業員の足元へ向け直す。
拾われた木が、荷車の下へ差し出される。見張りの鉤は軋んでいた。そこへ何度も牙が来るせいで、木を奥まで押し込めない。
「そっちから来るな! いま、荷車ごと――」
見張りが俺に気づいた。
「人がいるのは、左ですね? 右へ寄って、猪を離します!」
荷車の向こうを指すと、見張りは鉤を押さえたまま頷いた。
「左だ! ……おい、右は猪の――」
声の続きを背で聞きながら、俺は壁に沿って右へ寄った。
剣術の達人になった覚えはない。
町で習ったのは、棒を使った護身の基礎だけだ。猪の突進を正面で受け止めれば、俺の身体のほうが負ける。
だから、受け止めない。
ルクシアを抜く。
抜ききった瞬間、手首の余分な力が抜けた。柄を握る指へ、重さが均等に乗る。剣が勝手に身体を動かすのではない。
どちらへ振れば刃が立つのか、それが手の中で分かった。
猪の鼻先が、こちらを向く。
赤黒い目が俺を捉えた。
「こっちだ。……俺を見ろ」
牙が荷台を引っかく。
獣が半歩、身体をずらした。
肩の殻と荷車の間に、人ひとり分の隙間ができた。
俺はそこへ踏み込んだ。
左足を止めず、腰を回す。刃の先が、猪の肩口へ触れた。
抵抗が、なかった。
硬い殻を斬ったはずだった。
なのに、腕へ戻ってきたのは、張った紐を切ったときのような、短い手応えだけだった。
白い線が、肩から胸の下へ抜ける。
猪が前へつんのめった。
石床を削った牙が俺の靴の横を滑り、巨体が壁にぶつかって止まる。崩れた殻の欠片が、足元へ乾いた音を立てて落ちた。
俺は一歩離れ、剣を構えたまま待った。
猪の脚が二度、床を掻く。
それきり、動かなくなった。
「……一太刀、かよ」
見張りの掠れた声が聞こえた。
俺も、答えたかった。
いまのは、本当に斬ったのか。殻ごと、あんなに簡単に。
その確認より先に、作業員が声を上げた。
「足……抜けねえ! まだ、ここに!」
「いま、そっちへ行きます! 見張りさん、もう少し支えてください!」
俺は見張りに呼びかけ、剣先を下げて荷車へ回った。
女の人がすぐに灯りを寄せてくれた。琥珀色の目が、俺の剣と、車軸と、足首の位置を順に確かめる。
足を挟まれた男は、額に汗を浮かべていた。俺が膝をつくと、申し訳なさそうに歯を食いしばる。
「荷が……まだ、奥に残ってる」
挟まれた男は、散った資材へ顔を向けようとした。俺はその肩へ手を添えた。
「あとで、見られるようにします。いまは、足を抜きましょう。……支えますよ」
見張りも頷き、男の背へ手を回した。
急いでいても、どこを支えてから切るかは変わらない。倉庫で何度も言われた順番だった。俺は留め具と男の足の間へ、灯りを寄せてもらった。
女の人が灯りを寄せ、車輪の脇を指した。
「ここ、足の前の留め具です。……待って、切る前に支えを。車体が左へ倒れます」
「さっき拾った木、これなら下に入りますか。切る前に、そっちを」
俺が振り返ると、材木を拾った作業員が、それを両手で持ち上げた。女の人は太さを見て、大きく頷く。
「はい、それなら! 車輪のすぐ内側へお願いします」
俺は見張りに声をかけ、作業員から受け取った材木を差し込んでもらった。
木口が床へつくのを確認し、ルクシアの切っ先を狭い隙間へ差し入れる。
手首を引く。
軸を押さえていた鉄の留め具が、紙を切ったように外れた。
荷車が、ほんの少し下がる。
「外れた! いまです、引いて!」
俺の声に、見張りと、手の空いていたもうひとりの作業員が動いた。二人で男の脇を抱え、座ったまま後ろへ引く。
靴が外れる。足首は腫れ始めていたが、大きく血が流れてはいなかった。
女の人がしゃがみ込む。
「立たないで。入口まで運んでもらいましょう。足、触りますよ」
作業員が頷く。
その返事を待ってから、彼女は靴紐を緩めた。
俺はようやく、息を吐いた。
膝がわずかに震えていた。力を使い果たしたのではない。さっきまで数歩先にあった牙と、剣を振った感触が、遅れて身体へ戻ってきたのだ。
柄を握り直す。
冷たいはずの金具が、掌の熱で温まっている。
神剣。
文字の上だけだったものが、俺の手の中にある。
あの殻を斬れた。
荷車の金具も切れた。
間に合わなかったかもしれない場面で、人を運び出せた。
「ありがとうな、お兄さん。……ああ、肝が冷えた」
担架を持った組合員が到着すると、見張りはようやく鉤を下ろした。
さっきまで荷車を支えていた腕を、一度だけ大きく振る。
「礼を言おうとしたら、腕が笑っちまった。……助かったよ。本当に」
「俺もです。あの人が灯りを寄せてくれなかったら、足の場所まで見えなかった。……切る所、間違えずに済みました」
女の人へ顔を向けると、彼女は口元を緩めた。
けれど笑顔になりきる前に、左手の指を引っ込める。
掌の付け根に、赤い擦り傷があった。
「手、怪我してますよ」
「あ……さっき、壁に手を。全然、気づかなかった」
彼女は左手を開き、眉を寄せた。俺は自分の水袋を取り出す。
「洗う水なら、あります。布も。よかったら、使ってください」
差し出すと、彼女は傷から顔を上げた。
それから「少し、いただいても?」と水袋を指す。俺が頷くと、右手で受け取り、傷についた土を静かに流した。
布を巻くあいだ、膝の上に置いた測量具が、かすかに鳴った。
「採集班の案内をしていたんですか」
「はい。地図の更新と、遺物の鑑定をしています。今日は、採集できる場所を確認しながら皆さんを案内していて」
彼女は布の端を留め、頭を上げた。
「リゼ・フェルナです。お名前を、聞いてもいいですか」
「アルト。アルト・レインです」
「アルトさん。さっき、猪が倒れたとき……やっと、息ができた気がしました。来てくれて、ありがとうございます」
面と向かって礼を言われると、妙に耳が熱くなる。
栗色の髪の隙間から覗く目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
いきなり迷宮に潜って、神剣をもらって。
その剣で誰かを助けて、こんなふうに笑ってもらえる。
今朝、家を出るときには想像していなかった。
母さんから持たされた昼飯を確かめ、父さんの「帰りの足まで使い切るなよ」という声を思い出しながら、門まで歩いた。
荷物の重さも道の長さも、倉庫へ行く日とそれほど変わらなかったのに。
剣一本で、その先が変わってしまった。
搬出路は見張りたちが封鎖し、怪我をした作業員は入口の救護所へ運ばれた。同行していた二人もついていく。戻ってきた組合員が、歩ける人は全員退避できたと教えてくれた。
石殻猪の素材は、討伐した俺の分として保管してもらうことになった。
受け取り札を渡されて、そこで初めて、こいつが金にもなると思い出す。
俺は札を外套の内側へしまった。
その隣で、剣の鞘が腰へ当たる。
先にもらった報酬で勝って、さらに素材が手に入った。
どうやら俺は、今日から少し違う稼ぎ方ができるらしい。
「アルトさん」
リゼが呼んだ。
入口まで戻った彼女は、革の袋から一冊の本を取り出していた。
角の丸くなった厚い本だ。傷のある左手は添えるだけにして、右手で頁をめくる。
「アルトさん、その剣……もう少しだけ見てもいいですか。青い石の下。そこに、印がありませんか」
「ここ? ……剣なら、鞘に入れたままでいいですか」
鞘に収めたまま、柄を彼女へ向ける。
リゼの目が細くなった。
本の一頁へ視線が落ち、また剣へ戻る。
紙の上には、細い金の筋を持つ白銀の剣が描かれていた。
「……うそ。こんな所に、あるはずが」
「リゼさん、それ、知ってる剣なんですか。俺、名前しか、まだ」
リゼは図録を膝から落としかけ、肘で抱え直した。
「アルトさん。これ……どこで手に入れたんですか?」
いつも扱う品とは違うらしい。俺は、すぐ後ろの核碑を指した。
「あの石板で。先にもらっていいって、出たんです」
リゼが指先を止めた。
今度こそ、琥珀色の目がまん丸になった。
「それ、十二層の踏破報酬のはずです」
門の奥から、荷車を動かす音が聞こえてくる。
俺がいま倒したのは、一階の猪だ。
十二層の主は、まだ誰も倒していない。




