芸術家の旅
豪華な装飾が施されたホテルのロビーでチェックインを済ませる。ホテルマンが声をかけてくる。
「もしよろしければ、そのトランクを部屋までお運びしましょうか?」
「いいや、結構。これは私の大切なものなのでね」
「承知いたしました。それでは、お部屋にご案内いたします」
私は案内されるがままに505と書かれた扉の前へ向かう。案内してくれたホテルマンにチップを渡し、部屋の中に入る。入室してすぐにトランクを開いて中を確認する。そこには折り畳み式のイーゼルや小さめのキャンバス、筆、絵の具などが家を出る前と同じような姿で佇んでいた。それを見て私は一安心する。
私は旅先で出会った景色を絵として記録するのが好きだ。そのため画材をトランクに入れて持ち運んでいるのだが、この間絵の具の蓋がちゃんと閉まっておらず、カバンの中を絵の具まみれにしてしまった。絵を描こうとしてトランクを開いたら、赤に塗れて事件性を帯びた光景が目に飛び込んできたのだから、驚きを通り越してもはや恐怖と絶望を感じたものである。さらに油絵具だったため洗っても色が落ちず、筆やイーゼルは家用に、トランクやキャンバスに至っては買い替えになってしまった。それ以来、以前よりも持ち運びに気を遣うようになり、ホテルにチェックインしたらトランクの中身が無事かを確認するようにしている。
(トランクを開いたことだし、せっかくならこの部屋から見える景色でも描こうか)
折り畳み式のイーゼルを組み立てて窓から少し離れたところに置き、キャンバスを設置する。部屋に備え付けられている椅子を移動させてイーゼルの前に。
「おお!机がちょうどいい位置にあるじゃないか!」
意図はしていなかったが、移動させた椅子に座った時にちょうど手が届くところに机があった。パレットと筆、絵の具をトランクから取り出し、そこに置く。水を汲んできた筆洗器は倒してしまわないように少しだけ離れた机の真ん中の方に置くことにした。野外なら零してしまっても問題ないが、今回は屋内のため、汚さないように気を付けなければいけない。
準備を終えた私は早速絵を描き始める。高貴さを感じさせるワインレッドの壁。そして落ち着きのある暗い色をした窓の木枠。曇りひとつないガラス越しに見えるレンガ造りの街並み。向かいにある今にもパンの焼けるいい匂いがしそうなパン屋。そしてその街で暮らし、行き交う人々。その景色を切り取るように手でフレームを作る。
使う絵の具を決め、チューブから出す。パレットが色とりどりの絵の具で彩られていく。筆を手に取り、絵の具を一掬い。キャンバスを撫でるように筆を滑らせる。色が掠れてきたらまた掬って撫でつける。それを繰り返すうちに絵の中に景色ができていく。それはまるで自分の手で時の止まった世界を作り出しているようだった。
「完成したぞ!あとは乾かすだけだ!...ん?やけに暗いな?」
絵が完成し、顔を上げると窓の外は夕焼け色で染まっていた。まるでオレンジの色水を零した様に。窓を開けると部屋の中に漂っていた絵の具の匂いが薄れると共に寂しい風が入ってくる。
「あぁそうか。もうこんな時間になっていたんだな」
私は夕暮れが嫌いだ。美しい景色が段々と見えなくなってしまうから。賑やかだった街が静まり返ってしまうから。心地よい雑音に浸りながら絵を描いていたのに、気が付けば一人きり。なんて寂しいことなのだろうか。その寂しさを紛らわすように片付けを始める。
片付けは嫌いではない。むしろ好きなほうだ。旅の相棒である道具たちを自らの手でピカピカにしてやれるのだから。それに相棒の様子を見てやらないといけない。
私は絵を描き終わると必ず心の中で相棒に語りかける。今日の絵はどうだったかい?痛いところや汚れているところはないかい?お疲れ様。今日も使わせてくれてありがとう。そうやって語りかけているうちに道具から友人に、友人から相棒になるような感覚がするのだ。
「さて、そろそろ夕食を食べることにしよう」
私はコートを羽織るとレストランへ向かって歩き出す。だいぶ暖かくなってきており、コートを羽織っていると多少の暑さを感じる。だが脱ぐと寒いという絶妙な時期だ。万が一風邪をひいては困るため、コートは着たままで歩を進める。
しばらく歩いていると目的のレストランが見えた。オムライスが絶品との噂を聞き、かねがね行ってみたいと思っていたところだ。目的地が見えたことによって、つい歩く速度が上がってしまう。
扉を開け、中に入るとふわりと暖かい空気が出迎えてくれた。私はカウンター席に座り、オムライスを頼む。周囲を見渡すとちらほらと客がおり、雑談をしながら食後のティータイムを楽しんでいるようだった。
私はいつも絵を描き始めると気がつけば空の色が変わっている。私にとってはそれほどに絵とは魅力的で誘惑的なのだ。今日も絵を描いていたら日が暮れかけていたし、相棒の具合を確かめていたらすっかり遅くなってしまった。時間も場所も選ばずに絵を描き始める悪癖は一体いつ治るのだろうか。それとも一生付き合っていくしかないのだろうか。そんなことを考えているうちにオムライスが出来たらしい。ウェイトレスが配膳してくれる。
「おぉ...!」
思わずそんな声が漏れるほどにオムライスの見た目は美しかった。完璧な火入れにより程よくトロッとした卵。キラキラと光を反射しているデミグラスソース。ささやかに彩りを添えるパセリ。そして今すぐに食べたくなってしまう様な匂い。その全てが私の食欲を刺激していた。―――だがそれ以上に私の芸術欲が刺激されていた。
「美しい...食べるのが勿体無いくらいだ...そうだ!それなら絵として収めておこう!」
私はいつ描きたいものが現れても描けるように常に紙とペンを持ち歩いている。それを取り出し、絵を描く準備をする。そして段々と冷めゆくオムライスを観察しながら私は思った。恐らくこの悪癖には一生付き合っていくしかないのだろうと。だがそれと同時にこうとも思った。
旅に必要なのは『絵』だと。




