第5話
「フィオネ王国騎士団二等兵、ロイゼ・ホーシンです」
部屋の前で背筋を伸ばし、規定通り三回ノックする。
コン、コン、コン。
静かな廊下に乾いた音が響いた。
ここは騎士団駐屯地六階。普段俺たち一般兵士が出入りする訓練区画とは違い、騎士や司令部の人間が使用する上層階だ。壁や床に使われている素材も明らかに高級品で統一されており、通路へ飾られた絵画や装飾品の数々からも、この階に出入りできる人間の立場がよく分かる。
下級兵士の俺がこんな場所へ呼ばれる機会など滅多にない。
もっとも緊張している理由は、この階層そのものではなかった。
昨日、ゴーティエのおっさんから聞かされた話が原因である。
騎士団再編。
新部隊設立。
そして俺の新たな配属先。
話によれば、俺はセレナかアナスタシアのどちらかの部隊へ所属することになるらしい。
兵士として考えるなら悪くない話だ。いや、むしろ破格と言っていい。
三銃士と呼ばれるヴィブロス三姉妹は王国最強戦力の一角であり、そのうち二人の直属になれる機会など普通なら一生巡ってこない。
だが俺個人としては全く喜べなかった。
セレナは四六時中距離感がおかしいし、アナスタシアは副官の話をしている最中に結婚後の人生設計を混ぜてくる。どちらの部隊へ配属されたとしても、胃痛と無縁の生活は期待できそうになかった。
そんなことを考えていると、扉の向こうから返事が聞こえてくる。
「入りなさい」
その声を耳にした瞬間、昨日聞かされた話と目の前の状況が噛み合わなくなった。
少なくともセレナやアナスタシアの声ではない。
もっと落ち着いていて、もっと威厳があり、騎士団の人間なら誰もが一度は耳にしたことのある声だったからだ。
俺は扉へ伸ばしていた手を止めたまま数秒考え、それでも他に呼ばれる理由が思いつかなかったため、半ば諦めながらドアノブを回した。
そして部屋の中を確認すると、そのまま静かに扉を閉める。
「失礼しました」
踵を返したのは現実逃避ではなく確認作業だ。
昨日聞かされた話が正しいのであれば、部屋の中にいた人物は明らかにおかしい。今ならまだ部屋を間違えた可能性に賭けられるかもしれないし、そうでなければ俺の認識の方がおかしいことになる。
「ロイゼ」
閉じた扉の向こうから聞こえてきた声によって、その淡い期待はあっさり打ち砕かれた。
「戻ってきなさい」
「はい」
どうやら部屋は間違っていなかったらしい。
俺は観念して再び扉を開く。
そこにいたのはヴィーナ・ヴィブロス。
三銃士と呼ばれるヴィブロス三姉妹の長女であり、王国最強の騎士として名を轟かせる存在だ。
武力、知略、統率力。その全てが王国内でも最高峰と評されており、騎士団長であるゴーティエですら彼女の才能を認めている。
騎士を目指す少女たちの憧れであり、兵士たちにとっては英雄そのもの。戦場へ彼女が現れるだけで士気が変わると言われるほどの存在感を持つ人物だった。
もっとも、俺からすると怒った勢いで屋敷の玄関ごと吹き飛ばした前科を持つ危険人物でもある。
「遅かったわね」
ヴィーナは優雅に微笑んだ。
王都の男たちが見たら卒倒しそうな笑顔だったが、その笑顔の裏にろくでもない話が隠されていることを俺は経験則で知っている。
「えっと……俺の配属先ってセレナかアナじゃなかったんですか?」
「そうよ」
ヴィーナ姉さんはあっさり頷いた。
「だから変更したわ」
「変更した?誰の許可で?」
「私の許可よ」
「独裁国家かな?」
おかしいな。いつのまにか王国の政治体制が変わったらしい。
俺の知らないところでフィオネ神聖王国がヴィーナ帝国へ改名していても、今さら驚くべきではないのかもしれない。
そう納得しかけたところで、背後からガチャリと音が鳴った。
振り返る。
そこには桃色の長髪を揺らしながら鍵束を指先で回している少女が立っていた。
セレナ・ヴィブロス。
三姉妹の次女であり、俺と同い年の騎士だ。
その実力は疑いようもなく本物なのだが、性格だけは、騎士道を重んじるヴィブロス家の突然変異と言われても納得できるほど自由奔放である。
ただし、その自由奔放さは何故か俺に対してのみ異常な方向へ発揮される。
「ロイ君、やっと来た」
「なんでいるの?」
「ロイ君が来るって聞いたから」
理由として成立していなかった。少なくとも配属会議へ参加する理由としては。
「なぜ鍵をかける?」
「逃げないように」
「ちなみに、誰が?」
「ロイ君が」
既に退路は封鎖されているらしい。兵士として数々の訓練を受けてきたが、配属会議の開始前に逃走防止措置を取られた経験は流石にない。
さらに部屋の奥へ視線を向けると、ソファへ腰掛けていた少女が静かに本を閉じた。
「ロイゼ兄様、お待ちしていました」
施錠された扉を当たり前のように開けたのはアナスタシア・ヴィブロス。三姉妹の末妹であり、騎士団に所属する回復術師。
普段は書物殿へ引きこもっている文学少女だが、その実力は姉二人にも劣らない。
柔らかな笑顔と穏やかな物腰から勘違いされやすいものの、個人的にはこの部屋で一番警戒すべき人物だと思っている。
何故なら本人に悪意がない。善意だけで問題を拡大できる人間ほど対処に困るものはないのである。
「どうして鍵を開けられたのかは聞かないから。それよりも、なんで全員いるんだよ……」
「配属会議です」
アナスタシアは微笑みながら答えた後、「ロイゼ兄様の」と付け加えた。
「本人抜きで?」
「はい」
何を今さらと言いたげな顔だった。
どうやらこの部屋にいる三人の中では、当事者不在の配属会議が常識らしい。
俺の知っている騎士団とルールが違う。
その事実だけはよく分かった。
「それでロイゼ」
ヴィーナ姉さんが腕を組む。
「誰の部隊に入りたいの?」
「騎士団長の、公式の配属に従います」
「却下」
即答だった。話し合う気がない。するとアナスタシアがどこからともなく書類を取り出した。
「安心してください。既に必要書類は完成しています」
「その台詞で安心できる要素一つもないんだけど」
「ロイゼ・ホーシン二等兵はアナスタシア・ヴィブロス直属の副官兼護衛兼婚約者として――」
「途中から軍務じゃなくなってるよな?」
思わず聞き返したが、アナスタシアは本気で不思議そうな顔をしている。
どうやら本人の中では自然な流れらしい。
副官と婚約者の間にどんな関連性を見出したのかは分からないが、少なくとも騎士団の規則集にそんな項目は存在しないはずだった。
「副官と婚約者の間にどんな関連性があるんだよ……」
思わず額を押さえる。
騎士団の規則集を隅から隅まで読んだことがあるわけではないが、少なくとも直属の上官と婚約しなければならないという項目は存在しなかったはずだ。
「ありますよ?」
アナスタシアは当然のように答えた。
「ないわ」
「あります」
「じゃあどこにだよ」
「私の心の中に」
「なんで法律より弱いんだよそれ」
頼むから個人の願望で騎士団を運営しないでほしい。そんなやり取りをしていると、今度はセレナが机へ身を乗り出してきた。
「ロイ君は私のところに来るの」
「なんで?」
「毎日一緒に任務できるから」
「副官ならそうなるだろうな」
「一緒に帰れるし」
「まぁそうだな」
「一緒にご飯食べれるし」
「うん」
「一緒に寝れるし」
「そこで急に飛躍するな」
どんな任務体系だ。騎士団はいつから夫婦向け福利厚生を始めたんだ。
「違うの?」
「違う」
「え、じゃあ結婚する?」
「なんでそうなる」
会話の着地点が毎回そこだから困る。しかも本人は至って真面目な顔をしているため、冗談なのか本気なのか分からない。
いや、本気だからこそ怖いのか。そんなことを考えていると、不意に扉がノックされた。
コンコン。
全員の視線がそちらへ向く。正直助かったと思った。誰でもいい。今の流れを変えてくれる人間なら。
「失礼します」
そう言って扉を開けた人物を見た瞬間、俺は考えを改めた。
誰でも良くなかった。少なくとも、この人だけは駄目だった。
「ロイゼ君!」
嬉しそうに笑顔を向けてくるルナ先輩。
騎士団所属の騎士であり、俺やカイ、それに現在軍病院で療養中のナハトと同じアズマ村出身の先輩だ。
面倒見が良くて優しい。困っている人間を放っておけない性格でもある。問題は、その優しさが料理へ向かった瞬間だけ何故か凶器へ変わることだった。
そして今、彼女の両手には巨大な鍋が抱えられている。
嫌な予感ではない。昼の出来事を思い返した時点で、ほぼ確信だった。
「ルナ先輩、それ何ですか?」
「スープだよ!」
元気よく返ってきた答えに対し、俺は鍋の中身へ視線を向ける。
紫色だった。まずそこがおかしい。
普通スープというのはもう少し食欲を刺激する色をしていると思うのだが、目の前のそれはどう見ても猛毒の類である。
しかも時折、液面から肉らしきものが顔を出しては沈み、魚らしきものが浮かび上がっては泡の中へ消えていく。
鍋というより、生態系だった。
「お弁当の残りで作ったの!」
その一言で全てを理解した。
ナハトを病院送りへ導いた殺戮弁当の残骸が、鍋いっぱいのスープとなって帰ってきたのである。
おまけに量が増えている。被害規模を拡大して帰ってくる災害は初めて見た。
「ルナ先輩」
「なに?」
「それ捨てません?」
至極真っ当な提案だったと思う。
だがルナは本気で傷ついたような顔をした。
「えぇ!?せっかく作ったのに!」
「作ってないですよね?」
「煮込んだよ?」
「煮込むだけでは何も解決しないんです」
むしろ、朝より悪化しているまである。鍋の中身を見れば見るほどそう思った。生肉や生魚はもちろん、土の付いたままのじゃがいもや丸ごとの玉ねぎまで放り込まれており、もはやスープというより食材保管庫をそのまま煮立たせたような代物になっている。
「でも火を通したから安全だよ?」
「その理論が通るなら料理人が全員失業します」
「そうなの?」
「そうなんです」
本気で驚いていた。どうやら善意百パーセントらしい。だからこそ厄介だった。そんなやり取りをしていると、ヴィーナが静かに立ち上がる。
それだけで室内の空気が少し張り詰めた。王国最強の騎士が動けば自然と周囲の注目を集める。もっとも今、その視線の先にあるのは魔王軍でも帝国軍でもなく、ルナ先輩の鍋なのだが。
「ロイゼ」
「はい」
「それ、危険ね」
紫色の鍋を除いたヴィーナが顔を顰める。
「その認識で合ってます」
「だから私が味見するわ」
「なんでそうなるんですか!?」
処分するという選択肢はなかったのだろうか。
王国最強の騎士が命懸けで毒見をしようとしている光景に頭痛がしてくる。
「ロイゼに飲ませるわけにはいかないもの」
ヴィーナ姉さんは真面目な顔でそう言った。少しだけ格好いいと思ってしまった自分が悔しい。
「姉さんだけずるい!」
今度はセレナが立ち上がる。
「私も飲む!」
「張り合うな!」
「ロイ君を守るためだもん!」
「守る方法を考え直してくれ!」
すると今度はアナスタシアが白衣のポケットから青色の液体が入った小瓶を取り出した。
「大丈夫です」
「何がです?アナスタシアさん」
「解毒薬があります」
少しだけ安心しかけた。本当に少しだけ。
「成功率は一割もありませんが」
「全然大丈夫じゃない!」
「失敗しても私の蘇生魔法があります」
「死ぬ前提で話を進めるな!」
騎士団直属病院の信頼度がどんどん下がっていく。
そんな騒ぎの中、ルナだけは感動したように両手を胸の前で組んでいた。
「みんな優しいねぇ」
どうやらこの人には別の世界が見えているらしい。俺たちは毒沼を前に命の危険を議論しているのだが、ルナの中では友情を確かめ合う感動的な場面になっているようだった。
そして、その時だった。
アナスタシアが鍋を見つめながら何かを思いついたように小さく手を叩く。
「あ、いいことを思いつきました!」
どうせ、嫌な予感しかしない提案が来るのだろう。経験で分かる。
「ナハトくんを呼びましょう」
「いや呼ぶなよ」
即答した。流石に不憫すぎる。
「でも彼なら喜んで味見してくれますよ?」
「その結果が朝の病院送りなんだよ!」
「大丈夫です」
「何が」
「今回は温かいですから」
「改善点そこじゃない!」
むしろ悪化している。ナハトが何をしたというのだろう。同じ村出身だからといって、ここまで酷い扱いを受ける理由はないはずだ。
すると、その時だった。
バンッ!
勢いよく扉が開く。全員の視線が一斉に入口へ向いた。そこに立っていたのは、大柄な体格と威圧感を持つ見慣れた男。
ヴィブロス家当主。神聖騎士団団長。そして今回の元凶であるゴーティエ・ヴィブロスだった。
「おう、全員揃ってるな」
そう言いながら部屋へ足を踏み入れたゴーティエは、そこで初めて中央に置かれた鍋へ気付く。
数秒間それを見つめる。
さらに数秒。
そして深く眉をひそめた。
「……なんだその毒沼みてぇな鍋は」
騎士団長の第一声としては、これ以上ないほど正しい意見だった。




