13 そうして事態が動き出す
事件が起こったのは、それからさらに十日後のことだった。その日は昼過ぎまで晴天を極めていたのに、そこからバケツをひっくり返したような大雨が降り出した。空は暗く重たい雲で覆い尽くされ、まだ夕刻だというのに、世界は薄闇に包まれてしまった。
こういう天気が急転する日には何か嫌なことが起こりそうだ。本日の仕事終わり、私は眉を顰めながら、一刻も早く自分の宮へ戻るために、急ぎ足で回廊を歩いていた。
そのときだった。
視界の端に、何か動くものが映った気がして、私は足を止めた。はっと回廊の外を見ると、この大雨の中、誰かが傘も差さずに地面に膝をつき、建物の壁に沿う茂みの下を手で探っている。――何かを探しているようだった。
しかしこの雨の中?
怪訝に思い凝視していると、急にその人が立ち上がり、何かを確認するように周囲を見回した。そのときに見えた人形のように端麗な横顔に、私の息は思わず止まる。
(――月、柏怜?)
この雨の中、一体何をしているの――?
そう頭で思うより早く、身体が動いていた。無我夢中で回廊を飛び出して、彼のもとへ走る。傘がないせいで、全身で土砂降りの雨を受け止めながら。
「何をしていらっしゃるんですか⁉」
怒鳴りつけるような大声で、私は月柏怜に問うた。大声を出さねば激しい雨音に掻き消されてしまうから、ではなく、自然と怒鳴るような口調になってしまった。
「風邪を引いてしまうでしょう!」
「……アンジュ殿」
私の声に、月柏怜がのろのろと首を動かしてこちらを見た。
その顔に私はゾッとする。――まるで幽鬼のようだった。
冷たい雨に打たれているせいで、くちびるの色が失われてしまっているからではない。
彼の瞳は、焦点が合っていなかった。誰かに魂を強引に引き抜かれてしまったように、空ろ。
こんな月柏怜を、私は今まで見たことがなかった。
「……どうされたのですか、こんな雨の中」
訊ねると、ぽつり、答えが返ってくる。
「……簪を、どこかで落としてしまったようで」
「……簪?」
見れば、いつもはきっちりと結われた髪が、今は盛大に解けていた。
「ええ。私がいつも髪に挿している、橙色の珠のついた簪です。……今日も髪に挿していたのですが、気付いたらなくなっていて。挿し方が甘くてどこかに落としてしまったのかもしれないと、こうして探しているんです」
「…………」
月柏怜の白くほっそりした手は、ぬかるんだ泥にまみれていた。爪にまで泥が入り込んでいる。服にもべったりと泥がついていて、彼がなりふり構わず「落とし物」を見つけようとしていることがはっきりと伝わってきた。
きっと今日の行動範囲をくまなく遡って探しているのだろう。はじめは仕事部屋や廊下をひっくり返す勢いで探し回り、それでも見つからなかったから捜索範囲を外に移したのだということは、すぐにわかった。
喘ぐような声で、私は訊ねた。
「……いつから、探していらっしゃるのですか」
「……夕方くらいですかね。迂闊にもそれまで気がつかなくて……。今日は朝からひどく疲れていたから、とは言い訳になりませんね」
自嘲するように、ハクレイが笑った。
兄の妃候補たちが皇城に来ている今、婚部の仕事量は頂点に達していると聞いている。おまけに連日のように風可憐に付き纏われているのだ。何も考えられないくらいの疲労が溜まっていても、おかしくはなかった。
「……ハクレイさま。もう止めましょう。風邪を引いてしまいます」
諭すように言っても、ハクレイは頷かない。ふるふると首を横に振って「否」を示し、またその場にしゃがみ込んで、茂みの下を探しはじめる。
「すみません、ダメなんです。どうしても、あれだけは失えない。あれは私と姫とを繋ぐ、唯一の形ある思い出だから……」
自分に言い聞かせるような、独り言に似た、切迫感の滲んだ言葉だった。
私は苛立ったけれど、ずぶ濡れになっても、泥で汚くよごれても、一向に構わず思い出の品を探し続けるこの男を、この男の執念を、どうやって止めればいいのかまるでわからなかった。
(……今の私には何もできない)
その残酷なまでの真実に、私ははっきり気がついてしまう。
……過去に縋り続ける哀れな男を傍で見続けていることが辛くて、私はずぶ濡れになったまま、来た道とは反対の方向に、あてもなく歩き出した。
ずっしりと水分を含んで重たくなった衣服に時折足を取られそうになりながら、下を向いて彷徨い続けていると、少し遠くの方から、「アンジュちゃん!」と大きな声で名前を呼ばれた。明らかな狼狽の滲む声。
その声にのろりと顔を上げると、炎雨林が傘を差しながら、ものすごい勢いでこちらに走ってきていた。兄からあいつは足が速い、と聞いたことがあったが、その通り、炎雨林はあっという間に私のところにやってきて、私に傘を差してくれた。
「何やってるの、こんな外で⁉ こんな雨の中出歩いてる子、誰もいないよ⁉ 風邪引きたいの⁉」
さっき私が月柏怜にかけた言葉がほぼ丸々返ってきて、私はおかしくて少し笑ってしまった。
「炎雨林さまって、案外世話焼きなんですね」
「はぁ⁉ 今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
炎雨林は盛大な目くじらを立てていたが、私があまりにも沈んだ調子だったからだろう。一呼吸後には語調が優しくなった。
「まあカイエンに君のことをくれぐれもよろしくって頼まれてるからね。……それにしても急な大雨だったから、何かあるかもって見回りに出てきてよかったよ。――で、何があったの」
「……断定ですか」
「断定でしょ、そりゃ。……そんな心底傷つきました、みたいな顔をしといて、何もなかったなんて言わせないよ」
(……鋭いなぁ)
変なところは鈍いくせに、変なところが鋭くて、炎雨林という男がちょっとだけ嫌になった。
鮮やかな鳶色の瞳が、嘘は許さないというように鋭く私を見下ろしている。
「可憐嬢と何かあったわけじゃないでしょ。君が彼女に抱いている感情は恐怖でしかない。だからそんな顔にはならない。そんな、大切な人に傷つけられました、みたいな顔には」
ハクレイと、何かあった?
形だけは疑問形。けれど炎雨林はわかっていた。気づいていた。知っていた。
私が月柏怜に、どうしようもなく恋をしていることに。
杏色の瞳から一筋、涙がこぼれた。私は浅い呼吸を繰り返し、泣き笑いのような表情を浮かべて、炎雨林に訊ねた。
「――あの人はどうしてあんなにも、亡くなられた姫を愛しているのでしょう」
唐突な質問だったけれど、炎雨林ははぐらかさなかったし、誤魔化しもしなかった。
静かな声で、彼の持ち得る情報のすべてを紡いでくれる。
「……俺は例の姫と会ったことも話したこともないから、彼女の死後にハクレイから聞いた話になるけどね。――ハクレイって昔、周囲から冷たく扱われてたんだって」
「…………」
「今でこそかっこいいとか綺麗だとか褒めそやされてるけど、今よりずっと線の細かった昔は、あの繊細な容姿は批判の対象だったらしくてね。歳の近い子どもたちには男なのに女みたいで気持ち悪いとか言われて仲間外れにされて、両親以外の周囲の大人にはなんて頼りのない嫡男だろうってずっと馬鹿にされてらしい。――でもね、そんな時代から、例のお姫さまだけはいつも太陽みたいな笑顔を浮かべて、ハクレイを褒めてくれてたんだって」
「……………………」
「ハクレイが大嫌いだった目立つばかりの銀の髪も、繊細な面も、一つ一つ『綺麗ね、私は大好きよ。羨ましいくらいだわ』って褒めてくれて、外見だけじゃなくて内面も『ハクレイの真面目なところが大好きよ。神さまのくれたあなたの長所ね』って、会うたびに笑顔で言ってくれてたらしい。お世辞じゃなくて本心だってわかる言葉だったから、だから自分のことを好きになれたんだってハクレイは言ってた。同時にそのお姫さまに賞賛してもらえるほどの男じゃないって思ってたから、もっと勉強や鍛錬を頑張って、ますます姫に褒められる自分になろうって決めたんだって」
……ハクレイが努力をはじめた矢先にお姫さまは死んじゃったけど、それでもハクレイはお姫さまのために努力し続けて、二十二歳の若さで一部署の長にまでなった。愛の力ってすごいよね、と炎雨林は話を結んだ。
ぽろぽろと、両目から涙がこぼれていく。思わず両手で顔を覆った。
――雨が降っていてくれて助かった。他の音をすべて掻き消してしまうくらいの大きな雨音に、私は心から感謝した。
多少とはいえ嗚咽を誤魔化すことが出来るから。
「……君も難儀な相手に恋をしたよねぇ」
呆れるではない、深い同情の滲んだ声。
「ハクレイの恋はいつまで経っても終わらないよ。お姫さまは死んだとき、ハクレイの心を綺麗に持っていってしまったから。……俺にしておけば良かったのに。俺なら君を愛してあげられたよ」
「……ご冗談を、」
私は顔から両手を外し、知らず知らずのうちに俯き加減になっていた顔を上げた。濡れそぼつ前髪が、ぼたりぼたりと涙のような雫を落とす。
軽やかに作られた傘を、大粒の雨が容赦なく叩いた。
「……あなたは私のことなんて、決して好きではないでしょう。……大嫌いというほどでもないけれど、少しだけ、私が皇城に現われなければ良かったのに、と思っている」
違いますか、とその鳶色の瞳を覗き込めば、美しいその瞳が微かに揺らいだ。動揺しているのだ、とすぐにわかった。
炎雨林は、一呼吸後には諦めたような声音で、それを認めた。
「……そうだよ。よくわかったね」
「……炎雨林さまを見ていれば、あなたが陛下と月柏怜さまをどれだけ大切に思われているかがわかりますから」
だから兄と月柏怜の傍をちょこまかする私が目障りなのだ。
……炎雨林と兄と月柏怜は、固い絆で結ばれた友人同士だ。形で言うなら綺麗な正三角形。そしてこの正三角形が成立し続けていたのは、炎雨林も、兄も、月柏怜も、他に同じくらい大事に扱う人間を作らなかったからだ。優しくあるくせに、彼らは結構排他的だから。
けれどそこに、私という異分子が紛れ込んでしまった。特に事情があるとはいえ、意識して女性を近づけなかった兄と月柏怜が、私とは関わりを持つようになった。
それを面白くないと感じるのは、当事者として当然だと思う。言動に表わそうとしないところは人間が出来ていると言えたが、根が素直なのだろう、時々私を見る視線に複雑なものが混じっていた。
(……とはいえ、その三角形はもうとっくに壊れているけれど)
炎雨林と月柏怜が知らないだけで、兄には今、恋人がいる。たった一人の手しか取ることが出来ないと言われたら、兄は妹の私の手さえ振り払って、恋人の手を取るだろう。それくらい兄は恋人を愛しているから、目には見えないところで、美しい正三角形の形は確実に変わりつつある。
悲しいけれど、人は人生最高の瞬間で時を止めることは出来ないのだ。それは全人類に平等に与えられた、一種の悲劇であろう。私だって叶うなら、そのときに時を止めたかった。今はもう、考えても仕方のない話だ。
「……つまらない弁明に聞こえるかもしれないけどね」と、炎雨林は傘を握っていない方の手で、ガシガシとその赤茶色の頭を掻いた。
「俺はアンジュちゃんのことを、嫌いになりたいとは思ってないんだ。……君はとても良い子だから」
私は首を横に振った。
「良い子なわけありませんよ」
私のせいで、兄と母は罪を犯した。私が罪を犯させたのだ。あの清廉な兄たちに。
苦い後悔が胸を満たしたが、炎雨林は「いいや、君は良い子だよ」と繰り返した。
「カイエンにもハクレイにも、あれだけ近くに寄ることを許されてるのに、君は二人に何も望もうとしない。特に君はハクレイに恋しているのに、ハクレイに愛され返すことを望んでいないだろう。……そんな女の子、俺は他にいないと思うし、すごいと思うよ。……君の愛は、献身的だね」
ぐしゃり。
私は顔を歪ませた。
「その言葉、私には似合いませんよ。献身的なのは、月柏怜さまの方でしょう。私のは彼よりずっと軽い」
「あれは献身的と言うより……」
炎雨林はそこまで言って黙り込んだ。失われた恋に殉じ続ける男を、なんとたとえて良いか、適切な言葉が見つからないでいるようだった。
奇妙な沈黙が落ちる。
月柏怜は私たちがこうして傘の下で雨から逃れている間も、大雨に打たれながら必死で思い出の欠片を探しているのだろう。
世界のすべての音を掻き消すような雨粒の音に耳を傾けながら、私は炎雨林に、月柏怜を強引にでも止めてくれるよう頼んだ。




