狼の集落②~命の大切さ
男はひどくいたたまれない気持ちになり、何も言わずに遠くのところに行った。
天羽は芝に大の字になって、心を落ち着かせようとしたが、逆にモヤモヤが募る。胸をじりじりと焦がすような焦燥感を覚えた。
「何やっているんだ。私。ルシカと会う前にもう弱音なんて吐かないって何度も自分に注意したのに……」
腰にかけている匕首を取り、両手で慎重に握り締める。シャリンと音を立てて鞘から抜け出す。
──いつも思うんだ……「あれ」をするのは相当な勇気が必要だよね。私の場合だと、どんだけ否定されても、どれだけあざ笑われても、自分の命を絶つなんてできないよ。本質、怖がりなんだから。
匕首の刃を通しては天羽の青い瞳が映しだされている。以前彼女は色んな人に褒められて、あの誇らしい青い澄んだ双眸はもうどこにもいない。今、あの大海のような青い瞳には不気味な黒い靄がかかった。彼女は一時的な衝動と無力感に駆られて、無意識に匕首を自分へ向ける。
まるで自分の体じゃないような違和感を覚えた。潜在意識ではこの馬鹿馬鹿しい行為をやめるべきだったが、どうしても止められなくて、傍目から見るよう視角に切り替えられて見殺ししかできないのだ。
──このまま、喉にぶっ刺したら、どうなるのかなぁ?これをやったら楽になれるかなぁ……
彼女は切っ先を自分の喉の方へ向けて、喉に近づけるにつれ心臓の鼓動が半端ではなかった。がくがくと震えている手の汗が非常に多くて、ごくんと唾を飲み込む。迂闊に滑らせたらこのまま匕首の切っ先が当たり前のように喉へ命中する。
思い切って刺していくところ、ギリギリまで寸止めした。
あの翳りのある顔から普段天羽の何気ない表情に戻った。彼女は自分の行動に驚愕の限りだ。
「私……何をしているの?危ない危ない……何の今?」
彼女はすぐ匕首を遠くの場所へ投げて、恐れ恐れで自分の両手を凝視する。その後、腕で目を覆う。
「なんだよ?今の。なんだか自分じゃないような感じ……気づいたら刃物が喉を刺す寸前だった。もしあの時目覚めなかったらどうなるのだろう……あの時、脳内でとある声が私を誘導していく、意識まで占領されてるわ」
と頭を抱えてる中、天羽はふっと御者との会話を思い浮かんだ。
「まだこの世の悪に染められてない瞳……だから早くこの地から立ち去った方がいい……」
「こんなにも影響されやすいのか?まぁルシカの父親に愚図るのは間違えなく私本人だけど」
「へえ……自殺したいの?」
奥の森から女の声が天羽の耳に入った。その声はふと点滅する灯りのように不安定だった。
──誰なんだろう。
天羽はすぐ起き上がって、正体を判明するところ、目の前には見知らぬ女がいきなり飛び込んできて、彼女の上にのしかかる。よく見ると女の手にはさっき投げ出された匕首を握りこんでいた。
次は何か起きるのか、大体予想はついた。天羽は溺れたのような姿勢でもがいて、彼女の束縛から解放されたいと願ったが、相手の馬鹿力によって抑えられる一方だ。
「そんなに死にたいなら、いいよ。私は薄情なやつじゃないんで、あんたの姿を見てて気の毒でさぁ、こんな苦しまされて、見るに堪えないわ!」
女は迷いなく天羽の真っ正面へ振り下ろす。
際どいところ、天羽は歯を食いしばって両手で女の手を抑え込む、必死に抵抗する。死にたくないという願望が彼女に力を与えた。今この瞬間、生きる希望が轟々と燃え盛る。しかし、女は力加減もなしで匕首を天羽の顔に迫る。
「なんだ……?死にたくなかったのか?大人しくこのまま眠ってちまえ!」
──違う……そうじゃないの……ここでやられる訳にはいかない!
天羽は全身の力で女を押し倒そうとするが、体の重心が抑えられて、中々力が入って来なかった。もうダメだと思う瞬間、女の動きが緩んだ。その匕首を天羽の頭の横にぶっさした。
「そんなに生きたいのか?人間……」
女は天羽の体からどけて、おもむろに立ち上がる。
「はぁっ……はぁ……」
死の淵の懸に迫られて、体全身が警告信号を出された。不規則な呼吸音、血の流れが早まって、心臓はバクバクと動くにつれ胸はチクチクと疼く。手や顔に激しい汗がかいて、吐き気も催す。天羽はしっかりと口を抑える。
「コホンコホン……」
「ふん……全然死にたくなかったじゃない。この臆病者め」
酸素を全身にいきわたるため天羽は息を激しく吸ったり吐いたりする。
「やっぱり、人間は矛盾だね、こんなにも死にたがってるのに、最後の一瞬だけ気が変わるなんて、自己中だな」
天羽は木にもたれて、両足を伸ばして座る。全身の恐怖や不安をほぐして、彼女のせわしない呼吸も段々平穏になった。非常にか細い声で相手に質問をする。
「あんたは誰?どっから飛び込んできた?」
「私?簡単だよ、ルシカの幼馴染だ」
女は上から目線で天羽を見下ろす。そして彼女の顎をグイっと引き寄る。
「これで分かったんだろう」
「分かんないね」
「はぁ?」
その軽率の答えに女の顰蹙を買った。
──もう……今回はなんだよ?この流れだと幼馴染が私に喧嘩を売って、ルシカへの独占欲を明け透けに主張するのだろう……
「じゃ、宣戦布告?私への」
だが女はそのつもりではないようだ。彼女は頭をかいて、両肩をあげる。
「なに言ってるの?そういう意味じゃないんだよ……」
「え?奪いにきたじゃないの?」
「初対面だけで、私への印象はもうどん底に落ちた、ていうのか?」
女はガッカリしたが、すぐに気を取り直してストレッチする。
──へえ……思った以上より偏りすぎない?……それはそれでいいんだけど。
「いや、だって……さっきまで私を殺そうとするのよ」
「あ、それだ!この件について、まだ説教してないわよね。もう二度とあんたにこのようなマネをさせないようにやった。今日はきちんと私から『命』の大切さを教えてやる!」
──なんだそれ?
天羽は啞然として目の前にいる女を見つめる。
「あんた、どうして自分の命を断とうとしてる?」
「だから、違う……あれは」
「ダメじゃない!」
天羽は女の勢いのあるトーンで気後れする。体がびくっとして口をつぐんだ。女は一気に距離を詰めてきて、彼女の顔を両手で挟んで顔を寄せる。
「命ってもんはね、一度だけだよ!二度はないんだから!大事な、大事な命を粗末してはいけない!」
天羽はこのド正論の説教に完膚なきまでボコボコされて、大惨敗だった。
「ごめんなさい……」
天羽は申し訳なさそうに視線を下に逸らす。だが女はここでやめる気はなかった。彼女は依然としてこのポーズを維持する、そして子供扱いのように天羽を開き直る。
「私に謝るたってなんも変わらないから、謝るのは自分でね、特に『まだ生きていきたい』という思いにね」
「!?」
その言葉に天羽は目を見開いて、口をポカンとする。
「あんたが死んだら悲しむ人、いるよ。だからそう簡単に……!」
天羽は漠然とした未来に不安を抱えた。
「いるのかなぁ、そんな人……」
「いなかったら、私がその一番になるよ」
女は天羽との距離を少し引き離れて、咲き乱れた満開の笑顔で天羽に手を差し伸べた。
天羽は自然とその手を繋ごうとしたが、すぐ手を引っ込めて、もう片方の手で抑える。
「なんで?」
「うん?何か?」
「私とあんたは初対面だよ、それにあんたたちは人間嫌いじゃなかったの?」
女は腰に両手を当てて、揺るぎない眼差しを向ける。
「人を信じる理由なんて必要?それに私は人間のこと嫌いじゃないわよ。むしろ憧れてた」
「そんなにあさっりと……もしかしたら私はあんたの背中を不意打ちして……」
天羽はその続きを言いよどんだ。
「そうね、でも私、さっきあんたにひどいことしたから、おあいこね」
「なんだよ、その無茶苦茶な理由……」
「いい子にしか見えないから、それだけじゃダメ?」
女は屈託のない笑顔を浮かべて、天羽を自分の方へ引き寄せる。
──やっぱり狼って大体変だよね。
「なんだ、その屁理屈……」
天羽はぼそっと言ってちょうど女の耳に届いた。
「屁理屈じゃない、ルシカの顔から見ればわかる。まぁ彼女はここに戻ってくるときは結構落ち込んでたけど、なんだか前より人間味があって、人間臭いのよ。その表情は、よほどのショックを受けてないと、ああいう顔はしないよ」
天羽は答えに窮して、心には語り切れぬほどの感情は秘めている。
「へえ……そうなの?」
「そこで、頼みがある、これはあなたにしかできないことなんだ」
女は深刻な表情を浮かべて、真っ正面から天羽の肩に両手を置く。
「私にしかできないこと?冗談を……」
「あいつを、ルシカをここに連れ戻してくれない?」
「え?」
「あいつは一人で全部のこと抱え込んちゃうタイプなの、我ながらお恥ずかしいもんだ、幼馴染とはいえ、彼女の本当の一面を知らないんだ。いつものルシカは感情の起伏が少ない、ポーカーフェースに称えられるほど有名なんだ……」
──そうなんだ……まぁ、確かに最初に会った時はそんな感じ。でもたまに私にいたずらして、めっちゃくちゃ意地悪してくるのに……
「あなたなら、うまく彼女を説き伏せるのでしょう……」
「でも、私、ルシカはどこにいるさえわからないのよ」
「それなら大丈夫、私、がひっそりと案内してあげる。でも直接会いに行くわけじゃない。試練の地まで同行するわ」
「試練?どういうこと?」
女はやれやれという顔をして焦るなと言わんばかりに天羽の頭をぽんぽんする。
「試練のことは後回しにして、まずは彼女の状況について説明してあげるね」
天羽は咄嗟に女を阻止する。
「いいの?あんたは処罰されないの?」
「そんなの構っていられる場合か?幼馴染でありながら、何の役も立てず……これだけはかっこつけたいの!つまり幼馴染の出番だ!」
女は豪語して自信満々の様子で天羽の肩を強く叩いた。
「まぁ、いずれあんたに知らせるべきだと思うから、つまり彼女が向き合わなければならないことは『継承』のことよ」
「継承?」
天羽は驚きのあまり声が上ずった。
「ええ、この集落にはまだレーダーがいないの」
「え?ルシカの父親じゃないの?」
「え、かつてはそうだけどね、いつまでもそう続かないわよ。本来ならルシカはもうとっくにリーダーになんだけど」
「本来?」
「ある日、彼女は家出したの、あれはもう五、六年前くらいの話なんだ」
「家出?」
天羽は目を丸くして、その言葉をにわかに信じられないのだ。
「うん。こういうの興味ないからと言いながら出ていったよ」
女は苦笑交じりにこめかみを触る。
──あいつらしいね……
天羽はニヤリと笑って、わがままで自分勝手なルシカの姿はもう珍しくもないのだ。
「だからね、あれから継承の件はこのままなかったことにされた」
女は体育座りして、前後にふらふらと揺れる。
「意外なのはあいつが自ら戻ってきて、おまけに継承の件を切り出した。みんなは大喜びしたけど、それが一番いい選択とは思えないね。少なくとも私はそう思ってる」
「うん……どうしても納得いかないことがあって、あんた狼でしょう、このままリーダーがいない状態でいいの?これじゃ烏合の衆にすぎないじゃん」
「身勝手な考えと思われるかもしれないが、彼女が幸せになれるなら、それでいい。今の彼女はリーダーに『なりたい』というわけじゃないから、見てて黙っていられないわ。それくらいわかるよ」
天羽は彼女の横顔を見据えて、口を動かす。
「本当に決心したの?」
「私はいつでもオッケーだから、後はあなた次第よ。このまま儀式が成功したら、もう二度と帰ってこないかも」
天羽はスッと立ち上がって拳を握り締める。
「もちろんだよ。そのためにここに来たから。あんたはその気があれば、こっちもとことん付き合ってやる。最大の努力を尽くすよ、なんとしてもあいつをここに連れ戻して見せる」
天羽は女と同じ船に乗ることにした。
「あ……いつも忘れちゃう!私はレナ、あなたは?」
レナは舌をペロッと出てきて、再び手を差し出す。
「私は羚夏よ、よろしく」
今度こそ天羽はその手を握り返した。




