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素直で我儘な、大人たち。



 翌日。会社を休み、空港の人ごみの中で洋樹を探す。


 昨日、『明日空港で会いたい』とLINEしようかと思ったが、プロポーズを断ったあの日から、会社で目を合わす事さえしなくなった為、理由をつけて断られたり、飛行機の時間を変更されたりなんかしたらショックが大きいなと思い、当日探し出す作戦に出た。……が、人が多すぎてなかなか洋樹を発見出来ない。


「洋樹‼ 洋樹‼」


 洋樹の名前を呼びながら、四方八方を見渡していると、


「迷子を捜してるお母さんみたいになってるぞ、日花里」


 後ろから誰かに腕を掴まれた。


「洋樹‼」


 振り返ると、しょっぱい顔をした洋樹が呆れた目をしながら私を見下ろしていた。


「……何しに来たんだよ。日花里の顔、見るのが辛くて送別会さえ断ったっていうのに……。鬼かよ、お前は」


「洋樹に会いに来た。話したいことがあるの」


 洋樹の顔を見上げる。ちゃんと洋樹の顔を見るのは久々で、何となく感じる懐かしさが切ない。


「話って何?」


 困っているのか、迷惑なのか。洋樹は眉間に皺を寄せながらも私の話に耳を貸してくれるらしい。


「課長が昨日、洋樹が乗る便を教えてくれて、今日来た。私、昨日課長に振られた」


「課長に振られたから、俺のところに戻って来たってこと?」


 私の言葉に不快感を露にした洋樹は、更に眉と眉の間の距離を狭め、より深い皺を作った。


「違うよ。洋樹に『いい気味』って指差しながら笑って欲しかったんだ」


「……は?」


 私の話が『意味分からん』と言った様子の洋樹が、今度は斜めに首を傾げた。


「私、洋樹が大好きだった。大切だった。だから、浮気をされても別れなかった。別れられなかったの。浮気が許せないなら、あの時に別れておけば良かったのに、私は洋樹を雁字搦めにして、いつも過去の浮気をチクチク責めてた。洋樹に頑張るだけ頑張らさせておいて、やっぱり許せないからってプロポーズ断って……。洋樹に『最低だ』って言われて、その通りだって思った。もっと早く洋樹を手放していれば、洋樹には今頃私なんかよりもっともっと、何倍も素敵な彼女が出来ていたかもしれない。なのに、本当にごめん。ごめんなさい。洋樹の大事な時間を無駄にしてしまった。本当にごめんなさい」


 腰を折り曲げ、勢い良く頭を下げた。


「それを言いに来たの?」


 洋樹が「顔上げて、日花里」と私の頭を撫でた。


「だって、あんな別れ方嫌だった。今までのことを謝りたかった。今まで一緒にいてくれてありがとうって伝えたかった。どうしても」


 髪に触れる洋樹のあったかい感触が涙を誘う。でも、泣かない。泣きたくない。だって、洋樹との3年間は凄く楽しかったらから。しんみり終わりたくない。


「日花里にとって、俺といた時間は無駄だった?」


 洋樹が俯いたままの私の顔を覗き込んだ。


「凄く幸せだったよ」


 首を大きく左右に振って洋樹の質問を否定。


「良かった。俺もだよ。こんな結果になっちゃったけど、後悔なんか1㎜もない。『あの時別れておけば』なんて考えたこともない。俺、日花里には感謝しかないよ。浮気をした俺と今まで一緒にいてくれてありがとう。俺も最高に幸せだった。今も日花里に未練タラタラなくらいに幸せだった。後悔してるのは、浮気をしたことだけ。なんで浮気なんかしちゃったかなぁ」


 洋樹が苦々しく笑った。


「……ホントだよ」


 拳で洋樹の胸を小突くと、「ははは」と洋樹が溜息混じりに笑った。


「日花里ってさぁ、学生の時に先生に見つからない様に夜の校舎に潜り込んだり、親に隠れて酒飲んだりしたことなかった? 浮気した時の感覚が、それに近かった気がするんだよね。現状に不満はないのに、いつもと違うことがしたくなる。ちょっとした悪さでスリルを味わいたい。みたいなさ」


 洋樹の言っている事は理解出来なくもない。が、


「浮気をされた方ってね、親や先生の目の届かない所で陰湿なイジメに遭っている様な感じなんだよ。辛いんだよ。キツイんだよ」


 軽い気持ちでやった事だとしても、受ける側のダメージが軽いとは限らないんだ。


「うん。ゴメン。今なら分かる。自分を好きでいてくれていたはずの人間の気持ちが逸れるって、まじで苦しいね」


「うん。私もゴメン。ちゃんと洋樹だけを見てなかった。ゴメン」


 別れてやっとお互いを分かり合えた私たち。


 最後までタイミング悪いな。と思うのに、『私たちらしいな』とちょっとだけ笑えた。


「……そろそろ時間だ」


 洋樹が左手に巻かれた腕時計に視線を落とし、時間を確認した。


「……そっか」


 洋樹と本当にお別れする時間になった。


 もう洋樹とは会わない。会えない。


 とてつもない寂しさと悲しみが襲い掛かる。


 でも私に『淋しい』『悲しい』などと口にする資格はない。


「洋樹、元気でね。向こうでも頑張ってね」


 奥歯を噛みしめ、笑顔で洋樹に手を振る。


「日花里も。じゃあね」


 手を振り返した洋樹が、私に背を向けた。


 1歩ずつ私から離れていく洋樹の後姿を、ただ見つめる。


 洋樹と結婚する事は出来なかった。でも、こうして洋樹の背中を見送りたかったわけでもなかった。


 別れても別れなくても後悔しかなかった私の選択を恨み、「もう我慢できないや」と涙を零してしまおうとした時、


「日花里‼」

 

 突然洋樹が足を止め、私の名前を呼んだ。


「俺、やっぱ最後に日花里に会えて良かったわ。俺、最後に日花里に言いたいことがあったから」


「……何?」

 

 吹き出す寸前だった涙を流してしまわぬ様に、瞬きを我慢しながら洋樹に問いかける。


「俺、日花里のこと、愛してる」


 まさかのタイミングの洋樹の愛の告白に、


「……え」


 驚きすぎて目を見開く。


「最後にまさかの現在形。ビックリしたっしょ? だってまだ日花里のこと、愛してるんだもん。だけど、もう言う機会もないじゃん? だから、どうしても言っておきたかった」


 切ない表情をしながらも、少し顔を赤らめて笑う洋樹。


「……最後の最後に。どっちが鬼だよ」


「あはは。ごめんごめん。今度こそ行くね。本当にこれでバイバイ。今まで本当にありがとう、日花里」


 洋樹がまた歩き出した。


 人混みに紛れ、洋樹を見失いそうになった時、


「こっちがありがとうだ‼ ばかー‼」


 大声で叫び、人目も憚らずにその場で泣き崩れた。


 愛する人には愛されず、愛してくれる人に愛を返せない。


 どうしようもない悔しさと悲しさとやるせなさ。喪失感。虚無感。


【心にぽっかり穴が空く】とはこういうことなのか。


 散々泣いてカラカラになった喉を潤すことさえする気になれない。


 フラフラになりながら立ち上がり、とぼとぼと歩きながら空港を出る。


 ボーっとした頭のまま電車に乗り、アパートに帰る。


 アパートに辿り着くと、宅配ボックスに荷物が届いていることに気付いた。


 宅配ボックスの中にはダンボールが2つ。


 送り主は母だった。


 中身はおそらく野菜。


 いつも運んでくれていた洋樹はもういない。


 ダンボールを見ただけでも涙が出てきてしまう。


 手の甲で涙を拭い、ダンボールを持ち上げる。


「……重」


 憔悴中の私には結構厳しい重量のダンボールを2つ、玄関に運び込む。


 そこからは、ダンボールを持ち上げることもせずに、後ろから引きずる様に押しながらキッチンまで運んだ。

 

 今の私には、重い荷物を元気に運べる気力はどこにもなかった。 

 

 何とかダンボールをキッチンまで移動させると、テープを剥がして中身を確認。


 ダンボールの中身は、どっちも野菜。


 終わりかけの夏に、今年最後の夏野菜をふんだんに詰め込んでくれたのだろう。


 母の気持ちは嬉しい。いつも有り難いと思う。でも……。


「……何で2箱も送ってくるのよ。どうしろっていうのよ」


 課長はもう、私の手料理を喜んではくれない。いつも『おいしい』と食べてくれていた洋樹もいない。


 ……あぁ、そうだ。私が多めに送って欲しいってお母さんに頼んだんだ。課長に手料理を食べて欲くて。


「……全部自分が悪いんじゃん」


 思い出して自分に呆れると、もう笑うしかない。と、思っていたが、


「……もう、どうしてこんなにタイミングが悪いのよ」

 

 やっぱり泣く。


 今はもう、何もかもが切なく、悲しい。


 寂しさと虚しさで食欲など掻き消され、大量の野菜を目の前にしても料理などする気になれない。


 父と母が大事に育て、折角送ってくれた野菜。


 心の中で両親に謝罪して、そっとダンボールの口を閉じた。


 そしてバスルームに直行。


 シャワーを浴びて、涙で中途半端に崩れた化粧諸共洗い流す。


 お風呂から上がると、髪を乾かし、ベッドに潜り込む。


 起きていたってどうせ泣くだけだ。


 泣けば泣くほど目は腫れる。


 明日は会社に行かなければならない。


 腫れ上がった瞼で会社に行きたくない。


 同僚たちに心配されて、色々聞かれたくないから。


 だってまだ、私自身がこの悲しみを消化出来ない。


 相談なんてものが出来るほど、私の心は冷静にはなれていない。


 

 布団を被り、目を閉じた。


 眠っている間だけでも、このどうにもならない切なさから解放されたかった。 




 時々目を覚まし、乾いた喉を潤す為に水分を取ると、また寝るという行為を何度か繰り返していると、朝になっていた。


「……会社、行かなきゃ」


 気持ちが重いと、身体も重く感じる。


「……よいしょ」


 今日はいつもの倍、起きるのに体力を要している気がする。


 なかなか起き上がろうとしてくれない自分の身体を、二の腕の筋肉と気力を振り絞り、無理矢理起こした。


 ……あぁ、そうか。 昨日、何も食べていないから力が出ないのか。


 原因は分かっているのに、朝食を食べる気にならない。食欲を完全に失った。


 キッチンを素通りし、洗顔をしに洗面所へ向かう。


「……酷い顔」


 洗面台の鏡に映った自分の顔に落胆。


 腫れない様に、泣かない様に気を付けていたのに、やっぱり目は赤いし、顔の窶れが顕著現れていた。


 顔を洗って、マッサージをしながら基礎化粧品を塗り付けて血色を良くしようと試みる。


 あまり変化のない顔色に、今度はコンシーラーやらチークやらを駆使し、肌のくすみを誤魔化す。


「……なんか、今日の化粧厚いな」


 いつも使っている化粧品をいつも以上に厚塗りをして出来上がった顔は、化粧前のげんなりしていた状態とはまた違った形で最悪のコンディションになっていた。


 が、やり直す気にもならない。もう、どうでもいい。


 着替えをし、髪も適当に整え、何も食べずに部屋を出た。


 外はまだまだ残暑が厳しくて、エネルギー補給をしていない私には堪える。


 容赦のない太陽の陽射しに、少々残っていた体力を根刮ぎ奪われる。


 ふらつく足を引きずりながら会社へ向かった。


 会社に着くと、おかしな仕上がりの顔を隠す様に、俯きながら自分のデスクに直行。


 朝会も終始視線は床へ。


 正直、顔もヤバイが体調も思わしくない。食欲無く、何も食べていない今の私は、朝会で周知している同僚の話を顔を上げて聞く元気などなかった。


 立ちながら話を聞くのもしんどい。足に力が入らない。


 デスクに寄りかかりながら朝会が終わるのを待つ。


「今日も1日頑張りましょう」と朝会を締める主任の声が聞こえた時、やっと座れる。と安堵の息が漏れた。


 椅子に座るにもパソコンを立ち上げるだけのことにも、「ふぅ」と溜息の様なものを吐いてしまう。


 溜息と言われれば、そう。だけど、気力も体力も底をついている私は、何をするにも異常に疲れる。普通の呼吸で普段通りに動けない。


 身体も気持ちもどうしようもなく辛い。


 どんなに辛くても、冗談を言って笑わせてくれた洋樹はもういない。


 課長に甘えて楽しく話すことも出来ない。


 奥歯を喰いしばり、仕事に集中する。


 勝手に課長を視界に入れようとする自分の黒目を、無理矢理パソコンのディスプレイに固定。


 私は課長にしっかり振られた。


 どうにかして課長を好きでいる気持ちを消して、一刻も早くこの苦しい思いから抜け出したい。


 黙々と仕事をし、気付けばお昼休みの時間になっていた。


 社員たちがランチをすべく、続々と事務所から出て行く。


 でも、私のお腹は相変わらず減らない。


 どこかに移動するのも面倒だし疲れるしで、椅子から立ち上がることもせずにデスクに突っ伏した。


 お昼休みは昼寝の時間にしよう。ちょっとは体力回復するかもしれないし。と目を閉じた時、


「滝川さん、昼食取らないんですか? 何か、顔色が良くないですよ」


 社員はみんな出払ったと思っていたのに、頭の上から声がした。


 顔を上げずとも声の主は分かる。


「夏バテです。気にしないでください。課長」


 顔を伏せたまま答える。


 話しかけられただけで涙が出そうになる。顔を見たらきっと泣く。だから、私の目には映さない。


「何か食べないと倒れてしまいますよ。コレ、一口だけでも食べてください。ちょっとでも胃に何か入っていた方が良いですよ」


 課長が私の頭の近くに何かを置いた。


 少しだけ顔を動かし、置かれた何かを確認。


「……マフィン」


 何も食べたくなくなった私には、かなり重いその食べ物。


「いりません」


 右手でマフィンを押し避けた。


「今食べたくないのであれば、引き出しに入れて食べたくなった時に食べればいいですよ。すぐに腐るものでもありませんし」


 私が遠ざけたマフィンを、課長が元の位置に戻した。


 違うのに。食べられないからいらないんじゃないのに。


「いらないって言ってるじゃないですか‼ 少しは気を遣ってくださいよ‼ 仕事以外で話しかけないでくださいよ‼ 振った女に変に優しくしないでくださいよ‼ 残酷なんですよ、課長‼」


マフィンを鷲掴み、課長に押し付けた。そして、


「……あ」


 我に返って咄嗟に右手で自分の口を押さえつけた。


 そんなことをしても、言ってしまった言葉を口の中に戻すことなど出来ないのに。


 課長に『残酷』なんて言葉、絶対に言ってはいけないのに。


「……余計なことをしてしまいましたね。すみませんでした。でも、お願いですから何か食べてください。自分のこと、大事にしてください」


 少し切ない声を出した課長は、私に押し戻されたマフィンを持って事務所を出て行った。


『自分のこと、大事にしてください』


 おそらく課長は、私が『残酷だ』と罵ったせいで、奥さんのことを思い出し、明らかに元気を無くして弱る私に奥さんを重ねたのだろう。


 私は死なないのに。失恋ぐらいで死なない。


 死んだりなんかしたら、課長はまた自分を責めてしまうから。


 課長が辛い思いをするのなら、自分がどんなに苦しかろうとも死なない。


 絶対に死なない。


 

「……課長」


 会社でなど泣きたくないのに、やっぱり涙が出てきてしまった。


 課長にさっきの自分の暴言を謝りたい。


 でもまだ、課長と面と向かって話が出来るまでに、自分の心を立て直せていない。


 不甲斐無い自分に嫌気が差す。 


 手の甲で頬を流れた涙を拭い、再びデスクにうつ伏せる。


 これ以上泣かない様に、自分の腕の中で固く目を閉じた。


 今日はまだ午前が終わっただけ。午後も働かなくてはならない。


 泣いたことが周りの社員にバレて、変に勘繰られたりあらぬ噂を立てられたくない。


 というか、新人でもあるまいし、泣きながら仕事が出来るほど若くない。


 兎に角、残りの休憩時間は睡眠に当てよう。


 気持ちを落ち着かせよう。


 ……と思ったが、1度ザワついた心がそう簡単に静まるわけもなく、でも目を瞑っていただけでも身体のダルさが少し緩和した気がした。


 そうこうしていると、ランチを終えた社員たちが事務所に戻ってくる足音が聞こえてきた。


 デスクに貼り付けていた上半身を起こし、両手でほっぺたをパチパチ叩く。


 あと半日、頑張れ私。


 いつも不真面目に働いていたわけではないが、今日はいつも以上に仕事に集中。


 ふとした瞬間に色々考えてしまわぬ様に。


 ちょっとした隙も自分に与えない。


 一瞬たりとも気を緩めずに仕事をしたせいか、大仕事をしたわけでもないのに、就業時刻になる頃には肩に重しを乗せた様な疲れに見舞われた。


 左手で右肩を揉みながら会社を後にする。


『自分のこと、大事にしてください』。


 会社を出ると張っていた気が瞬時に弾け、課長の言葉を思い出す。


「ちゃんと大事にしてますよ」


 今度は逆の手で左肩を揉み解す。


 もういいや。と涙も流す。


 自分で自分の肩を揉み、泣きながら歩くシュールな私を、通りすがりの人たちはどう思うだろうか。


 別にどう思われてもいいけれど。


 知らない人に気を遣う余裕など、生憎今の私は持ち合わせていない。


 アパートに着き、床に適当に鞄を置くと、乾いた喉を潤す為にミネラルウォーターを取ろうと冷蔵庫に手を伸ばす。


 冷蔵庫の傍には、母が送ってくれた夏野菜入りのダンボール。


「折角送ってもらったのに、このままだと腐らせる事になっちゃうな」


 分かっているのに、料理をする気力も食べたい欲も沸いてこない。


 母に申し訳なく思いながらダンボールから目を逸らし、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出した。


 この2日間、摂取したものといえば、水だけだ。


 美容体重とやらでは【太り気味】に部類されるだろうが、おそらく標準体重だろう私が何日間か食べなくとも死にはしない。


 だから、課長に心配してもらったけれど無理してでも食べようという気にならない。


 人間の身体は、心は、不思議だ。


 料理をするのも食べるのも好きだったのに、今はそれをしたくない。


 欲するものは手に入らず、手にしていたものを失った私には、欲というものが無くなってしまったのかもしれない。


 ペットボトルのミネラルウォーターを片手にソファに座り、テレビをつけると、洋樹が毎週楽しみにしていたバラエティーが流れていた。


 騒がしいその映像に、


「ははは」


 零れた笑い声は乾いていた。


 面白いのに。面白いはずなのに、楽しくない。


 ただただ、ただただ、そこはかとなく寂しい。


 あと何日経てば、この寂しさに慣れるのだろうか。


 あとどのくらいしたら、お腹は空くのだろうか。


 考えれば考える程に寂しくなる。苦しいから、何も考えたくないから、今日もさっさとお風呂を済ませてベッドに潜る。


 夢も見たくない。


 暗い夢は目覚めが悪いし、明るい夢は覚めた後に見る現実が辛い。


 静かに熟睡したい。


 それほどに、心も身体も疲労困憊。


 たかが失恋なのに。


 病気もしていないし、仕事を失ったわけでもない。絶望の淵に立たされているわけでもない。


 なのに、こんなにも落ち込み、弱ってしまった。


 だって、一生懸命だったんだ。必死だったんだ。


 洋樹のこと、真剣に考えてた。課長のこと、本気だった。


 一気に削ぎ落ちてしまった心の大事な部分を埋める代わりのものなど、見つけられる気がしないんだ。


 今日は夢を見なかった。


 でも、存分に眠れたか? と聞かれれば、そうでもない。


 寝覚めはスッキリしないし、身体を起こすのに相当な気合と体力を要する程に、相変わらずだるい。


 それでも会社に行かなければならない。休む理由がないから。


 風邪を引いたわけでもないし、身内に不幸も起こっていない。


 失恋は休む理由にならない。


 週末は遠い。


 かといって、有給を使って休んだところで、色々なことを考え、思い出に耽り、どうせ落ち込むのだろう。


 何だかんだ、仕事をすることで気が紛れているんだ。


 仕事をするのも、休むのも疲れる。


 逃げ場がない。袋小路だ。


「……会社に行きますか」


 支度をして、今日も何も食べずにアパートを出た。


 とぼとぼと会社まで歩く。


 いつもと同じ時間に玄関を出たのに、いつもより3分遅く会社のビルに到着。


 小走りすれば乗せてくれそうなエレベーターが目に入ったが、そんなことで体力を使うわけにはいかず、次のエレベーターを待つ。


 【上】のボタンを押し、壁に凭れていると、


「おはようございます。滝川さん」


 後ろから挨拶をされた。


 耳にするだけで涙腺を刺激するその声。


「……おはようございます。課長」


 頭を下げるという行為で、課長の顔を見ることを回避。


 つくづく社内恋愛などしてはいけないと思った。


 学生時代の学校内での恋愛とは訳が違う。


 クラス替えもなければ卒業だってない。


 異動や転職はあるけれど、自己都合でタイミング良く出来るものではない。


 社内恋愛をしてしまう前にどうして気付かなかったのだろう。いや、分かっていたけど、したんだ。自分が社内恋愛で失敗するなんて思いもしなかったから。


 変に自信過剰だった自分を恨む。


「今日も食べてこなかったんですか?」


「大丈夫ですから」


 課長の質問に、答えになっていない返事をする。


「大丈夫そうに見えないのですが」


 課長はただ、体調不良の部下を気遣っているだけ。


「そう見えたとしても、大丈夫です」


 分かっているけど、頑なに課長の優しさを拒む。そうしていなければ、気丈を保てないから。いい大人が気を緩めてボロボロに崩れ落ちるわけにはいかない。


「……そうですか」


「はい」


「……」


「……」


 話が続かなくなったところでエレベーターがやって来た。


 2人で無言で乗り込み、無言のまま事務所のある階で降りた。


 エレベーター内の気まずい空気から開放され、普段通りに働く。


 いつもと変わらず働いていれば、どうしても課長の印やら承諾やらが必要な書類が出てくる。


 大人として、仕事に私情を持ち込むべきではないのは重々承知だが、どうしても今は課長と関わりたくない。


 近づけばどんどん好きになる。振られているのに、惹かれてしまう。今以上に傷ついてしまうという事が分かっているから。


 だから、課長が絡む仕事には、課長が離席した隙を突き、『押印お願いします』などとメモ書きした付箋を貼り付けた書類を課長のデスクに置いた。


 課長を避けて避けて避けまくる。徹底的に避けた。


 大人気ないのは分かっている。


 でも、こうする他に自分を保つ術が思い付かないんだ。


「滝川さん。これ、判子押しておきました」


 だけど課長は、私が課長のデスクに置き去りにした書類を、律儀に手渡しに来る。


「……ありがとうございます」


 課長のしていることは、社会人として、会社員として当然のこと。だけど、何で私がここまで課長を遠ざけているのかを、少しでも考えて欲しい。


 自分勝手な思考で課長に腹を立てながら、ニコリともせずに書類を受け取る。

 

 書類はしっかりもらったというのに、課長は自分のデスクに戻らない。


「……?」


 課長の顔を見上げると、


「……あの、先日お得意先からゼリーを頂いたんです。沢山あるので皆さんで食べてください。冷蔵庫に入っていますので」


 言い辛そうにそう言うと、やっと課長は自分の席に戻って行った。


『いらないって言ってるじゃないですか‼ 少しは気を遣ってくださいよ‼ 仕事以外で話しかけないでくださいよ‼ 振った女に変に優しくしないでくださいよ‼ 残酷なんですよ、課長‼』


 私があんなことを言ったからだ。


 ゼリーはお得意先がウチの社員にくれたもの。


 私だけに与えたものではない。


 そもそも、課長が私の為に買ったものではない。


 課長に変な気を遣わせてしまって申し訳ないなと思うのに、今の私はいっぱいいっぱいすぎて、態度を正すことも謝ることも出来ない。


 そんなズタズタ状態の私は、割りと限界に近づいていたらしく、今日は異常に頭がボーっとしがちで、仕事に集中出来ない。


「糖分が足りないのかな」


 にわかな医学の知識で、自力で脳の回復策を探る。


「……ゼリーなら食べられるかな」


 早速ゼリーを求めて給湯室の冷蔵庫を探りに席を立った。


 給湯室に行き、ゼリーが入っているだろう冷蔵庫を開けると、大きなオシャレな箱が結構なスペースを占めていた。


「コレだな」と、その箱を取り出し、蓋を開けた。


「わー。可愛い」


 女子が好きそうな、果物たっぷりで、カラフルに飾り付けされたゼリーが箱の中に犇き合っていた。


 何種類かある中で、1番小ぶりな容器に入ったゼリーを選択。


 いつもの私なら、迷うことなく1番大きいゼリーを選ぶところだが、今日はこの小さいヤツさえ食べきる自信がない。


 食器棚からスプーンを取り出し、ゼリーを掬うと口の中へ。

 

「んー‼」


 沁みる。久々の食べ物が舌と胃に沁み渡る。


「おいしいな。このゼリー」


 続けざまに2口3口とスプーンを運ぶも、


「……お腹いっぱいだ」


 半分食べたところで満腹になってしまった。


 完全に胃が縮んでしまっていた。


 残りは冷凍してシャーベットにして食べようかなと、半分だけ食べたゼリーに蓋をし、冷凍庫に入れると自分のデスクに戻り、仕事を再開。


 気のせいかもしれないが、さっきより捗る様な気がする。


 仕事の進みがスムーズだ。


 順調に仕事をこなすと、あっという間にお昼休みの時間になった。


 今日もお腹は空かない。


 残りのゼリーでも食べようかなと、冷凍庫にゼリーを取りに行く。


 冷凍庫の扉を開くと、プルプルだったゼリーは、容器を揺すっても微動だにしない硬さまで凍っていた。


 それにスプーンを差し込むと、シャリシャリという良い音がした。


「美味しそう」


 お腹は減っていないが、『食べたい』という欲は沸いてきた。


 スプーンを往復させ、氷状になったゼリーを刮ぎ取ると、口へ運ぶ。


「冷たッ‼ 美味ッ‼」


 まだまだ暑い日が続いていた為、喉を通る冷たい甘さが心地よい。


 あっという間に完食すると、デスクに戻ってお昼寝をすることに。


 デスクにうつ伏せになり、目を閉じると、すんなり眠気がやって来た。


 睡眠までも円転自在。


 やはり、生きるには何か食べた方が良いんだなと体感しつつ、眠りの世界へ。


 お昼休みの終了を告げるチャイムが鳴るまでの短い時間だったが、瞼を開けると頭がスッキリしていた。


 そのまま調子良く午後の仕事を片付け、残業せずに帰宅。


「久々に何か作ろうかな」


 冷蔵庫の前に置きっぱなしのダンボールを見つめる。


 特に食べたいものはない。だから、作りたいものもない。


 ただ、食べた方が身体の調子が良いことを今日実感してしまった為、何かしら胃に入れたい。


「食欲がなくても食べられる、軽めなヤツ……」


 ダンボールを漁りながら野菜を吟味。


「サラダでも作るかな」


 切ってドレッシングをかけるだけという、『料理しました』とは胸を張り辛いものを作ろうと、きゅうりとトマトを手に持ち、まな板に置いた。


 包丁で野菜を適当な大きさに切ってお皿に盛り、オリーブオイルやビネガーを混ぜて作ったドレッシングを回しかけると、はい出来上がり。


 5分もかからず夕食完成。


 どうせ手を掛けて作ったって、食べるのは自分だけだ。


 なんとなく、洋樹と食卓を囲んでいたリビングには行きたくなくて、楽しかった記憶を呼び起こしたくなくて、キッチンで立ち食いをすることに。


 きゅうりにフォークを刺し口元へ持っていく。


 ……全然食べたくない。


「だめだ。食べられない」


 キッチン台にサラダの入ったお皿を置き、ラップを掛けた。


 今の私には、サラダはハードルが高かったらしい。


 夕食を諦め、今日も早々にお風呂に入り、寝る。起きていると体力を使うから。


 食べられないなら、体力は極力使わずに温存。


 そしてまた、朝が来る。


 ここ数日、水とゼリーのみで生きていた為、肌はガサガサ、髪はパサパサになってしまった。


 化粧はのらないし、髪の毛も纏まらない。


「会社に行く前にコンビニに寄ってこ」


 ハリを失った髪を無理矢理束ね、唯一口に入れることの出来た固形物を求め、家を出た。


 太陽の日差しを避ける様に、日影を探しながら歩き、会社から1番近いコンビ二へ入店。


 心が元気だった頃は、平気で完食出来ていた大きめのゼリーには目もくれず、棚に陳列されていたゼリーの中で最も小さいものを手に取り、レジへ向かった。


 無事にゼリーを購入し、コンビニを出た時、


「ふぅ」


 小さい息が漏れた。


 いつまで私はこんな状態なのだろう。


 あとどれくらいで元気を取り戻せるのだろう。


 何をどう頑張れば復活出来るのだろう。


 やるせない。


 やるせないけれど、仕事に行く。


 やるせないから、仕事に行く。


 やるせなさを、忘れたいから。 




 会社に着き、ゼリーが入ったビニール袋を肘に下げながら、鞄の中からセキュルティカードを取り出し、ドアの鍵を開錠すると、デスクには行かずにゼリーを冷蔵庫にしまうべく、給湯室へ。


 給湯室の出入り口に近づくと、複数の女性社員の声が聞こえてきた。


 何となく混ざって喋る気になれなくて、『ゼリーは後で片そう』とデスクに引き返そうとした時、


「今日は冷凍庫にアイスが入ってるんだけど」


 先輩社員の声がした。


「それ、課長ですよ。課長が入れてるの、見ましたもん」


 後輩の女の子がそれに応える。


【課長】というワードに思わず足が止まり、彼女たちの会話に聞き耳を立てた。


「昨日のゼリー、お得意様にもらったわけじゃなくて、課長の自腹っぽくない? だっておかしいじゃん。去年、ゼリーとかくれるお得意様なんかいた? 課長、異動してきたばっかりだから新規開拓なんてまだ出来てないはずでしょ? 前の課長のお得意様を引き継いだだけでしょ? お得意様が前の課長にはくれなかったものを、今の課長にはくれるなんてことある? どんだけ前の課長が嫌われてたんだって話じゃん」


「私思うんですけど、課長は折角異動してきたのに、こっちの支店でまで奥さんの噂で変な目で見られたくないから、私たちに媚び売って点数稼ぎがしたいのかなって」


「そんな気するねー。ちっさい男だねー、課長」


「けなしておいて、普通に食べるくせに」


「アイスに罪はないもの。腐らせてももったいないでしょ」


「アイスには賞味期限ありませんから」


「そうだったー」


『あはははー』と笑う女性社員たちの声に、悔しくて奥歯を噛みしめた。 


 こんな時、少女漫画だったら『課長はそんな人じゃない‼』とか何とか言いながら、女性社員の輪の中に飛び込んで行って、それをちょうど良く偶然に課長が目撃とかしてくれちゃっていて、そんな健気でお節介な私を意識してくれちゃう様な流れになるのだろう。


 ただ、少女漫画は何だかんだでお互いに好意を持っていることが読者に丸分かりだからこそ、すんなり受け入れられている展開であって、課長にバッサリ振られている私が実際にそんなことをしようものなら、余計なことをする出しゃばり女でしかない。更に、私のその振る舞いを課長が目にするなど、都合良く起こるわけがない。


 そんな私が出来ることは、デスクに行き、パソコンを立ち上げ、


『冷凍庫に入っているアイスの差し入れは、課長がしてくれたものですよね? 悪い噂が立ち始めているので、控えた方が良いと思います』


 課長にメールを打ち、情報をリークすることくらいだった。


『アイスを冷凍庫に入れたのは私ですが、差し入れ自体はお得意様ですよ』


 すぐに課長からの返信が来た。


 差し入れはあくまでもお得意様からだと主張する課長。


 2日連続でお得意様から差し入れが入ったことなど、入社して1度もない。というか、営業さんが出張先からお土産を買ってきてくれることはちょくちょくあれど、と言っても1ヶ月に1回くらいだが、お得意様からの差し入れなんて、お中元やお歳暮を抜かせば1年に1回あるかないかだ。


 さすがに怪しい。

 

『お得意様ってどちらの会社ですか? お返しをしなければならないので、教えてください』


 またも質問メールを送信。


『お礼は私がしておきますので、気にしなくて大丈夫ですよ』


 が、課長はサラッと交わした返信をしてきた。


 隠す必要もない、取るに足らない質問に答えない課長。


 きっと、嘘を吐いているんだろうなと思った。


 しかし、そんなことはどうでも良い。私は課長の嘘を暴きたいたいわけではない。課長に変な噂が立たない様にしたいだけだ。


『失礼を承知の上で報告させて頂きます。課長の行為は、みんなには『奥さんの噂を気にして部下に諂っている』様に見えています。ですので今後、お得意様に何か頂いたとしてもご自宅に持ち帰ってください』


 真偽は問わず、自分の要望だけを打ち込み、課長に再度メール。


『持って帰っても自分ひとりでは食べきれませんよ。それに、周りにどう思われていても別に気になりませんから』


 課長から、『私の意見は聞き入れません』という内容のメールが届いた。

 

 やはり、振った女からのお節介はいい迷惑でしかないらしい。


 そうだ。私は課長に振られたんだ。だから、課長がみんなにどう思われようが知ったことではないんだ。


 だけど、どうしてもまだ好きなんだ。


 しっかり振られた。今だって、私の思いは汲んでもらえなかった。


 なのに何で諦められないのだろう。


 苦しい。悲しい。辛い。


 胃がきゅうっと絞まる感覚がした。


 今日のお昼は、朝買ったゼリーさえ食べられなかった。


 食べることを拒否した身体とういものは、【考える】という行動を嫌うらしい。


 どうのもこうにも集中出来ない脳みそを騙し騙し働かせ、何とか就業時間を迎えた。


 残業などとても出来ないので、さっさとパソコンの電源を落として帰ろうとした時、メール受信の通知が来た。


 送り主は課長。


 メールを開くと、


『アイス、食べなかったんですか?』


 と、帰り際の人間を引き止めるには迷惑でしかない内容が書かれていた。


『はい』


 2文字だけのメールを返す。


『食欲がない』と正直に言えば、優しい課長は心配してくれるだろう。そんな優しさに触れてしまったら、どんどん課長を好きになってしまう。振られているというのに。


 そんなの辛すぎる。


『遠慮しないで食べてください』


 会話をぶった切る様な私の返信に、それでも返事をくれる課長。そんな課長に、


『課長が差し入れするのをやめてくれたら食べます』


 と、課長にとっては、私がアイスを食べようが食べまいが正味どうでも良いだろうに、変な交換条件を付けたメールを返した。


 だって、どうしても課長にまた変な噂が流れるのが嫌だったから。


『ですから、お得意様からの頂き物なんですって』


 返ってきた課長のメールを見て、溜息が出た。


 やっぱり私の気持ちは課長には届かない。


 課長への返信を打つことなく、パソコンをシャットダウンさせると、そのまま会社を後にした。


 アパートに着き、鞄を適当に床に置こうとした時、鞄の中に入れておいた携帯が震えた。


 携帯を取り出し画面を見ると、母からのLINEメッセージが届いていた。


『野菜、もう少しあるから送ろうか?』


 娘を想う、優しさたっぷりの母の心遣い。


 しかし、野菜はほぼ手付かずのまま、送られてきた時とほぼ変わらない状態でダンボールの中に納まっている。


 きっと、『まだあるから大丈夫だよ』と言われるより、『ちょうだい』と喜んで送ってもらう方が母は喜んでくれるだろう。


 自分が落ち込んでいるからと言って、母の好意を無碍にはしたくない。


「……課長に私の想いが届かないなら、私だって課長の気持ちなんか無視してやる」


 母に『欲しい。ありがとうね』と返事をすると、ダンボールの中からこれでもかと言うほど大量の野菜を取り出し、抱え込みながらまな板の上に置くと、それらを一心不乱に包丁で刻んだ。 


 久々に料理らしい料理をした。


 なんだかワクワクして楽しかった。


 出来上がったものをタッパーに詰め、トートに入れるとアパートを飛び出した。


 チャリに跨り向かうは、課長が残業しているだろう会社へ。


 勢い良くペダルを漕ぎ、息を切らせながらエントランスを駆け抜けると、エレベーターのボタンを連打。


 自分の気持ちが冷静になる前に行動に移したかった。


 冷静を取り戻してしまったら、きっとまた私はまたウダウダ落ち込み続けてしまうから。


 開き直ったこの時に、やりたいことをやってしまいたいと思った。


 気持ちが逸り、課長のいる事務所へ急ぐ。


 エレベーターに乗り込むと、扉が開く前にセキュリティーカードをスタンバイ。


 降りた途端に事務所の扉を解錠し、中に入った。


「お疲れ様です、課長」


 そして、課長のデスクに一直線。


 課長は今日も1人で残業していた。


「滝川さん。……どうしたんですか?」


 振った女が用事もないのにやって来た事に、課長は驚き戸惑っている様だった。


「実家の野菜をふんだんに使ってドライカレーを作ってきました」


 そんな課長をお構いなしに、トートからタッパーを取り出し、課長に突き出した。


「……え」


 困惑気味の課長が私を見上げた。


「振った女の手料理なんか食べたくもないと思いますが、課長だって私の意見なんか聞いてくれないんだから、私だって課長の気持ちなんか考慮しなくて良いんじゃないかと思って。課長に料理を作りたかったから、食べて欲しかったから持ってきました。いらなかったら、私が帰った後に捨てて下さい。目の前でやられるのは流石に傷つくので」


 課長が受け取ろうとしてくれないから、勝手に課長のデスクにタッパーを置いた。


「その理屈だと、滝川さんだって私の意見を汲み取ってくれなかったじゃないですか」


「……え?」


 困り顔の課長の予想外の返しに、自分も困惑。


 課長が何の話をしているのか分からず、目を丸くする。


「どうして山下くんについて行かなかったんですか? 私、ちゃんと促しましたよね?」


 課長が、そんな私の記憶を呼び起こす。


 一気に蘇る課長との会話。


「課長は『自分の心になんか嘘を吐けば良い』と言いましたけど、私は甘ったれで我儘だから、私は課長のことが好きだから、洋樹と一緒に行くことはしませんでした」


『そういう性格だから仕方がないんだ』と言わんばかりの私の態度に、


「私は、滝川さんには山下くんについて行って欲しかったです」


 課長が、溜息混じりに顔を顰めた。


 勢いだけで会社に来てしまったが、そんなにまで迷惑がられていたとは思っておらず、落ち込んでいたわりに楽観的だった自分が恥ずかしくなり、みるみる正気を取り戻す。


「……すみません。帰ります」


 課長のデスクに置いたタッパーを持ち帰ろうと手を伸ばした時、


「滝川さんが作ってくれた料理が、いらないわけないじゃないですか。捨てるはずないじゃないですか」


 課長がタッパーの上に手を置き、トートに片そうとしていた私の手を阻止した。


「滝川さんが私の為に料理を作ってくれることが嬉しかった。滝川さんと話すことが楽しかった。滝川さんにお礼のスイーツを選ぶことも楽しくて……。滝川さんが『好きだ』と言ってくれた時、心が大きく動揺しました」


 課長がゆっくりと話し出した。


「……ずっと、妻への罪悪感が消えないんです。でも、消してはいけないものだと思っているので、それで良いと思っています。楽しいことや嬉しいことがある度に、幸せに浸ってしまったことに対して妻に申し訳なく思っていました。だから、滝川さんと楽しい時間を過ごした後、1人になった時にいつも心の中で妻に懺悔をしていました。それにも関わらず、滝川さんが料理を持って来てくれるのを楽しみにしていたりして……。謝意より欲求が勝ってしまう私も甘ったれです」


 視線を落としながら、大事そうにタッパーに両手を添える課長。


「……滝川さんの告白を受けた時、物凄く怖くなったんです。自分に誰かを幸せにすることなど出来ない。自分が幸せになるなんて許されない。滝川さんの好意を知ってしまったから、自分の欲が増してしまうことなど分かり切っている。だから、滝川さんには私の目の前からいなくなってほしかった」


 課長は苦しそうに話しているけれど、


「……課長の欲って、何ですか?」

 

 私にとっては辛い話に聞こえなくて、それどころか嬉しい話にしか聞こえなくて、自分の期待が外れていない事を確かめる様に課長に質問を投げかける。


「……」


 だけど、課長は口を噤んでしまった。でも、どうしても課長の返事が聞きたい。ここで諦めることなど出来ないし、したくない。というか、しない。


「課長は私との時間を楽しんでくれていたんですよね⁉ それを『幸せ』と感じてくれていたなら、課長が幸せなのは、私のせいですよね⁉ 全部私のせいです。私が課長をそんな気持ちにさせたんです。課長は悪くない。私が全部悪い。だから……。私は課長が好きです。大好きです。課長は⁉」


 理論として成り立っているのかどうか分からないことを、マシンガンの様に話しながら課長に詰め寄る。


「……滝川さん、私の話を聞いてましたか? 私には誰かを幸せにする自信がありません」


 私の圧に、課長が少し後ずさった。


「私は甘ったれで我儘だけど、幸せを誰かに恵んでもらおうなんて思ってません。幸せは自分で捕まえます。課長こそ私の話、聞いてましたか? 私は課長が好きです。課長はどうなんですか⁉」


 それでも更に押す。絶対に引くもんか。


「……こんなバツ1のオジサンのどこがいいんですか?」


 こんなに押しているのに、それでも返事をしよとしない課長。


「こっちが聞きたいですよ。どこがどうして何でこんなに好きなのか分からないけど、好きなんです。課長は私のこと、どう思っていますか? 好きですか? 嫌いですか?」


 なかなか課長が答えてくれない為、2択の質問に変更。


「……好きですよ。とても。そんな力技で言わせなくても」


 観念した課長が眉尻を下げながら、ようやく口を割った。

 


 ドラマなら、映画なら、こんな時は嬉しさと安堵で涙するのだろう。


 なのに私ときたら


『きゅるるるるるー』


 気持ちが満たされた途端に、空腹を催してしまった。


「……今、お腹鳴らす場面じゃないですよ。滝川さん」


 折角の盛り上がりシーンを台無しにした私の空腹音に、苦笑いする課長。


「分かってますよ‼ もう‼ なんで今鳴るかな」


 羞恥のあまりに俯きながらお腹を摩ると、課長がそんな私の頭を撫でた。


 自分の髪を触る課長の手が嬉しくて、こういう間の抜けた幸せが私たちにはお似合いなのかもしれないと、暫く課長に頭を委ねた。


「だから、アイス食べておけば良かったのに」


 私の頭を撫でながら、課長が私の顔を覗き込んだ。


「アイスの差し入れ、本当は課長でしょ? なんでそんなことしたんですか?」


 課長の顔を覗き返す。


「だって滝川さん、私からだと言えば食べてくれなかったでしょ? 最近ちゃんと食べてないみたいだし、心配で。何だったら食べてくれるか考えた時に、ゼリーだったら食べやすいかなと思って買って行ったら、半分食べてくれて、半分は凍らせて食べていたから、『じゃあ次はアイスにしよう』と思って」


 笑顔で答える課長。


「……え。ゼリー食べてるところ、見てたんですか?」


 誰もいないと思って、一人で『冷たい』だの『美味い』だのとリアクションしていたところを見られていたとは……。


 やってしまった。と額に手を置きながら、半歩課長から遠ざかると、


「コラコラ。引くな引くな。こっそり見てたことは気持ち悪いだろうとは思いますが、ガッツリ見てたら食べるのやめてしまったでしょう? ゼリー、美味しそうに食べてくれて嬉しかったです」

 

 課長が私の二の腕を掴み、元の位置まで引き寄せた。


「別に気持ち悪いとは思ってなくて……。ひとりでゼリーの感想を口にしていたところを見られていたのがちょっと……」


 無意味に視線を斜め下に向けている私に、


「面白かったです。あ、可愛かったです」


 1回失敗しながら課長がフォローを入れた。


『ハハハ』


 そして2人で笑い合う。


「今日、早めに残業切り上げるので、一緒に私のマンションで滝川さんお手製のドライカレーを頂きませんか? インスタントのご飯もお味噌汁もありますから。お味噌汁、色んな味のものが揃っているので、選び放題ですよ。実は、滝川さんに手料理を頂く様になってから、それに合うお味噌汁を選ぶのが楽しくなってしまって……」


 課長が「あさりと、ワカメと、しじみと……」と指を折りながらお味噌汁の在庫を思い出している課長。


 インスタントかぁ……。別に良いけれど……。


「課長、残業はあとどのくらいかかりますか?」


「30分くらいかな。……この会話、異動してきた初日にもしましたね」


 課長が「そんなに前のことじゃないのに、なんだか懐かしいですね」と笑った。


「課長、やっぱり私のアパートで食べましょう。私、先に帰ってスープ作っておきます。お味噌汁でも良いんですけど、カレーなのでスープの方が合うと思いますし、インスタントより作りたいです。私のアパートの住所、LINEしま……」


 鞄から携帯を取り出し、一瞬考えていると、


「あるよ‼ ID持ってるよ‼ 老人扱いしすぎですよ‼」


 課長が「ホラッ‼」と携帯の画面にLINEのQRコードを映しながら私に「登録して」と差し出した。


「あはは。すみません」


 笑いながら謝り、課長の携帯の上に自分の携帯を翳した。


「じゃあ、後で住所を送っておきますね」


 さっさと帰ってスープを作ろうと、鞄を片に掛け事務所を出て行こうとした時、


「やっぱり1時間掛かるかも」


 課長が私を引き止めた。


「……え」


 何故か時間を遅らせられたことに、悲しくなって足を止める。


「帰りにスイーツ買いたいので。何か食べたいものはありますか? リクエスト可ですよ」


 しかし、課長の言葉で笑顔が戻った。


「課長が選んでくれたものが食べたいです。じゃあ、ご飯も炊いて待ってます‼」


「なるべく早く帰りますから」


 課長と笑顔で1時間後の再会の約束を。



 私は、課長と囲む幸せな食卓があれば、それでいい。







 素直で我儘な、大人たち。



 おしまい。

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