大魔術師は把握した。
意識が浮上するまでの時間が刹那であったか、久遠であったかは分からない。ただ、私は一つのことを確信した。
成功した。
実験の成功、それは私にとって何にも代えがたい幸福であった。多幸感が心の奥底から、熱いマグマの如く湧き上がってくる。
ああ、やった。一度に二つもの実験を成功させてしまうなんて。人生の集大成なだけはある。
私が喜びにウキウキしていると、一瞬早く喜びから立ち返った分離思考から警鐘が鳴らされる。どうやらこの肉体の損傷度合いは中々生命維持には辛いもののようだ。
頭部に大きな裂傷、頭蓋にヒビ、脳内出血、肩や鎖骨などその他数か所の骨折、出血による血液欠乏。症状はそういったものだろうか。察するに、高所からの転落が濃厚だろうか。
周囲の地形を捜索した結果、この身体が倒れているのは階段の下方。仮説はおおむね合っていたかと思われる。
まあ、分析はそこそこにして、治療を始めなければ――ああ、別の分離思考がもう準備を始めているのか。では私は造血でも担当するとしようか。魔力を展開し、循環させる。
うむ、うまくいったようだ。私の元の身体と同等以上の効率で魔力が循環されていくのを感じる。やはり、まっさらな状態から始めると効率が非常に良いようだ。これは神の使いに匹敵するほどではないか。理論値よりも遥かに高いとは予想外の発見だ。
ん?ああ、治療を始めたのか。造血まで3つ目の分離思考が代行している。私のやることがほとんどないな。
取りあえず、頭にべっとりと着いた血の汚れでも綺麗にしておくか。服も汚れが……いや、うん。そうだな…よし、ある程度の汚れは残すことにするか。というわけで細かい擦り傷や打ち身はそのままで残しておいてもらえるか。
約30秒ほどですべての作業を終え、ようやく動けるような身体になったようだ。倒れないように注意しながら、ゆっくりと私は立ち上がった。
おお……手が若々しい…!年齢は…大体12、3歳ほどか?筋肉はあまり無い。髪はボサボサに伸びて鬱陶しい。手の平がやたらと綺麗だな。これは苦労をしていないような身体だろう。所持品は……何か出てきたな。貨幣…それと紙の…ああ、銅色の貨幣と同じ記号が使われているな。おそらくはこれも金なのだろう。あとは…薄くもやや硬い紙のようなものが何枚か。うち一枚は自らの顔が描かれているから、身分を証明するものと予想できる。
それより気になるのは、このダボッとしたねずみ色の衣服。ローブよりゆとりはないが、何なのだろう、このゆるゆるとした感覚は。む、今気づいたが靴がない。階段のどこかに…ああ、割と上の段に両方とも落ちていた。魔術ですぐさま持ってくる。衣服にも言えることだが、この靴は履きやすいな。伸縮性に富んでいるのだろうか。
一通りの確認は済ませた。取りあえずは人のいる場所に移動するとしよう。ああ、もちろん地面の血痕を消すのは忘れずにしておいた。
分離思考に加え、思考加速を展開。すれ違う人々の会話を聞いて、単語を抽出、文法を解析していく。しばらく歩いて情報収集してみると、主語の省略が生じるような言語体系のようだと予測することができた。
その後も人の多いところへと選択的に歩いて行っていると、開けた場所へたどり着いた。公園のようだな。
非常に幅広く、そして多くの人々が憩う。これは好都合な場所だな。しっかりと言語を学ばせてもらうとしよう。
聴力を強化しながら公園内を歩いていると、私の方を見てギョッとした後、何やらぼそぼそと話しているのが分かる。…ああ、もしかしてこの髪のせいだろうか。何ヶ月伸ばしたのかと考える無造作ヘアだからな。いや、それだけではないのか?服装の系統の相違…服のボロボロ具合。もしや、髪と合わせて浮浪者のように見られている可能性もあるな。取りあえず髪は後で切るとしよう。
今は言語習得に専念しなければ。あまり歩き回るのは得策ではないようなので、そこらのベンチにでも座ることにした。これで聴力強化のレベルをもう少し上げれば…よし、これで良かろう。
それにしても、文法が難解で語彙数もなかなか豊富なようだ。特に婦人達はよく喋るな。これはどこの世も変わらないらしい。
約2時間近くはそうしていただろうか。その間に幻術を使用しながら鬱陶しい髪を切りそろえたりしつつ、言語習得に励んだ。もうそろそろ日常会話ぐらいはこなせるのではないか、と思われる程度までにはなった。しかしながら、この公園で聞いた言葉にはやたらとスラングが多かったようなのだが。まあ、主婦同士の会話なんかは得てしてそうなるものなのだろうか。
時刻も昼を大きく過ぎたようで、日差しも先程より弱くなったように感じる。
…そういえば、この星の自転周期はいかほどの物なのだろうか。気になったきた。見た限りあちらこちらに高度な技術が運用されているらしいのを感じるため、技術水準は相当に高いものなのだろう。もしかしたら公転周期がすでに明確になっているかもしれない。どうにかして調べたいものだ。文字は読めないが、願わくば書籍に触れたい。ああ、この星の書籍はどんな知識が詰まったものなのだろうか。今からそわそわしてきてしまう。
よし、では移動するとしようか。書籍の多い場所を探知すると、数百メートル圏内に2件ほど見つかった。より多くの書籍が置いてある方へと向かう。
周囲の建造物の高さには目を見張るものがあるが、ここもなかなか巨大な建造物だな。単なる技術のみでこれらを作り上げたことを考えると、魔術がないというのも決して悪いことではないのかもしれないと考えさせられる。さて、感慨にふけるのもほどほどにして、内部に入るとするか。む、これは…戸が自動で開くのか。動力源が気になるところだな。それに、この戸や建物に使われているガラスの透明度は素晴らしいな。しかもそれを大量に生産できるとは。それはさておき、書籍の反応は上にあるな。どこか階段を……!?何だあれは、階段が床からせり出してくるだと。近くに寄って観察せねば。ああ、なるほど。階段の床板がループするような構造になっているのだな。しかし、動く階段とは発想になかったな。なんとも柔軟さがうかがえる。おお、これは楽だな。老体に優しい…おっと、もう老体ではないのだった。
さて、2階ほど登ったあたりでお目当ての階へと着いたらしい。動く階段が昇りきると、そこには楽園があった。
本、本、本。本の山だ。知識の集約された場所。周りには服やバッグなどが置かれている施設も多いが、そんなものよりこちらは比べるべくもない価値がある。ん?今更だがここは、もしかして店の集まりなのか。一つの建物の中にいくつもの店が集結しているとは…。面白い。しかし、一つ気になるのは…ここの書店は試しに読むという事は可能なのだろうか。あちらでは、初めて訪れる客に試し読みを許す書店は皆無だった。しばらく通い詰めて、店主とぼちぼち話すようになってから試し読みを願い出る、というのが一般的というか…私の中の普通だったのだ。
そんな私の不安は杞憂に終わったようだ。店内にはあちらこちらに本を試し読みというか、立ち読みをしている人々が見うけられる。店員も咎める様子がないことから、ある程度なら許されるという事なのだろう。さて、そうと分かれば一度店内をぐるりと回ってみようか。
興味深い。大変興味深い。ここは本当に書店なのだろうか。そんな疑問すら浮かんでしまう。というのも、本棚や壁に絵や文字の載った張り紙などがしてあるためだ。これほどに色鮮やかに彩られた書店を私は未だかつて見たことがない。これは必ずしも知識人のみが出入りをしているわけでは無いという事なのだろうか。これであれば、老若を問わず入りやすい。実際、年若い客も多いようだしな。
さて、考察も良いが、そろそろ何か読むものを……ここは…?
なんというか、やたらと可愛らしい空間だ。玩具のようなものすら置いてある。このコーナーは…?謎だ。疑問を抱えながらも、私は近くにあった玩具?の一つに触ってみる。するとどうしたことか。音がした。いや、音というより言葉か。押した場所には何やら文字が書かれている。押していくと、一音ずつが聞こえてくるのだ。面白くなってきた私は、片っ端から文字の上を押していった。
そうすると分かってきたことがあった。縦の列は子音が共通し、横の列は母音が共通している。つまりこれは……私のように異なる世界などから来た者へ言葉を教えるための道具なのか……!?
この星は既にそのような現象を観測し、一般的な書店にまでその教材を置くほどに浸透している…そういう事か。
私は愕然とした。そして圧倒的な世界間格差に絶望した。……すると、どういうわけか嘲るような雰囲気で分離思考が語り掛けてて来る。
え?小さな子供用の知育教材だろうって?ああ、ああ……うん。そうだな。私もな、これの右上に居る丸顔のキャラクターが子供向けだな、とは思っていたのだよ。深読みをしすぎたらしいな。
こういう時に分離思考は役に立つ。私よりも知識に対する渇望を低くなるように設定しているために、冷静というか一線引いた位置から物事を見られるという良い点があるのだ。
まあそれはともかく。折角なのでこの場所で言語と文字を学んでいくとするか。今の私は赤ん坊に毛が生えた程度の知識量しか有していないからな。
お読みいただきありがとうございます。
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