第5話:断絶の片鱗
時間が、止まったように感じられた。
迫りくる影狼の顎顎。鋭い牙が、私の喉笛を突き破るまであと数インチ。
勇者の叫び声が遠くで響いている。けれど、私の耳に届くのは、もっと別の音だ。
――キィィィィン、と。
耳鳴りのような、空間が震える音。
私の手には、大岩の呼吸を読んでいた細い枝。
私はそれを、ただ「置いた」。
狼を倒そうなんて思わなかった。ただ、牙の届く軌道の先にある空気が、酷く澱んで見えた。その「澱み」を、指先で少しだけ横に逸らしたのだ。
その瞬間。
私の手元で、小さな「空間の揺らぎ」が爆ぜた。
パキィィン! とガラスが割れるような乾いた音が響く。
影狼の牙は、私の数センチ手前で、まるで目に見えない壁に弾かれたように軌道を逸らされた。狼は空中でバランスを崩し、無様に地面を転がる。
「……ッ!」
その隙を、勇者は逃さなかった。
ゴゥっと彼が放った鋭い剣戟の風圧に、残りの狼たちは死の恐怖を感じたのか、キャンと鳴いて一斉に森の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った草原で、私は自分の手元を見た。
持っていた枝は、今の衝撃に耐えきれず、粉々に砕けていた。
「ミカ! 無事かい!」
駆け寄ってきた勇者が、私の肩を強く掴む。その手は、微かに震えていた。
「……今の、君がやったのか?」
「わからない。ただ、あそこが歪んで見えたから……。そこに枝を当てただけ。」
勇者は絶句した。
彼は知っている。今のは単なる防御ではない。空間そのものに干渉し、その理を一時的に歪ませる技術――彼が神から授かった『次元斬』の、あまりに未熟で、けれど純粋な「核」そのものだったからだ。
勇者はふっと短く息を吐き、膝をついて私と視線を合わせた。
そこには賢者然とした穏やかさと、一人の武人としての、畏怖にも似た情熱がこもっていた。
「……驚いたな。君は、僕が何年もかけてようやく理解した『世界の形』を、もう見つけてしまったんだね」
彼は泥で汚れた私の小さな手を、温かな両手で包み込んだ。
「ミカ。君のその力は、磨かなければ自分を傷つける刃になる。……どうだい、その力を制御する方法を、私と一緒に探してみないか?」
「……。練習すれば、今の、もっと上手くできる?」
「ああ。君なら、私が見ている景色よりも、もっと先へ行けるかもしれない」
勇者の瞳の奥で、かつての英雄の火が再燃したのがわかった。
彼はもう、私を「暇つぶしに相手する子供」としては見ていない。
「……うん。よろしく、師匠師匠」
この日、伝説の『次元斬』が、神の手から人間の手へと引き渡されるための、長い物語が始まった。
朝露に濡れた草原で、新しい師弟の絆が生まれた瞬間だった。




