第107話 ラッシーの育児日記
「うるさいよ、当主! 私に話しかけるなってコウに忠告されてたでしょ!」
「あ、うん……話しかけてはないけど」
「言い訳はいいから! 静かにしてよね!」
「それは気をつける、けど……」
ちらっと、織斗が凛の足元に目をやる。
「パソコン……いいのか?」
「はぁ? パソコン? 今そんなこと……」
織斗の目線を追った凛は、自分のパソコンが水中に沈んでいるのに気がついた。
怒りの表情が、困惑のそれに変わる。
「えっ? あれっ? どうしてこんなことに……当主!」
「俺のせいじゃねーだろ! 自分で叩きつけてただろ!」
「知らないっ、覚えてない!」
「都合いいこと言ってんじゃねーよ!」
「防水……防水機能つけてなかった! 当主!」
「だから、俺に突っかかるなって!」
言い争い騒ぎ立てる織斗と凛。
突然の喧嘩についていけず、唖然と二人を見つめる咲と后。
はっと、咲が我に返ってしゃがみ込んで床に手を当てる。
「えっと、とりあえず、水……取り除いておこうか?」
咲の一言でそこに視線が集まる。咲の手元から徐々に水がなくなり、やがて足首まであった水溜りが全て消えて床が乾いた状態に戻った。
「こ、これで……大丈夫、かな?」
「大丈夫、ではないですよね?」
咲自身、動揺していた。
同じように震えた声の后が、咲の言葉に重ねるように言う。
「パソコン、壊れましたよね……リンちゃん、もしかしてこれ、やばい?」
「……大丈夫! もう一台あるから!」
わたわたと忙しい様子で、担いでいたリュックの中から新しいパソコンを取り出す凛。
よし、とばかりに電源ボタンを押すが、画面は暗いまま動かない。
「おい、凛……」
「違う、違うからっ! 壊れてるわけじゃない」
しかし押しても叩いても反応はない。
さぁーっと、凛の顔から血の気が引いて行く。
「電源切れてる……充電も、バッテリーやばいと思ったけど眠くて。予備のやつもギリギリで……」
「じゃあおまえ、使えないパソコン担いでここまで来たの? 無駄じゃね? 重かっただろ?」
「馬鹿にしないでよ、当主! 愛があれば重さなんて関係ないんだから!」
「愛と物理的な質量は関係ないだろ。つーかこれ、やばい状況?」
織斗の問いに、返事する者はいなかった。
笑みを貼りつけていた后でさえ、表情を消して立ちすくんでいる、状況。
「パ、パソコンさえあれば! こ、コウ!」
ぱっと、織斗から手を離した凛が后に向き直る。
急に話を振られ、后の肩がびくっと跳ねる。
「コウのパソコン貸してよ! 私のよりもすごい機能が……」
「僕のパソコン、上に置いてきてる……上っていうか、地上の部屋に」
「とってきて! まだ時間あるでしょ?」
「時間は……え? あと二十分しかないよ? それ以前に僕ら、ここから出れないし」
「出れない?」
「オートロックっていうか、一度入ったら、中からは出れないように仕掛けしてるんだよね、この部屋」
「はぁぁ! まじかよ!」
声を上げたのは織斗だった。出入り口に向かい扉を確認する織斗だが、ドアノブがついていないそれは押してもびくともしないし、引こうにも無理な状態だった。
「これ、もしかしてスライド式?」
「そんなわけないでしょ……外から押して入るか遠隔操作して開けるか、それしか手はないです」
「外から? じゃあ誰かに連絡……」
「織斗くん、スマホ、持ってきてる?」
「いや……」
「私も。連絡なら凛ちゃんの通信機でいいかと思って」
「……凛、おまえの……」
「スマホとかアイフォンとか、そんなダサいもの持ち歩くわけないでしょ、この私が!」
「パソコン持ち歩く方がよっぽどダサいだろ!」
「やばい……つんだ……つみましたね、これ! 終わりですよ! あは、あはははっ!」
突然、后が声を上げて笑い出した。先ほどから后の様子を見ていた織斗と咲は特段反応することはなく、凛だけが驚いて后を見つめる。
「なに? コウどうしたの?」
「終わりだよ、リンちゃん! 僕らみんなここで終わり、まるでゲームだ! 僕が潰したゲーム! 勝てないんだよ、主人公は! ラスボスまでたどり着けない、中ボスにやられちゃうんだ!」
「中ボス?」
「五年前にリリースされたゲームだよ! いくら頑張っても主人公は中ボスに勝てない、負けのループに入っちゃうんだ! 頑張れば頑張るほど神経がすり減って、最後にはウイルスに感染しちゃう! ユーザーも開発者も幸せになれない、万人を不幸にするゲーム!」
「それ、倒産した会社の……なんで今、コウがそんなこと……」
「僕が立案したからだよ、あのゲーム! リメイクして世間に公表したのは父さんだけどね!」
「父さん? ……え、でも子どもの名前はキサキって……」
「あぁ、それ僕の名前の漢字の読み方! そっか、画面ではコウってカタカナで伝えてたね。僕の名前、皇后とか王妃のキサキって書いて后って読みます! あ、最初に話した時に伝えてたよね、これ!」
相変わらず捲し立てるような早口で、高笑い混じりに話す后。
凛はコウの漢字を后に結びつけ、最初に話した時……后との初めての会話を思い出した。
「あ……あぁぁああ!」
突然の凛の叫び声に、織斗、咲、后の肩が跳ねる。
「え、待って……キサキ! コウってキサキ? あのキサキ? え、ラッシーさんの子どもの?」
「ラッシー?」
言葉を繰り返したのは后だけじゃない。
織斗も「ラッシー?」と疑問符を浮かべた声を出し、咲は「ラッシー」と小さく呟いて顔を隠すように下を向いた。
「知らないの? 育児とゲーム開発のブログ書いてた人だよ、ラッシーの育児日記! 知らないの?」
「ラッシーの、育児日記?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる后と織斗。咲は我慢できず、口元を押さえて俯いたまま凛たちから顔を背けた。
咲の様子に気づいた織斗が、小声で咲に声をかける。
「そんな面白いことじゃないだろ」
「ごめん……私的にはちょっと……」
「咲って笑いのポイント変だよな」
「ふふっ、ごめ……」
変に声をかけないほうが良いと判断した織斗が、凛と后のほうに向き直る。
パソコンを床に置いた凛が、后のいるステージに駆けて向かっていた。
「小さい会社のプログラマーでしょ? 知る人ぞ知る天才で、私たち下々にも時々、簡単なゲーム与えてくれてたの!」
「下々って……」
「神と崇められてたからね、ラッシー! じゃあ、コウってラッシーの子ども?」
「いや……僕は、ラッシーなんて生き物からは、生まれてない」
后の返答に、咲が耐え切れず「ふふふっ」と笑声を漏らした。
織斗は咲を一瞥し、凛と后に向き直る。
「咲、空気読めよ?」
「ごめ、わかってる……」
「気持ちはわかるけどさぁ。ラッシーの育児日記って、全力で笑かしに来てるよな」
「ちょ、織斗くんやめて……ふ、っふふ」
織斗の肩に顔を埋め、咲が笑いを堪える。
ちょこんとぶつかる鼻が可愛いと思ったが、それよりも……と、織斗は凛と后を見る。




