第17話「編」
引っ越した。
椎名が手配した物件は、都内のマンションの一室だった。築浅。ワンルームじゃなくて1LDK。駅から徒歩五分。前の部屋の倍以上の広さがあった。家賃は政府持ち。家具付き。冷蔵庫に何も入っていない以外は、すぐ住める状態だった。
「あくまで業務用の滞在施設という扱いです」と椎名は言った。「佐倉さん個人への供与ではなく、調査に必要な拠点の確保として予算を通しています」
前の部屋から持ってきたものは少なかった。衣類。ウエストポーチ。サンプルキット。LEDライト。メモ帳。拓海の財布。森塚の手袋の切れ端。
新しいテーブルの上に、財布と手袋を並べた。引っ越しても、この二つの位置は変わらない。
園田が引っ越しを手伝ってくれた。段ボール三箱。「少なっ」と園田が言った。「生活感がない」
「もともとなかった」
「佐倉さんって、ご飯ちゃんと食べてます?」
「食べてる」
「何を」
「コンビニの——」
「だめです。ちょっと待っててください」
園田が近くのスーパーに消えて、二十分後に袋二つ分の食材を持って帰ってきた。台所に立って、手際よく肉野菜炒めを作った。
「料理できるんですか」
「学部四年から一人暮らしですよ。六年やれば誰でもできます」
食べた。味がした。コンビニのおにぎりではない、ちゃんとした味がした。
拓海のビールを思い出した。拓海と最後に食った生姜焼き定食を思い出した。あれ以来、誰かが作った飯をまともに食ったのは初めてだった。
「……うまいです」
「当たり前です」
園田が向かいの椅子に座って、自分の分を食べていた。小さい体で、大きい箸を持って、黙々と食べていた。
引っ越しから三日後、椎名から連絡が来た。
「佐倉さん。園田さんと一緒に来ていただけますか。お話ししたいことがあります」
場所は霞が関ではなかった。都内の、外から見たらただの雑居ビルにしか見えない建物。地下一階。会議室。窓がない。
椎名が待っていた。今回は課長補佐はいなかった。代わりに、もう一人。
三十代後半の男。体格がいい。短い髪。日焼けした肌。スーツを着ているが、着慣れていない感じがした。首と手が太い。この人は椅子に座っているのが似合わない。外で何かをする人間の体だった。
「紹介します。防衛省から来ていただいた高梨二佐です」
二佐。自衛隊。
高梨が立ち上がって、頭を下げた。名刺は出さなかった。
「高梨です。よろしくお願いします」
声が低かった。拓海を思い出した。拓海もこういう声だった。体がでかくて声が低い人間は、どこか似る。
——ロープの話だ。
座った。四人。椎名、高梨、園田、俺。
「本題に入ります」と椎名が言った。「佐倉さんのケースを正式な調査案件として立ち上げることが、関係部署間で合意されました。名称は未定ですが、内部的には『S案件』と呼称します」
S案件。
「調査の基本方針は三つ。一、あちら側の環境データの収集。二、あちら側の生態系の解明。三、人員の安全確保」
「三番目が最も重要です」と椎名が付け加えた。
高梨が口を開いた。
「佐倉さん。一つ確認させてください。あなたの手を握っている人間だけが同行できる、と聞いています」
「はい」
「両手で、最大何人ですか」
考えた。片手で一人。両手で二人。でも、もし手を握った人がさらに別の人間の手を握っていたら——わからない。試したことがない。
「確実なのは両手で二人です。それ以上は試したことがないのでわかりません」
「仮に、手を握った人間がさらに別の人間と接触していた場合は」
「わかりません。試してないので。でも——」
拓海のことを思い出した。拓海が俺の手を握っていた。拓海はもう片方の手でビールの缶を持っていた。缶は向こうに行かなかった。拓海が触れていたものが全部行くわけじゃない。
「物は全部が行くわけじゃないです。拓海——兄が缶を持っていましたが、缶は行きませんでした。人間だけが行くのか、それとも何か条件があるのか。わかりません」
高梨が頷いた。
「では当面、佐倉さんの両手で二名。佐倉さんを含めて最大三名で行動する前提で計画します」
三名。たったの三名。
「人選の話をします」と椎名が言った。「高梨二佐のチームから、志願者を募ります。全員に、リスクの内容を開示した上で」
「リスクの内容」
「死亡する可能性が高い、ということです。過去二名の同行者が死亡している事実を含めて」
高梨が俺を見た。
「佐倉さん。同行者が二名亡くなったと聞いています。——差し支えなければ、どういう状況だったか、直接教えていただけますか」
話した。五回目。拓海が地面に飲まれたこと。森塚が空から持ち去られたこと。手を繋いでいても引き剥がされたこと。ロープが切れたこと。防護服があっても大気で体がやられること。
高梨は黙って聞いていた。表情が変わらなかった。椎名と同じだ。この手の人間は異常なことを聞いても顔を変えない。
「装備について、いくつか提案があります」
高梨がファイルを開いた。中に写真と仕様書があった。
「自給式呼吸器。空気ボンベを背負って、外部の大気を一切吸わない。重量約十五キロ。行動時間は三十分。——森塚教授が使用された防毒マスクではフィルターが飽和するとのことでしたので」
十五キロ。重い。でも、あの空気を吸わなくて済む。
「それから、ケブラー繊維の防護服。刃物や衝撃に対する耐性がある。通常の防護服より機動力が落ちますが、あちら側の物理的な脅威を考慮すると」
「拓海を飲み込んだ地面には効きますか」
「効きません。あれは物理的な攻撃ではなく、化学的——あるいは生物的な浸食です。防護服では防げない」
正直だった。効かないものは効かないとはっきり言う。この人間は嘘をつかない。
「ただし、飛翔体の把持からの防御には効果があるかもしれません。爪や歯に対するある程度の耐性は期待できます」
森塚のロープはちぎれた。ケブラーならどうか。わからない。でもないよりはましだ。森塚の口癖だ。ないよりはましです。
「高梨さん」
「はい」
「一つだけ。志願者には、ちゃんと伝えてください。装備があっても死にます。防護服があっても死にます。ロープで繋いでも死にます。手を握っていても引き剥がされます。——あの世界は、人間の対策が通用しない場所です」
高梨が俺の目を見た。
「伝えます。その上で志願した者だけを連れてきます」
会議が終わった。
帰り道、園田と並んで歩いた。園田が黙っていた。いつもなら何か言う。今日は黙っていた。
「園田さん」
「……はい」
「何か」
「高梨さんの部下が行くんですよね。あの世界に」
「そうなる」
「私じゃなくて」
やっぱりそう来た。
「園田さんは行かない」
「……わかってます。わかってますけど」
園田が立ち止まった。トートバッグの紐を両手で握っていた。
「私が行かなくても、誰かが行く。誰かが死ぬかもしれない。私の代わりに。——それって、私が行くのと何が違うんですか」
「園田さんが死んだら、森塚先生のデータを引き継ぐ人間がいなくなる」
「それは——」
「理由をつけてるだけです。本当の理由は、もう目の前で人が死ぬのを見たくない。それだけです」
言ってしまった。本当のことを。
園田が俺を見上げた。百五十センチ。眼鏡の奥の目が潤んでいた。
「……ずるいですよ、それ」
「ずるくていいです」
園田が歩き出した。俺も歩いた。並んで。園田の歩幅に合わせて。
家に帰った。新しい部屋。テーブルの上に拓海の財布と森塚の手袋。
「探索チームが編成される。自衛隊が来る。装備も変わる。でも——」
声に出して言った。二人に。
「また、死ぬかもしれない。装備がいくら良くなっても。あそこは変わらない」
返事はなかった。
靴を脱いだ。靴紐を解いた。風呂に入って、足の裏を見た。痕はまだあった。消えない。たぶんもう消えない。
この痕がある限り、俺はあの世界と繋がっている。
これがある限り、終わらない。




