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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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三つの帆

翌朝 旗艦「エイカ」 艦橋


夜のうちに、アルセナは決めていた。


悪い報せの共有は、朝がいい。夜に共有された悪い報せは、一晩かけて、受け取った者の中で膨らむ。朝なら、その日の仕事が、すぐに報せの隣に並ぶ。仕事の隣に置かれた報せは、実物より大きくならない。


だから、朝いちばんの艦橋で、アルセナは、要点から話した。


「本国から、使節団が出た。船三隻。長は評議会直属の監察官。到着は二つの月の後。分かっているのは、そこまでだ。目的の詳細、人員の内訳、到着後の予定——いずれも、文面にない」


アルセナは、約束通り、分かっていることと分かっていないことの間に線を引いて、ドラフォに渡した。


ドラフォは、黙って聞いた。聞き終えてから、最初に言ったのは、アルセナの予想と、少し違うことだった。


「日本側に、伝えるべきだ」


アルセナは、ドラフォを見た。


「理由を聞こう」


「単純な話だ」ドラフォは言った。「二つの月の後、この海域に、未通告の船が三隻現れる。向こうの監視は、それを必ず捉える。あの朝、向こうは、正体不明の艦隊を水平線に見た。あの朝の光景を、もう一度、向こうに見せるのか。今度は、説明できる立場にいながら」


軍人の論理だった。そして、正しかった。


「未通告の艦影は、それだけで敵意に数えられる。海では、昔からそうだ。せっかく積んだものを、通告一つを惜しんで削る理由がない」


「同感だ」アルセナは言った。「実のところ、私も同じ結論だった。ただ、指揮官の口からその言葉が出たことを、記録に残したい気分だ。——問題は、どこまで伝えるかだ」


「全部は、伝えられまい」


「伝えられない。監察、という目的は、こちらの内側のことだ。暫定の件と、同じ側にある。向こうに背負わせる話ではない」


アルセナは、少し考えてから、線を引いた。


「伝えるのは、三つ。船が三隻来ること。私たちの本国からであること。時期。——目的を聞かれたら、確認の使節、と答える。嘘ではない。詳細を言わないだけだ」


「それで、向こうは納得するか」


「納得はしないだろう」アルセナは言った。「向こうには、白瀬という分析官がいる。レイスの報告に、何度か名前が出てきた。言葉の少ない報告から、多くを読む人間らしい。確認の使節、という言葉の硬さは、たぶん、読まれる。——それでいい。読まれることまで、計算に入れて伝える。隠していないが、全部は言っていない。その形が、正確に伝わるのが、いちばん誠実だ」


ドラフォは、頷いた。それから、海図台に歩み寄った。


「三隻の停泊位置も、今のうちに決めておく。艦隊の内側に入れるか、外側に置くか」


「指揮官の考えは」


「外側だ」ドラフォは、海図の一点を指した。「艦隊の隊列は、二年近くかけて、この形に落ち着いた。どの艦がどこにいるか、向こうの監視も、もう覚えている。隊列は、言葉と同じだ。いつも通りの隊列は、いつも通りの意思を伝える。三隻を内側に入れて隊列を崩せば、向こうの監視には、艦隊の性格が変わったように見える」


「隊列は、言葉と同じ、か」アルセナは、その言い方を、胸に留めた。「外側に置こう。本国が何か言えば、私が説明する。錨地の采配は、現地指揮官の専権だ」


「専権だ」ドラフォは、短く同意した。錨地の采配は現地指揮官の専権——つまり、三隻の置き場所について本国が何か言ってきたら、矢面に立つのは自分だ、とこの指揮官は言っていた。盾は私が持つ、という意味の言葉を、この人は、いつも規則の言葉で言う。


レナが、記録の手を止めて、聞いた。


「レイスへの指示は、どのように」


「文書で送る。伝える三点と、目的を問われたときの答え。一語ずつ、正確に書く」アルセナは言った。「今回は、裁量を残さない。裁量は、信頼の証だが、同時に、責任の移転でもある。この件で足場の悪い場所に立つのは、一人でいい。私が文面を決めれば、レイスは、決められた言葉を運んだだけになる。後で誰かに問われたとき、そう答えられるようにしておく」


────


三日後 ダーウィン基地 面会室


面会の前半は、いつも通り、言葉の作業だった。


今日の議題は、敬称だった。会談音声から見つかった、呼び方の使い分け。十六夜は、紙に系図のような図を描いて、確認を進めた。


「あなた。アルセナ。呼ぶ。とき」十六夜は、会談音声から書き取った音節を、そのまま発音した。「この音。何。カ」


レイスは、少し考えた。それから、説明を組み立てた。


「高い。人。呼ぶ。音」


高い人を呼ぶ音。敬称だ。そこまでは、仮説の通りだった。だが、レイスは、続けた。


「アルセナ。高い。家。生まれ」


高い家の生まれ。


十六夜は、ペンを止めた。アルセナは、身分の高い家の出身だという。会談で向かい合った、あの静かな人の背景が、一つ、開示された。


「古い。家」レイスは続けた。「海の。古い。家。でも——」


そこで、レイスは、言葉を選んだ。選んでいる時間が、いつもより長かった。


「アルセナ。家。使わない。仕事。使う」


アルセナは、家を使わない。仕事を使う。


家柄で立つのではなく、仕事で立つ人だ。レイスの言いたいことは、片言を越えて、正確に届いた。十六夜は、その一文を記録しながら、会談の日のアルセナを思い出していた。肩書のない名乗り。手順の外の、ありがとう。あの人の立ち方の根が、今日、少しだけ見えた。


言語の調査が、いつの間にか、人の調査になっている。十六夜は、記録を取りながら、この仕事の性質を、あらためて思った。敬称を調べれば、組織が見える。組織を調べれば、人が見える。言葉の解析の行き着く先は、いつも、人だった。


────


その日のレイスは、しかし、いつもと、どこかが違った。


十六夜は、面会の始まりから、それに気づいていた。言葉が違うのではない。速さも、丁寧さも、いつも通りだった。違うのは、もっと細かいところだった。話し始める前の、間の取り方。視線の置き場所。何かを、順番に、慎重に運んでいる者の気配。


議題を一つ終えたところで、レイスは、姿勢を正した。


「伝える。こと。ある」


十六夜も、姿勢を正した。


「三つの。船。来る。私たちの。本国。から」


十六夜は、一語ずつ、確認しながら受け取った。三つの船。本国から。


「いつ。カ」


「二つの月。後」


二つの月の後。ミゼンの次の往来と、同じ時期。


「なぜ。カ」十六夜は聞いた。聞くべき質問だった。聞かないほうが、不自然だった。


レイスは、少しだけ、間を置いた。その間は、言葉を探す間ではなかった。用意してきた言葉を、正確に置くための間だった。


「確認。私たちの。仕事。見る。ため」


確認。仕事を見るため。


十六夜は、それ以上、聞かなかった。


確認、という言葉の周りに、まだ言葉にされていないものがあることは、分かった。分かった上で、聞かなかった。レイスが用意してきたのは、ここまでの言葉だ。用意された言葉の先を聞き出すことは、できるかもしれない。だが、それをすれば、この面会室の何かが、変わってしまう。この部屋は、尋問の部屋ではない。あの朝からずっと、そうだった。


「分かった」十六夜は言った。「伝える。私たちの。上に」


「ありがとう」レイスは言った。それから、少しだけ、付け足した。「船。三つ。来る。でも。私たち。変わらない。往来。続く。言葉。続く」


船は来る。だが、私たちは変わらない。往来は続く。言葉は続く。


その付け足しは、指示された言葉ではない、と十六夜は感じた。レイスが、自分の判断で置いた言葉だった。置かずにいられなかった言葉、のように聞こえた。


面会が終わって、レイスが退室するとき、十六夜は、いつも通りの別れの言葉を交わした。いつも通りに、少しだけ丁寧に。今日のレイスには、いつも通りが、いちばんの労いになる気がした。


────


同日 午後 基地司令部


「三隻、来ます」


十六夜の報告を、赤城は最後まで聞いた。三つの船。本国から。二つの月の後。確認の使節。


「確認の使節、か」赤城は言った。「お前は、どう聞いた」


「言葉としては、それだけです。ただ——」十六夜は、面会室での細部を、順番に言葉にした。「レイスは、今日の伝達を、一語ずつ用意してきていました。あの人は、いつも誠実ですが、いつもは、その場で言葉を組み立てます。今日は違った。決められた文面を、正確に運んでいました。つまり、上から、一語ずつ指定された伝達だったと思います」


「文面を指定される種類の伝達、ということか」


「はい。それから、最後の付け足しだけは、指定の外でした。私たちは変わらない。往来は続く。言葉は続く。——あれは、レイス自身の言葉です。指定された言葉と、自分の言葉。両方を、同じ面会の中で聞きました」


赤城は、しばらく黙って考えた。


「指定された硬い言葉と、指定の外の柔らかい言葉。二つ並べると、どう読める」


「向こうの内側で、何かが硬くなっている。でも、現場は、続けるつもりでいる。——そう読めます」


「官邸の分析と、突き合わせよう」赤城は言った。「お前の耳は、機械の解析が拾わないものを拾う。細部まで、全部書いておけ」


────


同日 夕方 官邸へ向かう車中


白瀬は、報告書の写しを、車の中で二度読んだ。


一度目は、分析官として。情報の要素を分解し、既知の枠組みに当てはめ、矛盾を探した。矛盾は、なかった。


二度目は、ただの読み手として。三隻の報せと、往来は続く、言葉は続く、という付け足しを、届いた順に読んだ。二度目の読み方の方が、多くのものが見えた。分解した要素には、順番がない。だが、届いた言葉には、順番がある。硬い言葉を先に置き、柔らかい言葉を後に置いた。その順番自体が、向こうの現場からの通信文だった。


窓の外を、夕方の街が流れていった。あの朝から、街は何も変わっていないように見える。この街の誰も、二つの月の後に三つの帆が来ることを、まだ知らない。知らないまま、いつも通りの夕方を過ごしている。


いつも通り、を守る仕事だ、と白瀬は思った。この街の、いつも通りを。


────


同日 官邸地下 夜


「向こうの本国から、船が三隻、来ます。到着は二つの月の後。目的は、確認の使節、との説明です」


藤堂の報告を、部屋は静かに受け取った。


「確認の使節」黒崎が繰り返した。「硬い言葉だな」


「はい。硬い言葉です」白瀬が言った。「ただ、今夜いちばん重要なのは、言葉の硬さではありません。この情報が、向こうから、事前に、自発的に伝えられたという事実です」


白瀬は、いつもより、少しだけ言葉を強くした。


「考えてみてください。伝えない、という選択が、向こうにはあり得ました。二つの月の後、三隻が現れてから、説明することもできた。ですが、向こうは、二つの月前に、伝えてきました。あの朝、正体不明の艦影がどれほどの緊張を生んだか、向こうは知っています。同じことを繰り返させないために、先に言った。これは、信頼の実務です。儀礼の水と、同じ種類のものです」


「では、懸念はないと」


「懸念は、あります」白瀬は、正直に言った。「確認の使節、という言葉は、それ以上を言わないための言葉です。向こうは、隠してはいませんが、全部は言っていません。そして、たぶん、全部は言えない事情がある。以前申し上げた、向こうの内側の揺れ——それが、初めて、見える形を取ったのだと思います」


「体制が変わった国の、確認の使節、か」黒崎は言った。「こちらは、どうする」


「何もしません」白瀬は言った。「詮索しない。いつも通りを続ける。往来も、面会も、言葉の積み上げも。——ただし、二つの月後の海域監視は、静かに厚くします。三隻を、驚かずに迎えるためです。驚かないでおく備えを、二つの月かけて、整えます」


吾妻が、補足した。


「監視強化は、向こうに見えない形で行います。哨戒の頻度は変えず、観測の精度だけを上げる。三隻の航跡は、おそらく艦隊の来た航路をなぞって来ます。早ければ到着の十日前には、水平線の向こうで捉えられるはずです」


「捉えたら、どうする」


「何もしません」吾妻も、白瀬と同じ言葉を使った。「通告された船が、通告された通りに来る。それを、確認するだけです。確認して、驚かない。それが、今回のこちらの仕事の全部です」


「もう一点だけ」白瀬が言った。「今日の報告に、興味深い情報が一つありました。向こうの代表——アルセナは、身分の高い古い家の生まれだそうです。ただし、家を使わず、仕事を使う人だ、と。補佐官が、自分の言葉でそう説明したそうです」


「それが、何を意味する」


「二つあります」白瀬は言った。「一つ。部下が上司をそう語れる関係が、向こうの現場にはある。以前の、良い人、という報告と一致します。二つ。高い家の生まれ、という事実と、確認の使節、という言葉を並べると——向こうの新しい体制にとって、古い家の生まれの成功者は、単純に喜べる存在ではないかもしれません。これは、推測です。推測ですが、頭の隅に置いておく価値はあります」


部屋が、少しだけ静かになった。


「了解だ。急ぐな。だが止まるな」


────


同日 夜 ダーウィン基地 滞在区画


滞在区画は、静かだった。


ミゼンは、往来で艦隊に渡っている。二人分の生活音があった区画に、今は、一人分の音しかない。ミゼンがいた頃は気づかなかったが、あの人は、いるだけで、部屋の空気を柔らかくしていた。教わる者と教える者が、同じ屋根の下で入れ替わり続ける。その営みの音が、この区画の音だった。


今夜は、その音がない。


レイスは、窓辺に座っていた。


伝えるべきことは、伝えた。正確に、指示の通りに。三つの船。本国から。二つの月の後。確認のため。


一語も、嘘はなかった。


指示の文面は、殿下が一語ずつ書いたものだった。裁量を残さない書き方だった。最初にそれを読んだとき、レイスは、信頼されていないのかと、一瞬だけ思った。すぐに、逆だと分かった。裁量がなければ、責任もない。足場の悪い場所に立つのは一人でいい、と殿下は決めたのだ。守られている、ということだった。守られていると分かる守り方をしないのが、あの方の守り方だった。


それなのに、今日の面会は、これまでのどの面会よりも、疲れた。


嘘をつくことと、全部を言わないことの間には、線がある。その線の上に、今日、初めて立った。線の上は、思っていたより、足場が悪かった。イザヨイは、気づいていた。気づいた上で、それ以上、踏み込んでこなかった。あの人の礼儀は、いつも、踏み込まない形をしている。今日は、その礼儀に、助けられた。


窓の外に、夜の海があった。


この海の向こうから、二つの月の後、三つの帆が来る。監察官が、来る。殿下の任命を、審査するために。この海で積み上げられた全部を、本国の物差しで測り直すために。


レイスは、机の上の、自分のノートを開いた。イザヨイのノートを真似て、いつからか付け始めた記録だった。今日の頁に、ヴァルタの文字で、短く書いた。


伝えた。往来は続く。言葉は続く。


それから、少しの間、ペンを止めて、もう一行、足した。


続く、と、私が言った。誰の指示でもなく。


その一行を書いたことで、今日の疲れの、いちばん深いところが、少しだけ軽くなった。指示の言葉を運ぶだけの日に、一つだけ、自分の言葉を置いた。通訳でも、補佐官でもなく、レイスとして。


二つの月。


その間、往来を続けるのも、言葉を続けるのも、自分たちだ。三つの帆が何を運んでこようと、続いた日々の厚みだけは、もう、誰にも削れない。


ノートを閉じる前に、レイスは、今日のもう一つの頁を、読み返した。面会の前半の記録だった。敬称の説明。アルセナ。高い家の生まれ。家を使わない。仕事を使う。


あの説明は、指示にはなかった。聞かれたから、答えた。答えながら、自分がどれだけ正確に答えようとしているかに、自分で驚いた。殿下のことを、向こうに正しく知ってほしかった。三つの帆の報せと同じ日に、あの人がどういう人かを、向こうの記録に残しておきたかった。


なぜだろう、と考えて、答えは、すぐに出た。


保険だ。


二つの月の後、何が起きるか、分からない。監察の結果、殿下の身に何が起きるか、分からない。だが、何が起きても、海の向こう側の記録には、残る。アルセナという人が、どういう人だったか。家ではなく、仕事で立った人だったと。イザヨイのノートに。白瀬という分析官の報告書に。向こうの言葉で、向こうの紙に。


本国の机の上の言葉は、書き換えられるかもしれない。だが、二つの文明に跨って残った記録は、どちらか片方の都合では、もう消せない。


そこまで考えて、レイスは、自分の考えの行き着いた先に、少し驚いた。万一に備えて、殿下の記録を相手の文明に残す。補佐官の仕事の範囲を、たぶん、越えている。だが、後悔はなかった。


そのために、明日も、面会室に行く。


レイスは、ノートを閉じて、灯りを消した。


窓の外の夜の海は、いつも通りに暗かった。その暗さのどこか遠くを、三つの帆が、こちらへ向かって進んでいる。夜の間も、帆は進む。止まらないのは、こちらの日々だけではなかった。

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