六日目
西暦××××年××月××日 ダーウィン基地 隔離区画 面会室 午前
返信を待つ日々の、一日目だった。
会談の正式な決定は、向こうの本国の承認を待つ。レイスの説明によれば、返信には少なくとも数日かかるという。あの朝の後、向こうの長距離の通信網は細くなっている。信号は届く。だが、時間がかかる。
待つ、と決めた瞬間に、時間の質が変わった。昨日までは、積み上げる時間だった。今日からは、待ちながら積み上げる時間だ。同じ作業をしていても、どこかに、そわそわとした底流がある。
だからこそ、と十六夜は思っていた。待つ時間にしかできない準備を、待つ時間のうちに終わらせておく。
今日の議題は、作法だった。会談が承認されたとき、すぐに動けるように。向こうの海の、会うための決まりを、今のうちに教わっておく。
「船。会う。とき。決まり。ある。カ」
十六夜は聞いた。船と船が会うとき、決まりはあるか。疑問の音節は、もう自然に口から出るようになっていた。
レイスとミゼンが、顔を見合わせた。それから、ミゼンが答えた。
「ある。昔から。決まり」
ミゼンは、机の上に、二隻の船を描いた。それから、指を折りながら、説明を始めた。
「人。同じ。数」
乗り込む人数は、双方同じにする。
「多い。駄目。怖い」
片方が多ければ、相手は怖れる。だから、同じ数。
十六夜は頷いた。理にかなっている。人数の対等は、場所の対等と同じ原則だ。
ミゼンは、指を三本立てた。それから、こちらを見た。
「三。多い。カ」
三人は多いか。逆に、質問が返ってきた。会談の人数の相談が、もう始まっていた。
「三。良い」十六夜は答えた。「私たちも。三。多分」
代表、通訳、記録。三人なら、こちらの想定とも合う。まだ正式な決定ではない。だが、現場の感触として、双方三人、という線が見えた。
十六夜は、確認のために、紙に三人の人物を描いた。一人目の上に、上を示す印を付けた。「上の人」。二人目を指して、自分を指した。「言葉の人」。三人目の横に、ノートの絵を描いた。「書く人」。
レイスが、身を乗り出して、絵を見た。それから頷いた。
「同じ。私たち。同じ」
向こうも、同じ構成だった。代表、言葉の係、そしてもう一人。レイスは三人目のところで、少し言葉を探した。それから言った。
「守る。人」
守る人。警護だ。書く人と守る人。三人目の役割だけが、双方で違っていた。
十六夜は、その違いを、そのまま記録した。違いを揃える必要はない。三人目を誰にするかは、それぞれの事情だ。大事なのは、数が同じであることと、違いを隠さないことだった。
「あなたたち。三人目。守る人。私たち。三人目。書く人。違う。でも。良い。カ」
「良い」レイスは、はっきりと答えた。「隠さない。良い」
隠さないことが、良い。片言の一往復に、この接触の全部の原則が、また入っていた。
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「もう一つ。大事な。決まり」
ミゼンが続けた。今日のミゼンは、よく喋った。自分の文明の作法を説明することが、嬉しいのかもしれなかった。
ミゼンは、机の上の水差しを指した。それから、自分の手のひらを椀の形にして、差し出す仕草をした。
「水。渡す。最初」
会談の最初に、水を渡す。
「水を、交換するんですか」十六夜は思わず日本語で言ってから、向こうの言語に直した。「水。私たち。渡す。あなたたち。渡す。両方。カ」
「両方」ミゼンは頷いた。「自分の。船の。水。相手に。渡す。相手。飲む」
自分の船の水を、相手に渡す。相手は、それを飲む。
十六夜は、その意味を考えた。答えは、聞く前に分かった気がした。海の上では、真水は命だ。限りある命の水を、相手に分ける。そして相手は、渡された水を、疑わずに飲む。
「水。命」ミゼンは言った。「水。分ける。命。分ける。同じ」
水を分けることは、命を分けることと同じ。
「毒。入れない。信じる。飲む。信じる。見せる」
毒を入れないことを信じて、飲む。信じていることを、見せる。
面会室が、静かになった。
十六夜は、ノートに書いた。水の交換。信頼を、目に見える形にする作法。何百年の海の上で磨かれてきた、命がけの儀礼。
「良い。決まり」十六夜は言った。心からの言葉だった。
ミゼンは、少しだけ、誇らしそうな顔をした。それから、遠くを見る目になった。
「私。子供。とき。見た」
ミゼンは、ゆっくりと、言葉を置いていった。子供の頃、見た。
「二つの。船。長い。争い。あった」
二つの船。長い争いがあった。
「ある日。船。寄せた。水。交換した。私。見た。遠く。から」
ある日、二隻は船を寄せて、水を交換した。それを、遠くから見ていた。
「争い。終わった。その日」
その日、争いが終わった。
面会室の中で、誰も動かなかった。記録者のペンだけが、静かに走っていた。
ミゼンは、机の上の水差しを、もう一度見た。
「今度。私。近く。見る」
今度は、近くで見る。
子供の頃に遠くから見た儀礼を、今度は、二つの文明の間で、いちばん近い場所から見ることになる。ミゼンの声は平らだった。だが、平らな声の底に、深いものが流れているのが、十六夜には分かった。
「近くで。見せます」十六夜は言った。約束の言葉として。
言ってから、気づいた。会談の席順は、まだ何も決まっていない。ミゼンがどこに立つかも、正式には未定だ。それでも、この約束だけは、先にしておきたかった。子供の頃に遠くから見た光景の、今度はいちばん近くに、この人がいるべきだ。それは、席順の問題ではなく、道理の問題だった。
道理が通る形に、実務を合わせる。報告書に書く言葉を、十六夜は、もう決めていた。
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面会後 言語解析室
「水の交換、ですか」記録者が言った。
「はい。会談の冒頭に、双方が自分の水を相手に渡して、相手はそれを飲む。信頼の証明です」
「こちらは、何の水を持っていくことになるんでしょうね」
十六夜は、少し考えた。
「日本の水でしょうね。この基地の水は、大半が現地の給水と造水ですが——会談に持っていくなら、本土から運んだ水がいい気がします。向こうは、自分の船の水を持ってくる。自分たちの命の水を。こちらも、同じ重さのものを持っていくべきだと思います」
言いながら、十六夜は気づいた。水の作法の報告は、単なる儀礼情報ではない。会談の冒頭で、向こうの代表が差し出した水を、こちらの代表が飲む。その一口を、こちらの代表は、ためらってはいけない。ためらえば、疑いを見せたことになる。
報告書に、その一行を、太く書いておく必要があった。
「器は、どうするんでしょう」記録者が言った。「渡すときの器です。ミゼンの身振りだと、椀のような形でしたが」
「次の面会で確認します。器の素材、大きさ、渡すときの持ち方、受けるときの持ち方。両手か、片手か。飲む量は、全部か、一口か」
数え上げながら、十六夜は、確認すべき細部の多さに、あらためて気づいた。儀礼は、骨組みだけ分かっても足りない。細部を間違えれば、細部で敬意を疑われる。
「一つずつ、聞いていきます。幸い——」十六夜は、少しだけ言葉を切った。「幸い、教えてくれる先生が、二人います」
教わる相手がいる。それが、この接触のいちばんの幸運だった。あの朝、海で一人の乗組員が拾われていなければ、こちらは今ごろ、器の持ち方一つ知らないまま、会談の日を迎えていたはずだ。
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二日目、三日目。
面会は続いた。器の確認をした。両手で渡し、両手で受ける。素材は問わない。飲むのは一口でいい。ただし、飲む前に、器を軽く掲げる。相手に、中身が見える高さまで。隠さない、という所作だった。ここでも、隠さないことが作法の芯にあった。
十六夜は、確認した細部を、一つずつ報告書に足していった。報告書は日ごとに厚くなった。会談はまだ決まっていないのに、会談の準備だけが、確実に形になっていく。
「決まる前に、準備が終わりそうです」十六夜が言うと、記録者は笑った。
「決まった日に、慌てないで済みます」
待つ時間の使い方として、これ以上のものはなかった。
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同日 官邸地下 夕方
「まず、状況の共有です」
藤堂が言った。「会談の正式決定は、向こうの本国の承認待ちです。面会での聞き取りによれば、返信には数日から十日程度かかる見込みです。この待ち時間を、こちらの準備に充てます」
「向こうの本国が承認しない可能性は」黒崎が聞いた。
「読み切れません。ただ、向こうの現地——艦隊側は、会談の実現を前提に動いています。補佐官の言動、作法の説明への協力、いずれも前向きです。現地が前向きで、本国が止める。その形になったときが、いちばん難しい局面です」
「向こうの内側の話だ。こちらにできることはない」
「ありません。待つだけです。——その間に、人選を、決めたいと思います」
机の上には、三案の資料が並んでいた。だが、議論は長くかからなかった。前回の黒崎の一言が、すでに重心を決めていたからだ。
「現地責任者の赤城一佐を、政府特使に任命する案です」藤堂は続けた。「格は、辞令で作ります。特使の肩書と、政府の全権委任の範囲を明記した訓令を付けます。文脈は、本人がすでに持っています。あの朝の直後から、接触の現場を統括してきた人物です」
「両方を確保する、折衷案か」黒崎が言った。
「はい。前回の、格は辞令で作れるが文脈は辞令では作れない、というお言葉の通りに組みました。文脈を持つ人間に、格を与える。逆は、できませんから」
「通訳は」
「十六夜三尉です。他に選択肢はありません。記録員一名を加えて、こちらは三名。今日の面会で、向こうの作法として、双方同数という原則が確認されています。人数の線も、双方三名で、ほぼ揃いそうです」
「水の作法の件は」
「報告の通りです。会談の冒頭に、水の交換があると想定して、準備します。特使には、向こうの水を、ためらわずに飲んでいただくことになります」
吾妻が、手元の資料を見ながら言った。
「安全管理の側から、一点だけ。未知の水を、検査なしで飲ませることになります。毒物の懸念というより、微生物や成分の問題です。向こうの水に、こちらの人体が想定していない何かが含まれている可能性は、ゼロではありません」
「事前に検査はできないのか」
「できます。技術的には。ミゼンの往来の際に、向こうの船の水を分けてもらえば、成分は事前に把握できます。ただ——」
吾妻は、そこで言葉を切った。
白瀬が、続きを引き取った。
「ただ、検査していたことが向こうに伝われば、儀礼の意味が壊れます。疑わずに飲むから、信頼の証明になる。検査済みの水を飲むのは、儀礼の形だけをなぞる行為です。向こうが、それに気づかない保証はありません。ミゼンに水を頼めば、ミゼンには目的が分かるでしょう」
「では、どうする」
「二段構えを提案します」吾妻が言った。「検査はしない。水は、その場で、ためらわずに飲む。ただし、会談艇には医務対応の準備を載せ、帰投後に特使の健康観察を行う。儀礼は本物のまま、備えだけを後ろに置く形です」
黒崎は、少し考えてから頷いた。
「それでいく。向こうは、命の水を分けると言っている。こちらが検査で応じたら、釣り合わない」
室内に、少しだけ、笑いに近い空気が流れた。緊張の中の、良い種類の緩みだった。誰かが小声で、特使は健康診断が増えますね、と言ったからだった。
「赤城には、いつ伝える」
「明日、内示します」
「分かった」黒崎は頷いた。「急ぐな。だが止まるな。——もっとも、今は、止まりたくても向こうの返信待ちだがな」
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翌日 ダーウィン基地 基地司令部
内示を受けたとき、赤城は、しばらく黙っていた。
それから、一つだけ質問した。
「私でいいんですか、ではなく——私で行く、ということですね」
「そうだ」電話の向こうで、藤堂が言った。「経過の全部を知っている人間に、格を付けて出す。それが官邸の結論だ」
「了解しました」
電話を切ってから、赤城は、窓の外の滑走路を長く見た。
あの朝、この基地は混乱の中にいた。星の位置がずれて、通信が乱れて、誰も何も分からなかった。北西の海に正体不明の艦隊が確認されたとき、この司令部で最初に決めたのは、撃たないことだった。分からないうちは、撃たない。あの決定が、全部の始まりだった。
あの日、撃たないと決めた人間が、今度は、向こうの代表と同じ艇に乗る。
順序として、正しい気がした。最初に引き金から指を離した側の人間が、最初に手を差し出す側にも立つ。
その全部を背負って、海の上に立つことになる。
背負う、という言葉を、赤城は頭の中で訂正した。背負うのではない。あの朝からの積み上げは、一人で背負えるような軽いものではない。自分は、積み上げの上に、立たせてもらうだけだ。倒れないように立つこと。それが特使の仕事だ。
夕方、赤城は十六夜を呼んだ。
「聞いたか」
「聞きました」十六夜は言った。「隣に立つのが赤城一佐なら、通訳は、少しだけ怖くなくなります」
「怖い方がいいんじゃなかったのか」
「怖さの総量は変わりません。配分が変わるだけです」
赤城は笑った。それから、真顔に戻って言った。
「向こうの水を飲む役は、私だ。お前は、訳すことだけ考えろ」
「一つだけ、お願いがあります」十六夜は言った。
「何だ」
「水を飲むとき、一気に飲まないでください。向こうの代表の所作を見て、同じ速さで飲んでください。作法の細部は、まだ全部は分かっていません。分からない部分は、相手を映すのが、いちばん礼を失しません」
「相手を映す、か」赤城は、その言葉を繰り返した。「通訳の技術だな、それは」
「はい。言葉が足りないときは、相手を映します。速さ、間、姿勢。映していれば、少なくとも、敵意には見えません」
「覚えておく」赤城は頷いた。「他には」
「あとは——」十六夜は少し考えて、首を振った。「あとは、当日までに、私がもっと言葉を積みます」
その夜、赤城は、官舎で一人、報告書の束を最初から読み返した。
あの朝の第一報から、今日の水の作法まで。全部、目を通してきた書類だった。だが、読む目が変わっていた。昨日までは、統括する者の目で読んでいた。今夜からは、海の上に立つ者の目で読む。
同じ文章が、違う重さで入ってくる。ミゼンの証言。レイスの言葉。片言の一つ一つが、当日、自分の目の前で、生身の声として発される。
読み終えたのは、深夜だった。赤城は書類を閉じて、短く息を吐いた。
準備はできる。覚悟は、たぶん、当日の朝にできる。今夜は、そこまででいい。
同じ夜、十六夜はノートの端に一行だけ書いた。代表が決まった。あとは、返事を待つだけだ。
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ヴァルタ連合 派遣艦隊旗艦「エイカ」 同時期
待つ日々は、艦隊の上でも流れていた。
四日目。ドラフォが、エイカに小艇で渡ってきた。警護計画の詰めのためだった。
「会談艇には、私が同乗する」ドラフォは言った。「殿下、通訳役、私。三名だ。向こうも三名と聞いている」
「通訳役は、レイスを呼び戻す」アルセナは言った。「向こうの通訳と、レイスの間なら、今の語彙でも会談が回る」
「ミゼンは」
「ミゼンは、向こう側の船に乗ることになるだろう」アルセナは答えた。「向こうの通訳の補佐として。妙な話だ。こちらの民が、向こうの側に座る。だが、それでいい。ミゼンは、もう、どちらか片方の人間ではない」
ドラフォは、何も言わなかった。反対もしなかった。海図の上の会談予定海域を、指でなぞっただけだった。
「この海域なら、双方の本隊から等距離だ」ドラフォは言った。「水深も浅くない。伏兵を沈めておける場所がない。良い海域だ」
「伏兵の心配をしているのか」
「していない」ドラフォは即答した。「向こうが伏兵を使う気なら、もっと早い段階で使っている。今さら会談の場で仕掛ける理由がない。——だが、心配していないことと、確認しないことは、別だ。私は、確認した上で心配しない」
アルセナは、少しだけ笑った。確認した上で心配しない。この指揮官の信頼の作り方は、最初からずっと、そういう形だった。感情ではなく、確認の積み上げで信頼する。時間はかかるが、一度できた信頼は、感情のように揺れない。
「風向きが変わる季節だ」ドラフォは続けた。「艇を寄せるなら、午前がいい。海が素直なうちに」
強硬派の指揮官が、会談日和の話をしている。アルセナは、その事実を、口には出さずに味わった。
「一つ、聞いておく」帰り際に、ドラフォが言った。「本国の承認が、下りなかった場合の手順は」
「会談は延期。理由は、正直に向こうに伝える。本国の承認が得られていない、と」
「正直に、か」
「隠せば、いずれ分かる。分かったとき、失うものの方が大きい」アルセナは言った。「この接触は、隠さないことで、ここまで来た。最後まで、その原則でいく」
ドラフォは頷いて、小艇に降りていった。
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同時期 ダーウィン基地 滞在区画 夜
「今日。あなた。よく。話した」
レイスが言った。滞在区画の窓辺で、ミゼンと二人だった。
「話した」ミゼンは認めた。
水の作法を説明した日から、ミゼンの口数は増えていた。教わる側だった人間が、教える側に回った。何ヶ月も、向こうの言葉を覚え、向こうの世界を学ぶ側だった。今日は、自分の海の決まりを、向こうが真剣に書き取っていた。
「子供の。とき。の話。初めて。聞いた」レイスは言った。
「初めて。話した」ミゼンは、窓の外の暗い海を見た。「ずっと。忘れて。いた。今日。思い出した」
争いを終わらせた水の交換を、遠くから見ていた子供。その子供が、大人になって、海で拾われて、二つの文明の間に立った。そして今度は、いちばん近くで、それを見る。
「あなたの。海の。決まり。向こうに。渡った」レイスは言った。「あなたが。渡した」
ミゼンは、しばらく黙っていた。それから、短く言った。
「良い日。だった」
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五日目。返信は、来なかった。
来ないのが普通だ。早くて六日。そう自分で計算した。分かっていても、通信室の前を通る足が、少しだけ遅くなる。
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六日目 深夜
アルセナは、自室で、会談の想定問答を書いていた。
眠れないなら、眠れない時間を使うだけだ。伝えるべきことは一つ。戦う意思はない。それを、どの語で、どの順で言うか。レイスから届いた向こうの語彙の一覧を横に置いて、一語ずつ、置き方を試していた。
書いては、消した。
「争い。望まない」——弱い。望まない、は意思の言葉としては薄い。
「戦い。ない。ずっと」——時間の語が曖昧だ。ずっと、がどの範囲を指すか、今の語彙では確定できない。
「私たち。あなたたち。戦わない」——これだ、と思った。主語を両方並べる。片方の宣言ではなく、双方の未来として言う。相手の合意を、文の形が先に用意している。
紙の上に、その一文を、丁寧に書き直した。会談の最初に、水を飲んで、それから、この一文を言う。
そこまで書いたときだった。
扉が、叩かれた。
強く、速い叩き方だった。この時刻に、この叩き方をする用件は、一つしかない。
アルセナは、ペンを置いた。書きかけの一文の上で、インクがまだ乾いていなかった。私たち。あなたたち。戦わない。
立ち上がって、扉までの数歩を歩いた。数歩の間に、呼吸を一つ、整えた。どちらの返事でも、受け取る顔は同じでなければならない。艦の中で、外交責任者の表情は、それ自体が信号になる。
扉を開けると、通信士が立っていた。走ってきたのだろう。息が上がっていた。
通信士は、封をした通信文を、両手で差し出した。
「本国から——返信です」
封蝋には、見慣れない印が押されていた。旧議会の印ではない。新体制の、新しい印だった。




