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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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帰る場所

西暦××××年××月××日 ダーウィン基地 言語解析室 午前


「捕虜の気持ちを聞いてみろ」


赤城が言った昨日の言葉を、十六夜は覚えていた。


今日の面会で、試みる。


これまで、捕虜に直接「どうしたいか」を聞いたことはなかった。情報のやり取りが中心で、捕虜自身の意向を確認することは、優先度が低かった。あるいは、聞いていいのかどうか、判断がつかなかった。


あの朝から今日まで、捕虜は情報源だった。言語解析のための、合意成立のための、外交の橋渡しのための存在だった。それは間違ったやり方ではなかった。一つ一つ、必要な手順だった。


だが、今日初めて、捕虜を一人の存在として見る問いを立てる。


今日、聞いてみる。


────


赤城が来た。コーヒーを二つ持ってきた。


「今日、捕虜に聞くのか」


「はい。どう聞けばいいか、まだ考えています」


「片言で、気持ちを聞けるのか」


「完全には無理です。ただ、選択肢を示すことならできます。昨日レイスに使った方法と同じです。帰る絵と、ここに留まる絵。それを並べて見せます」


「答えが出たら、どうする」


「報告します。それ以上のことは、私の判断では決められません」


「報告される側のことを、考えたことはあるか」赤城は言った。


十六夜は少し驚いた。「報告される側、ですか」


「捕虜だ。お前が聞いて、お前が報告する。捕虜の気持ちは、お前の言葉を通して、官邸に届く。お前がどう聞き取るかで、伝わり方が変わる」


十六夜は少し間を置いた。「責任が、思った以上に重いですね」


「だから、慎重に聞け。今日はいつもより、慎重に」


────


面会室で、ヴァルタ連合 外交補佐官レイス ダーウィン基地内 同日朝


レイスは、捕虜への面会を申請していた。


捕虜の処遇についての議論が、こちらでも始まっている。アルセナ様からの指示で、捕虜の意向を確認する必要があった。


だが今朝、向こうの担当者——十六夜という名前だった——から、すでに今日捕虜の意向を確認する予定だと伝えられた。


向こうも、同じことを考えていた。


レイスは、それを聞いて、少し安心した。捕虜の処遇という、繊細な問題について、向こうも丁寧に向き合おうとしている。それは、信頼できる態度だった。


「今日の捕虜の面会は、向こうに任せます」レイスは通信担当に言った。「結果を待ちましょう」


通信担当が言った。「レイス様は、捕虜の意向がどうであれ、構わないとお考えですか」


「構わないわけではない」レイスは答えた。「ただ、私が望む結果を期待して聞くのではない。捕虜自身の言葉を、そのまま受け取りたい」


「もし、帰りたいという答えだったら」


「それなら、帰す方法を考える。それが正しいことだ」


レイスは、自分の言葉に、少し驚いた。任務として捕虜を確保することと、捕虜本人の意向を尊重することは、必ずしも一致しない。だが、今のレイスにとっては、後者の方が重要に思えた。


────


十六夜は二枚の絵を準備した。


一枚は、艦隊に戻る帆船の絵。もう一枚は、ダーウィンにそのまま留まる絵。


絵を出す前に、十六夜は少し迷った。この問いは、これまでの問いとは種類が違う。語彙の確認でも、外交の議題でもない。捕虜自身の、個人的な意向についての問いだ。


二枚の絵を、机の上に並べたまま、十六夜はもう一度確認した。帰る絵は、艦隊の方向に向かう帆船を描いた。留まる絵は、ダーウィンの建物の中にいる人物を描いた。どちらも、できるだけ感情を込めずに描いたつもりだった。誘導にならないように。


聞いていいのか、という迷いが、最後まで残った。


だが、聞かないことも、一つの選択だ。聞かなければ、捕虜の意向は永遠に分からないままになる。


十六夜は深く息を吸って、二枚の絵を出した。


────


捕虜は、絵を見た。


長い間があった。


これまでのどの間より、長かった。


記録者も、十六夜も、何も言わずに待った。


捕虜は、二枚の絵を、何度も見比べた。一度、帰る絵に手を伸ばしかけて、止めた。それから、留まる絵を見た。


迷っている。


これまでの面会で、捕虜が迷う場面は何度かあった。だが、それは語の意味を確認するための迷いだった。今日の迷いは違う。記録すべき正解がない迷いだ。


十六夜は、その迷いを、そのまま受け止めた。急かさない。今日は、特に急かさない。


記録者も、ペンを止めたまま待っていた。部屋の中の時間が、いつもよりゆっくり流れているように感じられた。


────


長い時間が経って、捕虜は動いた。


部屋の空気が、少し変わった気がした。これまでの沈黙とは違う、何かが決まる瞬間の沈黙だった。


留まる絵を指した。


それから、すぐに別の動作を加えた。両手で、帰る絵と留まる絵、両方を指した。それから、自分の胸に手を当てた。


「両方、という意味かもしれません」記録者が言った。


留まりたい。だが、帰りたい気持ちも、ある。


その両方を、捕虜は示そうとしているように見えた。


捕虜は、向こうの言語で、短く何かを言った。これまでに確認した語彙にはない、新しい音節だった。


「新しい語です」十六夜は言った。


複雑な感情を示す語かもしれない。一語で「両方」を表す言葉が、向こうの言語にあるのかもしれない。


十六夜は、その音節をAIに記録させながら、考えた。一語で矛盾する二つの気持ちを表現できる言語があるなら、それは豊かな言語だ。地球の言語にも、似た例がある。一語で説明しきれない感情を、一つの単語に詰め込む言語がある。


向こうの言語も、そういう豊かさを持っているのかもしれない。


────


十六夜は、捕虜にもう一つの動作を示した。


両手を胸の前で組み合わせる、合意の動作だ。だが、今日はそれを、捕虜自身に向けて出した。


これまで、この動作は外交的な合意を示すために使ってきた。艦隊の停止、関係の継続。国家間の取り決めのための動作だった。


今日、初めてその動作を、個人に向けて使う。


「あなたの気持ちを、受け取りました」


そういう意味で、出した。


捕虜は、それを見て、頷いた。


それから、初めて、笑った。


これまでの面会で、捕虜が笑うことは一度もなかった。安堵の表情、確認の表情、聞こえたという表情。様々な変化はあった。だが、笑顔は今日が初めてだった。


その笑顔は、大きくはなかった。控えめな、わずかな笑みだった。だが、確かに笑顔だった。


十六夜は、その笑顔を、ただ見ていた。


言語解析という仕事をしてきて、これまで多くの表情の変化を記録してきた。安堵、緊張、確認、聞こえたという驚き。どれも、情報として価値のあるものだった。


今日の笑顔は、情報ではなかった。少なくとも、十六夜にはそう感じられた。これは、記録するための表情ではない。ただ、見るための表情だった。


記録者が、それでもペンを動かしていた。「初めての笑顔」と、簡潔に書いた。


────


十六夜は捕虜に、もう一つだけ伝えたいことがあった。


両手を広げて、ダーウィンの方向と、艦隊の方向、両方を示す動作をした。それから、その両方を、円で囲むような動作をした。


「両方とも、大切にできるように」


そういう意味を込めた。


捕虜は、その動作を見て、もう一度頷いた。今度は、ゆっくりとした頷きだった。


面会が終わった。十六夜は、捕虜が部屋を出て行く後ろ姿を見送った。これまでと変わらない後ろ姿だったが、今日は少し違って見えた。


捕虜という呼称で、これまで接してきた。だが今日、その呼称の向こうにいる一人の人間を、少しだけ近くに感じられた気がした。


名前は知っている。だが、まだその名前で呼ぶことに慣れていない。今日を境に、少しずつ、その名前で考えるようになるかもしれない。


────


面会後、廊下に出た。


赤城が待っていた。


「聞けたか」


「聞けました。留まりたいけれど、帰りたい気持ちもある。両方が、本当の気持ちなんだと思います」


「複雑な答えだな」


「複雑だからこそ、本物だと思います」十六夜は言った。「単純な答えの方が、むしろ疑わしいです。家族や仲間がいる場所と、今ここで築いている関係。両方に意味があるなら、両方を望むのは自然です」


「お前自身は、どう感じた」赤城が聞いた。


十六夜は少し考えた。「ほっとしました。あの朝から今日まで、捕虜がどう感じているか、考える時間がなかった。今日初めて、聞けてよかったと思います」


「捕虜は笑ったのか」


「笑いました。初めてでした」


赤城は少し間を置いた。「それは、良い報告だ」


「はい」


「お前にとっても、良い一日だったみたいだな」


十六夜は少し笑った。「そうかもしれません」


二人は、しばらく廊下に立っていた。何も言わず、ただ並んでいた。


あの朝から今日まで、こうして廊下で報告をしてきた。報告の内容は、毎日変わってきた。今日の報告は、これまでで一番、人間らしい報告だったかもしれない。


「報告書を書くか」赤城が言った。


「はい。今書きます」


十六夜は言語解析室に戻った。


────


同日 官邸地下 夕方


「捕虜の意向について、確認できました」


藤堂が報告した。「帰りたい気持ちと、留まりたい気持ち、両方があるとの意向が示されました」


室内に、少し違う種類の静けさが広がった。これまでの報告は、合意や艦隊の動きなど、政治的・外交的な事柄が中心だった。今日の報告は、一人の人間の気持ちについての報告だった。


「両方、か」黒崎が言った。


「はい。単純な二択ではなく、複雑な気持ちとして示されました」


白瀬が言った。「これは、今後の議題として重要です。捕虜の処遇を決める際、本人の意向を無視することはできません。両方の気持ちがあるなら、両方を満たす形——例えば、定期的な帰還を含む形——を検討する余地があります」


相馬が言った。「これまで、捕虜という呼称を使ってきましたが、今後の議論では呼称も見直す必要があるかもしれません。意向が確認できた以上、扱いも変わるべきです」


「呼称の見直しは」黒崎が言った。


「正式な議論はこれからですが、レイスや向こうの艦隊の人間が呼んでいる名前を、こちらも使うべきだという意見があります」


「名前は確認できているか」


白瀬が答えた。「捕虜本人の名前は、すでに確認できています。これまで公式文書では捕虜という表記を使ってきましたが、今後は名前を使う方向で検討します」


「いつから変えるか」


「処遇についての方針が固まった段階で、正式に切り替えます。今すぐではありませんが、近い将来です」


黒崎は頷いた。「呼称が変わるということは、こちらの認識も変わるということだ。準備を進めろ」


「向こうとの関係が続くなら、捕虜が往来できる可能性もある、ということか」


「可能性としてあります。続く関係の中で、捕虜が橋渡しの役割を担い続けながら、時には艦隊や本国に戻る機会を持つ。そういう形も考えられます」


黒崎は頷いた。「その方向で検討しろ。捕虜の処遇は、向こうとの関係の質を測る、一つの指標になる」


吾妻が言った。「安全保障上の懸念は、今の段階ではないと考えています。捕虜が往来できる立場になっても、これまでの協力的な姿勢から、危険性は低いと判断します」


「断定はできないがな」黒崎が言った。


「もちろんです。継続的に注視します」


「了解です」


会議が終わった後、白瀬は一人、しばらく部屋に残っていた。


捕虜の気持ちを聞くという今日の判断は、十六夜の現場での判断だった。官邸からの指示ではなかった。それでも、十六夜は聞くべきだと判断し、聞いた。


その判断が、今後の方針を動かしている。現場の小さな判断が、大きな方針に繋がっていく。あの朝からずっと、そうやって進んできた。


白瀬は、十六夜への報告書に、一文を加えることにした。「今日の判断、適切でした」


────


ヴァルタ連合 派遣艦隊旗艦「エイカ」 艦橋 同日夕方


アルセナは、レイスからの報告を読んでいた。


捕虜の意向。帰りたい気持ちと、留まりたい気持ち、両方。


アルセナは、その報告を、何度も読み返した。


「殿下」レナが言った。「捕虜のことを、考えていますか」


「考えている」アルセナは答えた。「あの者は、捕まることを計算に入れて来た。だが、計算に入れていたのは任務だけだ。気持ちまで計算していたわけではない」


「気持ちは、計算できないものですね」


「私もそうだった」アルセナは言った。「捨て駒として送り出されることを、受け入れた。だが、受け入れたことと、何も感じなかったことは違う。あの者も、同じだろう」


レナは少し間を置いた。「殿下も、帰りたい気持ちと、ここでの役目を続けたい気持ち、両方をお持ちですか」


アルセナは少し驚いた。「……そうかもしれない」


それ以上は、言わなかった。言わなくても、レナには伝わったようだった。


レナは少し間を置いて、続けた。「殿下が捕虜のために提案をするのは、自分自身の気持ちと重なる部分があるからかもしれませんね」


「かもしれない」アルセナは認めた。「他人の気持ちを理解できるのは、自分の中に似たものがあるときだ」


「それは、悪いことではないと思います」


「分かっている。ただ、少し不思議な気分だ。捨て駒として送り出された者が、誰かの帰る場所を考えている」


「そうだ」アルセナは少し間を置いた。「もし関係が続くなら、あの者が往来できる形を考えたい。捕虜のままではなく、行き来する者として」


「それは、殿下が決められることですか」


「分からない。だが、提案はできる」


アルセナは窓の外を見た。止まっている艦隊。穏やかな海。


捨て駒として送り出された自分が、今、別の誰かの帰る場所について考えている。


ヴァルタという国は、自分にとってどういう場所だろうか。帰る場所、と簡単に言えるだろうか。誰も見送らずに送り出した国を、帰る場所と呼んでいいのか。


それでも、ヴァルタは故郷だ。複雑な気持ちのまま、それでも故郷だ。


捕虜の気持ちが、少し分かる気がした。


アルセナは、レイスへの返信を書き始めた。捕虜の処遇について、外交代表としての提案を、正式な形でまとめる必要がある。


「捕虜の意向を尊重し、往来できる立場を検討する」


短い一文だが、これが今のアルセナにできる、最初の一歩だった。


書き終えて、アルセナは紙を見つめた。捨て駒として送り出された自分が、誰かのために、こうして文書を書いている。それが今のアルセナの、確かな現実だった。


────


同日 深夜 官邸廊下


白瀬はメモ帳を出した。


「帰る場所」


今夜の言葉を書いた。


これまでの言葉が並んでいる。「確認できない」から「同じ答え」まで来た。


そして今夜。「帰る場所」。


これまでのメモ帳の言葉は、ほとんどが状況についての言葉だった。確認できたこと、進展したこと、危機を乗り越えたこと。今夜の言葉は、少し違う。人の気持ちについての言葉だ。


メモ帳の性質が、少しずつ変わってきているのかもしれない。状況の記録から、関わってきた人々の記録へ。


捕虜には、帰る場所がある。ヴァルタという国に。艦隊という仲間に。同時に、ここダーウィンにも、捕虜が築いてきたものがある。


両方が、帰る場所なのかもしれない。


人は、一つの場所だけに属するわけではない。あの朝から今夜まで、捕虜はその両方を生きてきた。


白瀬は、自分のことも少し考えた。あの朝から今日まで、ずっとこの廊下を歩いてきた。官邸も、ある意味で帰る場所になっている。家に帰れば、また別の日常がある。でも、この廊下も、もう日常の一部だ。


人の帰る場所は、一つに決まらない。それでいいのだと、今夜は思えた。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


その音の下で、今夜は誰かの帰る場所について、考えている。


白瀬はメモ帳を閉じる前に、もう一度、今日の出来事を頭の中で並べた。捕虜が初めて笑った。アルセナという人物が、誰かの帰る場所について考えていた。十六夜が、現場で正しい判断をした。


全部が、繋がっている。


あの朝から続く長い物語の中で、今夜のような小さな出来事が、確かに意味を持っている。


白瀬はメモ帳を閉じた。


明日も、また続く。

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