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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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遠い灯り

派遣艦隊旗艦 艦尾甲板 夜


星が多い惑星だと、アルセナは思う。


あの朝から、星が変わった。


故郷の空と、この惑星の空は違う。星の数が違う。並び方が違う。慣れ親しんだ星座がどこにもない。あの朝、最初に空を見上げたとき、それを確認した。探そうとして、見つからなくて、やめた。


それがいつのことだったか、もう覚えていない。あの朝からすでに長い時間が経った。故郷の空を忘れていく速度が、思ったより速かった。人間の記憶は、繰り返されないものから先に薄れる。見上げるたびに違う星空が広がれば、故郷の星空の細部は押し流されていく。


悪いことではない、とアルセナは思う。忘れられるものは忘れた方が楽だ。


艦尾の手すりに両手をかけて、後方の海を見る。艦隊の灯りが並んでいる。前方に、左右に、後方に。帆船が多い。蒸気機関を持つ艦も数隻ある。どちらも古い設計だ。連合が誇れるものではないが、今あるものを使うしかない。


艦隊の規模は、出港前に確認した。帆船が主力で、蒸気機関を持つ艦は補助的な役割だ。速度が揃わない。風の強い日は帆船が速く、凪の日は蒸気機関が優る。どちらかに合わせれば、どちらかが遅れる。艦隊としての統制が難しい構成だが、他に選択肢がなかった。


風がある。帆が張られている。速度は遅い。


遅くていい、とアルセナは思う。速く着いたところで、何が待っているか分からない。向こうがどんな文明か。友好的か。敵対的か。帆船を見て攻撃してくる可能性があるか。速く到着することが、必ずしも有利とは限らない。


────


この艦隊に乗ることになったのは、あの朝から数ヶ月後のことだ。


あの朝、最初に気づいたのは星だった。夜明け前に天文官が報告を上げてきた。星の配置がおかしい。見慣れた星座がどこにもない。


次にキャラバンが来なくなった。東の街道から定期的に来ていた交易の隊が、ある日を境に途絶えた。西の港への荷も来なくなった。陸の繋がりが、静かに消えた。


それから、通信が途絶えた。ヴァルタには長距離通信の技術がある。数百里先の友好国と信号を交わす手段を持っていた。その信号が、返ってこなくなった。送っても、返事がない。回線の問題ではない。送った先が、応じなくなった。


三つが重なったとき、議会は結論を出した。世界が変わった、と。どう変わったかはまだ分からない。だが、直接確かめに行くしかない。衛星も、長距離の偵察手段も持たないヴァルタに、状況を把握する方法は一つしかなかった。艦隊を出す。実際に海に出て、目で確かめる。


議会で決定が下りた。未知の状況との接触を試みる。外交担当と軍事担当を分けて派遣する。国家として重要な任務であるから、相応の身分の者を外交担当として充てる必要がある。


誰も手を挙げなかった。


当然だ。向こうに何があるか分からない。帰れるかどうかも分からない。世界が変わったかもしれないのに、その変わった世界へ出ていけという話だ。有力な家柄の者は断れる理由を探した。実力者は必要とされる場所を主張した。誰もが、自分には別の役割があると言った。


そこでアルセナの名前が出た。


王位継承権のない傍系の王族。母親は亡く、政治的な後ろ盾もない。議会に友人もいない。消えても困る者がいない。


それだけではない。身分はある。交渉の席に座らせるに足る格は持っている。向こうがどんな文明であれ、「相応の者を寄越した」という体裁だけは保てる。使い捨てにできる格を持った人間、という意味では、アルセナ以上の適任者はいなかった。


「光栄な任務です」と言った者がいた。


誰も否定しなかった。


アルセナも否定しなかった。光栄かどうかは関係ない。命令だ。断れない。断ったとしても、その後の人生に何が残るか。どちらにしても、先は長くない。


なら行く方がいい。少なくとも、海が見える。


出港の日、送り出す者は少なかった。儀礼的な敬礼がいくつかあった。それだけだ。泣く者もいなかった。帰りを待つと言った者も、いなかった。


アルセナは振り返らなかった。振り返っても、見るものがないと分かっていたからだ。港が遠ざかる景色を見る必要はない。前を向いていれば、海が見える。海の向こうに、目的地がある。


目的地が何であれ、向かうしかない。


それが、この旅の始まりだった。


────


「殿下」


声がした。振り向くと、側近のレナが立っていた。三十代の女だ。艦隊では数少ない、アルセナに同情的な人間のひとりだ。同情されることを、アルセナは特に嫌だと思わない。同情は感情だ。感情がある者は、裏切りにくい。


「何か」


「夜風が冷えます。中へ」


「もう少し」


レナは返事をせず、隣に立った。一緒に海を見る気らしい。止めない。止める理由もない。


しばらく、二人は黙っていた。


波の音がする。帆が風を受ける音がする。甲板の下から、炉の遠い音が来る。蒸気機関が動いている音だ。


「捕虜の件は」アルセナは聞いた。「まだ生きているという認識でいいか」


「はい。同期は完了しています。捕まった後も、向こうの施設の中で生きている。それだけは分かります」


「彼らは捕虜を殺さなかった」


「そのようです」


「それは」アルセナは少し間を置いた。「悪くない」


悪くない、という言い方は冷たく聞こえるかもしれない。だがアルセナにとっては、それが最初の評価だ。捕虜を殺さなかった。それだけで、向こうが全く話にならない相手ではない可能性が出る。


「向こうはどんな文明だと思う」アルセナはレナに聞いた。


「私には分かりません。観測の限りでは、かなり遠い距離から信号を発することができる。それだけは確かです」


「帆船を持っていないのかもしれない」


「あるいは、帆船より速い何かを持っているかもしれません」


アルセナは夜の海を見た。遠い方向に、暗い水平線がある。その先のどこかに、向こうの文明がいる。捕虜が生きている。同期信号が届いている。


それ以上は分からない。


捕虜が生きている、ということの意味を、アルセナは何度も考えた。捕まった者を殺さない。それは向こうの文明の倫理か。あるいは、生かして情報を取る合理性か。どちらでもいい。どちらにしても、捕虜はまだ使える。話せる状態にある。


向こうが捕虜を生かしているなら、捕虜からも何かを得ようとしているはずだ。言葉が通じなくても、存在しているということを確認しようとしているはずだ。双方が相手のことを知ろうとしている。


それは、交渉の前提として悪くない。


交渉は、相手が存在することを認め合うところから始まる。殺してしまえば交渉にならない。生かしておくということは、向こうも話す気がある可能性を示している。少なくとも、今のところは。


────


「一つ聞いていいか」アルセナはレナに言った。


「はい」


「この任務、成功すると思うか」


レナはしばらく黙った。誠実な人間は、すぐに答えない。


「成功の定義次第かと思います」


「そうだな」アルセナは頷いた。「私も同じことを考えていた」


帰ること。それが成功か。交渉がまとまること。それが成功か。向こうと戦わないこと。それが成功か。


どれも、今の自分には判断できない。向こうがどんな文明か分からない以上、何が成功かも分からない。


「殿下は、どうなさるおつもりですか」


「行く先を見る」アルセナは答えた。「それだけだ。今できることはそれしかない」


「……本国に帰るおつもりはありますか。ヴァルタに」


アルセナは少し間を置いた。


「帰る場所があれば、帰る」


「殿下」


「ヴァルタが私を必要としていないことは、この任務が証明している。議会が必要としているのは、消えても困らない者だ。それがたまたま私だった」


レナは何も言わなかった。言えなかった。否定できないからだ。


「責めているわけじゃない」アルセナは続けた。「国家の判断としては、正しい。誰かが行かなければならない。その誰かに、私が選ばれた。それだけだ」


「それでも」レナは言った。声が少し震えていた。「殿下は、怒る権利があります」


「怒っても何も変わらない」


「変わらなくても、怒る権利はあります」


アルセナはレナを見た。三十代の女が、手すりを握って海を見ている。顔は見えない。だが声の張り方で、何を感じているかは分かる。


「レナ」


「はい」


「お前はなぜこの任務に志願した」


レナは少し間を置いた。「殿下が行かれるので」


「それだけか」


「……それだけです」


アルセナは前を向いた。それ以上は聞かなかった。聞く必要がなかった。レナが選んだ理由は、アルセナには関係ない。ただ、隣にいる。それで十分だ。


海を見たまま、アルセナは言った。「ヴァルタのために成功させる。ただし、ヴァルタが私に何かを返してくれるとは思っていない」


「……はい」


「だが、お前には返せるかもしれない。帰れたら、ちゃんと帰す」


レナは黙っていた。しばらくして、小さく頷いた。それだけだった。


アルセナもそれ以上は言わなかった。言葉が多くなると、軽くなる。軽くしたくない言葉は、短く言う。そのくらいのことは、この年齢になれば分かる。


しばらくして、レナが先に口を開いた。「中に戻ります。殿下も、あまり遅くならないように」


「分かった」


レナの足音が遠ざかった。甲板に一人残った。


海が広い。どこまでも続いている。水平線は暗くて見えない。星の光だけが、海面をわずかに照らしている。


一人でいると、考えが止まらなくなる。止まらないなら、考え続ける。考え続ければ、いつかまとまる。まとまらなくても、夜は明ける。


それでいい。


────


艦内に戻る前に、アルセナはもう一度海を見た。


北西の方向から来て、今は別の方向へ向かっている。艦隊の方向が変わったのは、数日前だ。上層部の決定だ。理由は教えられていない。


理由を教えられないことには慣れている。


外交担当と軍事担当は分かれている。アルセナの役割は外交だ。艦隊の針路は軍事担当が決める。つまり、アルセナには艦隊がどこへ向かっているかを決める権限がない。連れられていく立場だ。目的地も、到着の条件も、引き返す判断も、全部別の誰かが決める。


それが不満か、と言われれば、特にそうでもない。慣れている。生まれてからずっと、自分の行き先は別の誰かが決めてきた。場所が艦の上になっただけで、構造は変わっていない。


ただ、方向が変わったということは、向こうの文明の場所が絞れてきた可能性がある。あるいは、別の何かが分かった。観測班が何かを掴んだのかもしれない。捕虜からの同期信号に変化があったのかもしれない。理由は分からないが、動いている。


どちらにしても、近づいている。


近づけば、何かが起きる。


何が起きるかは分からない。


分からないまま進むしかない。それが今の状況だ。それが、ずっとそうだった。あの朝から。命令を受けた日から。


分からないまま進む。


アルセナにとって、それは特別なことではなかった。生まれてからずっと、そうだった。慣れているということは、強さではないかもしれない。ただ、慣れているということは、止まらないということだ。止まらなければ、前に進む。前に進めば、何かに着く。


何に着くかは、着いてから分かる。


────


艦内に入った。廊下は薄暗い。節約のため、夜間の照明は最小限にしている。


すれ違う乗組員が頭を下げる。アルセナも軽く頷く。


艦内の空気は、出港から少しずつ変わってきた。最初の頃は緊張があった。未知の海へ出る緊張だ。それが長い航海の中で、緊張から慣れに変わった。慣れてくると、日常が戻ってくる。食事の時間を待つ者がいる。当番作業を淡々とこなす者がいる。夜番を終えた者が眠そうな顔で廊下を歩いている。


非日常は、続けば日常になる。


それは良いことだと、アルセナは思っている。緊張が続けば人は摩耗する。摩耗した人間は、いざというときに動けない。日常を保てる艦隊は、強い。


彼らは何を思っているか。この任務が何なのかを、どこまで知っているか。捨て駒として送り出された王族が外交担当だと、知っている者は知っている。知らない者は知らない。どちらにしても、態度は同じだ。丁寧で、距離がある。


かわいそうだと思われている。


それも分かっている。


長い廊下を歩きながら、アルセナは考える。かわいそうという感情は、何を生むか。同情は行動を変えることがある。命令に従いながらも、少し余分に動いてくれることがある。それは弱さではない。同情という感情が、微妙な場面で人を動かすことがある。


だがかわいそうという感情は、悪意ではない。少なくとも、敵意ではない。それで十分だと、アルセナは思っている。


────


部屋に戻った。


机の上に報告書がある。観測班からの定期報告だ。遠方の信号について。向こうの文明が発していると思われる電波の記録。周期。強度。方向。


アルセナには解読できない。解読する技術を持っていない。だがこの記録が、向こうの文明が存在することを示している。


存在している。


それだけは確かだ。


どんな文明か。友好的か。敵対的か。今の段階では分からない。だが存在している。存在している文明は、話しかけることができる可能性がある。


報告書をめくる。信号の記録が並んでいる。周期が規則的だ。ランダムなノイズではない。誰かが意図的に出している信号だ。それは確かだ。だが何を言っているのかが分からない。観測班も分からないと書いている。解読する手がかりがない。


アルセナは報告書を閉じた。


解読できなくても、向こうが何かを発信しているという事実は残る。発信しているということは、誰かに届けようとしている。届けようとしているということは、受け取る者がいることを想定している。


向こうはこちらの存在を知っている。あるいは、知ろうとしている。


それは、話しかける余地がある、ということだ。


話しかけることができるなら、話しかける。


それがアルセナに与えられた役割だった。うまくいくかどうかは関係ない。うまくいかなくても、それはアルセナの問題ではない。少なくとも、試みた者として記録には残る。


記録に残れば、消えたことにはならない。


ヴァルタの議会には残らなくても、この惑星の歴史には残るかもしれない。最初に話しかけた者として。それは、悪くない残り方だとアルセナは思った。


────


灯りを落とす前に、窓の外をもう一度見た。


星が出ている。見慣れない星だ。故郷の星ではない。だが同じ空だ。同じ宇宙だ。


その空の下のどこかに、向こうの文明がいる。今夜も何かを観測しているだろう。こちらの艦隊の動きを、遠い目で追っているかもしれない。


追っているなら、見えている。


見えているなら、存在を知っている。


存在を知っているなら、関心がある。


関心がある相手に、話しかけることはできる。


どんな言葉で話しかけるか。言葉が通じなければ、身振りで。身振りが通じなければ、別の方法で。方法はある。必ずある。言葉が違っても、存在を認め合うことはできる。それが最初の一歩だ。最初の一歩さえ踏めれば、次がある。


次があれば、何かが変わる。


変わることが、良いことかどうかは分からない。だが変わらなければ、何も始まらない。今のまま艦隊が動き続けても、向こうが何者かは分からない。分からないまま時間だけが過ぎる。それより、動いた方がいい。


アルセナは灯りを落とした。


部屋が暗くなった。窓から星だけが見える。


眠れるかどうかは分からない。眠れなくても、夜は明ける。明ければ、また一日近づく。


この旅がどこへ向かうか、まだ分からない。帰れるかも分からない。うまくいくかも分からない。


分からないことだらけだ。


だが、星は出ている。見慣れない星でも、光ることは同じだ。暗い海の上で、光が見えれば方向が分かる。方向が分かれば、進める。


それだけで、今夜は十分だった。

旗艦 艦隊の司令部が置かれる艦。艦隊全体の指揮はここから行われる。司令官や外交担当など、艦隊の中枢となる人員が乗艦する。今回の「エイカ」は派遣艦隊の旗艦であり、アルセナが乗艦している。


同期信号 本作における「向こうの文明」が持つ技術の一つ。装置を通じて発せられる信号で、発信者の位置や状態を伝える機能を持つ。捕虜がダーウィン到着後に同期を完了させた。艦隊側はこの信号を受け取ることで、捕虜が生存していることと、おおよその位置を把握している。


観測班 艦隊内で周囲の状況を観測・記録する担当の部署。向こうの文明が持つような電子的な観測手段ではなく、目視・信号・天体観測などを組み合わせた方法で情報を収集する。転移後、衛星も長距離通信も失った状況では、この種の直接観測が情報収集の主要な手段となっている。


副官 指揮官の補佐役。命令の伝達、日程の管理、報告の取りまとめなどを担う。今回のセルドはアルセナの副官として同行している。


傍系王族 王位継承権を持つ直系の王族に対し、血統はつながっているが継承順位が低い、あるいは継承権を持たない王族を指す。政治的な影響力は限られるが、身分としての格は持つため、「相応の身分の者」を必要とする場面で起用されることがある。

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