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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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32/57

届いた

西暦××××年××月××日 ダーウィン基地 言語解析室 午前6時


朝が来た。


窓の外が白んでいる。ダーウィンの夜明けは早い。気温はまだ低い。空調が静かに動いている音だけが、部屋を満たしていた。


昨夜は三時間しか眠れなかった。だが眠気はない。頭の中がまだ動いている。止まっていない。眠気というのは、考えが止まったときに来るものだ。考えが動いている間は来ない。それが良いことかどうかは、別の話だが。


十六夜さくらは昨日の面会の記録を開いた。


画面に、時刻つきのログが並んでいる。十六夜が音を出した時刻。捕虜が反応した時刻。反応の内容。表情の変化を記録した担当者のメモ。音声波形のデータ。全部が時系列で並んでいる。


四つの新しい音節の組み合わせ。捕虜が出した順番。こちらが返した音に対して捕虜がどう反応したか。表情の変化。手のひらを上に向けた動作。最後に最初の音で締めた流れ。全部が時刻つきで記録されている。


昨夜は疲れていて見えなかったものが、朝になると見える。


データは変わらない。数字は動かない。だが見る側の状態が変わると、同じデータから見えるものが変わる。それが昨夜と今朝の違いだった。


「……順番だ」


独り言を言った。


四つの新しい音節の組み合わせ。それぞれがバラバラではない。こちらが何かを返すたびに、捕虜の返答に新しい音が追加されていった。最初は一つ。次に二つ。その次に一つ追加。最後に一つ。


追加される順番がある。


ランダムではない。何かの順序に従っている。


ランダムであれば、出てくる音の順序は予測できない。だが今回は、こちらの返答のタイミングと対応している。こちらが返すたびに追加される。返さなければ追加されない。


「積み上げている」


十六夜はノートに書いた。捕虜は積み上げている。一度に全部出さない。こちらの反応を見ながら、一つずつ追加している。


積み上げるということは、こちらの「受け取れる量」を確認しながら出している、ということだ。


受け取れる量を確認する。それは、こちらを観察しているということだ。


昨日から今朝にかけて、立場が少し変わった気がした。観察しているのはこちらだけではない。向こうも、こちらを観察している。ずっとそうだったのかもしれないが、それが昨日の面会の記録から初めてはっきり読み取れた。


ノートに書いた内容を、もう一度見直した。


捕虜があの朝以来、何を一貫してやってきたか。最初の帆船での発光。装置への反応。ダーウィンへの移送中の沈黙。面会を重ねるごとの変化。それらを並べると、一つの線が見えてくる。


待っていた、ということだ。


捕虜は、ずっと何かを待っていた。観察していた、という言い方もできる。だが観察というのは受動的だ。捕虜がやってきたのは、もっと能動的な何かだ。条件を確認していた。こちらが一定の水準に達したかどうかを、測っていた。


そして昨日、条件が整ったと判断した。


だから話しかけてきた。だから積み上げを始めた。


十六夜はコーヒーを一口飲んだ。冷えていた。いつ入れたか覚えていない。


条件が整った、とはどういう意味か。こちらが音を返した、という事実が条件になったのか。それとも、もっと前から準備されていて、昨日がその実行のタイミングだったのか。


分からない。


だが、向こうにとって何かが「準備できた」状態になったことだけは確かだ。それがこちらの行動によるものなのか、向こうの内部の判断によるものなのかが、次に解明すべき問いになった。


────


同日 午前8時 ダーウィン基地 赤城蓮人の執務室


「朝から来るな」


赤城は言ったが、ドアを閉めなかった。コーヒーカップを持ったまま、入ってくる十六夜を見た。


十六夜はドアを閉め、ホワイトボードの前に立った。マーカーを手に取る。昨日もこうして朝に来た。その前の日もそうだった。ダーウィンに来てから、十六夜の朝はこの部屋から始まっている。


「四つの音の順番です」


「昨日の話か」


「はい。順番があります。バラバラではない」


ホワイトボードに書く。縦に時刻を並べる。横に、その時刻にこちらが出した音と、捕虜が返した音を書く。新しく追加された音に印をつける。


「見てください。こちらが一つ返すたびに、捕虜は新しい音を一つ追加しました。最初から全部出さなかった。こちらの反応を見ながら、少しずつ積み上げた」


赤城はコーヒーカップを置いた。ホワイトボードを見た。


「通信の確立を確認しながら、情報量を増やした、ということか」


「そう解釈できます。データ通信で言えば、ハンドシェイクに近い」


「ハンドシェイク」


「通信を始める前に、相手が受信できる状態かどうかを確認するやり取りです。まず小さい信号を送って、返ってきたら次の信号を送る。それを繰り返して通信路を確立する。捕虜は昨日、それに近い動きをしていた可能性があります」


赤城はしばらく黙った。ホワイトボードの表を見ている。


「向こうは通信の手順を知っている、ということか」


「少なくとも、こちらの受信能力を確かめながら出す、という方法を知っている。それは意図的です。偶然そうなる動きではありません」


「意図的に、となると」


「向こうが、こちらとの通信を目的として動いていることになります。昨日と一昨日では、捕虜は観察していた。今日は、通信しようとしていた。何かが変わっています」


「何が変わったと思う」


十六夜は少し間を置いた。「昨日、こちらが音を返したことだと思います。それまでは、こちらは聞くだけだった。向こうが出して、こちらが記録する。昨日初めて、こちらが返した。それが切り替わりになった可能性があります」


「官邸に上げるか」


「上げます。ただし言葉は慎重に」


「どう言う」


「"昨日の面会で捕虜が出した四つの音は、無作為ではなく、こちらの反応を確認しながら順次追加されたものと考えられる。意図的な段階的通信の可能性がある"。それだけです」


赤城はホワイトボードを見た。「面白いな」


「はい」十六夜は言った。「面白いです」


赤城はコーヒーを飲み直した。「怖くないのか」


「怖いです」十六夜は答えた。「向こうが意図的に動いているとすれば、こちらが思っている以上に、向こうはこちらを見ている。それは怖い。でも、怖いから面白い。分からないものが、少しずつ分かってくる。その途中にいます」


────


同日 午前9時 官邸地下 危機管理センター


「本日の優先事項を確認します」


白瀬が言った。机の上の資料は昨日より薄い。増えていないのではなく、既に読まれたものが整理されているからだ。朝の時点で全員が前日の報告を頭に入れてから集まる。それがこの部屋の形になっていた。


「一、捕虜との言語解析の継続。昨日の四つの音の分析結果が今朝届きました。後ほど詳細を報告します。二、タンカーの航行状況。予定通り明日、日本沿岸に到着します。三、北西の艦隊。方向変化が継続しています」


「北西の状況から聞かせろ」


藤堂が言った。「昨日の衛星データの継続分析です。艦隊の移動方向が変化しています。日本やオーストラリアを指す方向ではなくなっていますが、変化の速度が上がっています」


「変化の速度が上がっている」


「これまでは緩やかな変化でした。日ごとの変位角が小さく、方向が変わっていると認識するのに数日かかるような変化でした。今は、より明確な方向への転換が確認されています。数値で言えば、昨日比で変化速度がおよそ三倍になっています。ただし転換先がどこかは、まだ地図にありません」


「こちらに向かっていないのか」


「現時点では、こちらを向いていません。ただし変化が続いているため、今後どう動くかは分かりません。変化が続くなら、どこかで安定する。安定した先がどこかが問題です」


「安定する先の推定はできるか」


「現時点では困難です。地図の空白が大きすぎる。その空白に何があるかが分からない以上、どこへ向かっているかも分かりません。次の衛星打ち上げで精度が上がれば、絞り込める可能性があります」


黒崎は少し間を置いた。「言語解析の報告を聞く」


「ダーウィンから今朝届いた報告です。昨日の面会で捕虜が出した四つの音は、無作為ではなく、こちらの反応を確認しながら順次追加されたものと考えられます。意図的な段階的通信の可能性があります」


「段階的通信」


「一度に全部出さず、こちらが受け取れるかどうかを確かめながら少しずつ出してくる手法です。通信路の確立を確認しながら情報量を増やす方法で、意図的にそうしているとすれば、向こうはこちらの受信能力を測っていたことになります。コンピュータの通信で言えばハンドシェイクに近い手順です」


「向こうは何を確かめたかったんだ」


「不明です。ただし」白瀬が言った。「段階的に出してきたということは、まだ出していない情報がある可能性があります。昨日の四つは、始まりに過ぎないかもしれない」


室内に短い沈黙が落ちた。


「まだ出していない情報がある」黒崎が言った。


「可能性として。向こうが通信路を確立しようとしているなら、確立できたと判断したときに、本来伝えたかった内容を出してくる可能性があります。今はまだ、通信路の確認段階かもしれません」


「今日の面会は」


「午後に予定しています。昨日の流れを受けて、十六夜さんが新しいアプローチを試みる予定です」


「了解だ」


吾妻英二が口を開いた。「一点確認しておきたい。捕虜が意図的に通信を試みているとすれば、向こうの目的がある。その目的が何かを見極めるまで、こちらも慎重に対応する必要があります」


「そうです」白瀬が言った。「こちらから積極的に情報を出すことはまだしない。受け取りながら、向こうの意図を把握する段階です」


「了解しました」


────


同日 午後 ダーウィン基地 隔離区画 面会室


今日は昨日より一つ変えた。


十六夜は面会室に入るとき、録音装置の起動確認を声に出さなかった。昨日は「始めます」と録音装置に向かって言った。今日はそれをしない。


なぜか。


昨日、捕虜の目が変わったのは、十六夜が最初の音を出した後だった。だが今日、面会室に入った瞬間に、捕虜の表情がわずかに変わった。十六夜を見る目が、昨日とは違った。


待っていた目だ。


昨日以前とは違う。昨日の「待っているような目」とも違う。今日は、知っている相手を待っていた目に近い。一度会って、次を待っている、という種類の目だ。


捕虜は十六夜を認識している。


最初の面会のときの、観察する目とも違う。昨日の、確認するような目とも違う。今日の目は、もう一段階、距離が縮まっていた。


十六夜は椅子に座った。余分な動作をしない。机の上に何も置かない。手を組んで、捕虜を見た。


昨日最後に出した音、最初の音と同じ音を、まず返した。


昨日の終わりを、今日の始まりにする。そうすることで、昨日の面会がつながっていることを示す。連続していることを示す。


捕虜は即座に反応した。


昨日よりも速い。確認の時間が要らなくなっている。昨日、一往復かけて確認したことが、今日は前提になっている。前提になっているということは、向こうの中で記憶されている。昨日の面会が、今日の出発点として成立している。


捕虜は、続きを出した。


昨日の四つの音に続く、新しい音の組み合わせだ。また一つ追加された。昨日と同じ手順で、次が来た。


「来ました」


壁際の記録者が言った。声は抑えられているが、緊張がある。十六夜は頷いた。視線を捕虜から外さずに頷いた。


────


面会は今日も三十分続いた。


その間に、捕虜はさらに三つの新しい音を出した。昨日と合わせて七つになった。積み上がっている。増え方は昨日と同じだ。こちらが返すたびに、一つずつ追加される。


途中、捕虜がまた手のひらを上に向けた動作をした。昨日と同じ動作だ。だが今日は、その動作のタイミングがはっきりした。特定の音を出したときに合わせてその動作をした。他の音のときは動作がない。


「音と動作が対応しています」


記録者が小声で言った。声が抑えられていても、それが重要な観察だということは全員が分かっていた。


十六夜は録音しながら見ていた。特定の音を出すとき、捕虜は必ずその動作を加える。他の音のときは動作がない。つまり、その動作は特定の音に紐づいている。


動作が言葉を補っている。あるいは、動作そのものが語の一部だ。


音だけで完結していない。音と動作が組み合わさって、一つの何かを表している。


それがどういう言語体系なのか、今の段階では分からない。だが、音だけを分析していては足りないということだけは、今日分かった。


面会の終わりに、捕虜はまた最初の音で締めた。昨日と同じ形だ。始まりと終わりに同じ音を置く。構造がある。繰り返される構造は、偶然ではない。意図だ。意図があれば、意味がある。意味があれば、解読できる。


まだ先は長い。だが、今日一日で見えた構造の断片が、また増えた。


────


面会が終わった後、十六夜は廊下に出た。


隔離区画の廊下は薄暗い。蛍光灯の光が、少しだけ青みがかっている。床はコンクリートで、靴音が小さく反響する。


「届いていますね」


十六夜は言った。誰に言うでもない。自分に確認するように言った。


赤城が隣にいた。今日の面会は、赤城も別室のモニターで見ていた。「何が」


「こちらの返答が、向こうに届いています。昨日、確認の往復に時間がかかっていた部分が、今日は前提になっていた。昨日の面会が、今日の出発点になっている。つまり、昨日こちらが返したものが、向こうの側で受け取られた」


「当たり前のことに聞こえるが」


「当たり前ではないんです」十六夜は言った。「あの朝から今日まで、こちらの声が向こうに届いたかどうかを確認できたのは、今日が初めてです。投射試験で電波を送っても返ってこなかった。帆船を見ても見られているかどうか分からなかった。捕虜に話しかけても通じなかった。ずっと、届いているかどうかが分からなかった」


赤城は黙って聞いていた。


「今日、届いた、ということが分かりました」


十六夜はそれだけ言った。それ以上は言わなかった。届いた、という事実を、言葉で重くしたくなかった。重くすれば、次に何をすべきかまで言わなければならなくなる。今はまだ、届いた、という事実だけを持ち帰る。


赤城は廊下の奥を見た。隔離区画の扉が、閉まっている。「捕虜は今、何を考えていると思う」


「分かりません」


「推測でいい」


十六夜は少し間を置いた。「こちらが受け取っている、ということを確認できた、と思っているかもしれません。昨日のこちらの返答が、向こうの手順通りに機能した。だとすれば向こうは、次の段階に移る準備ができていると判断している可能性があります」


「次の段階とは」


「本来伝えたかったことを、出してくる段階です」


赤城は静かに頷いた。「明日の面会が変わるかもしれない」


「そう思います」


────


同日 官邸地下 夕方


「本日の面会の結果です」


藤堂が報告する。全員の表情が、報告を聞く前からやや前傾みを帯びていた。午前の段階で、今日の面会に期待がかかっていることは全員が知っていた。


「新たに三つの音節の組み合わせが追加されました。昨日分と合わせて七つになっています。積み上がりが確認されました。また、特定の音と手の動作が対応していることが確認されました。音だけでなく、動作が意味の一部である可能性があります」


「手の動作とは」


「手のひらを上に向ける動作です。特定の音を出すときに必ず合わせて出てきます。他の音には出てこない。その音だけに紐づいている動作です。音声だけの分析では不十分で、動作も含めた解析が必要であることが今日判明しました」


「それが何を意味するか」


「現時点では分かりません。ただし、動作と音が対応しているということは、言語が音だけで構成されていない可能性があります。音と動作の組み合わせで一つの意味を表す体系かもしれない。分析の範囲を、音声から動作の記録にも広げます」


「十六夜さんからもう一つ報告があります」白瀬が言った。「昨日こちらが返した音が、向こうに届いていることが今日の面会で確認されました。昨日の往復が、今日の前提になっていた。これはあの朝以来、こちらの発信が相手に届いたと確認できた最初の事例です」


黒崎は少し間を置いた。「最初の事例」


「はい。これまで電波も通じなかった。帆船への呼びかけも届かなかった。今日初めて、こちらから出したものが向こうに届いたと確認できました」


「……それは大きい」


誰かが言った。静かな声だった。大きい、という言葉が持つ重さを、声に乗せないようにして言った。


「大きいが」相馬が言った。「届いた、ということと、伝わった、ということは違う。音が届いたことは分かった。意味が伝わったかどうかはまだ分からない」


「そうです」白瀬が言った。「ただし、届くことが確認できれば、次は伝えることを考えられます。届かない段階では、伝えることを考えても意味がない。今日、一段階、前に進みました」


「また」藤堂が続けた。「明日の面会で、向こうが本来伝えたかった内容を出してくる可能性がある、という分析です。七つの音の積み上がりは、通信路の確立を確認する手順だった可能性がある。確立できたと判断すれば、次のステップに移る」


「次のステップとは」


「捕虜が最初から伝えようとしていた内容です。何かは分かりません。ただし、あの朝から一貫して繰り返している問いかけの音がある。それが核心に近い可能性があります」


黒崎は頷いた。「次の面会は」


「明日です。七つの音の分析を今夜進めて、動作の記録も合わせて分析します。明日に臨みます」


「了解だ。急ぐな。だが止まるな」


────


同日 夜 ダーウィン 十六夜さくら


分析室の電気はまだついていた。


七つの音の組み合わせ。それぞれの出てきた順序。対応する動作の有無。こちらが何を返したときに出てきたか。


表を作った。縦軸に七つの音。横軸に、その音が出てきた文脈。対応する動作の列。


表を見ていると、パターンが見えてくる。


七つのうち、動作が対応しているのは一つだけだ。その一つは、捕虜が最初の「三つ目の音」と一緒によく使っている。最初の音と、動作のある音が、セットで出てくることが多い。


「セットで使う理由がある」


ノートに書いた。


セットで使う、ということは、二つがセットで一つの意味を作っている可能性がある。あるいは、一方が他方の修飾語だ。修飾語なら、修飾される語があって、修飾する語が意味を補う。


あるいは、問いと答えの対だ。


問いと答えの対。


十六夜はそこで止まった。


捕虜が繰り返す「最初の音」が問いかけを意味するなら。動作のある音が、その問いに対する答えの形を表しているなら。


捕虜は問いを出して、答えの形を示している。


答えの形を示すということは、こちらに答えてほしい、ということかもしれない。


答えてほしいなら、何を答えてほしいのか。


その問いに、今夜は答えられない。七つの音の意味が全部分からない以上、何を答えてほしいのかも分からない。


「……何を答えてほしいんですか」


誰もいない部屋で、十六夜は言った。声に出すことで、問いが少し整理される気がした。


窓の外に夜がある。ダーウィンの夜だ。虫の声がする。遠くで何かが動いている音がする。波の音かもしれない。港が近い。


捕虜がいる区画は、この建物の中にある。今、眠っているのか、起きているのか、分からない。起きているとしたら、何を考えているのか。眠れているとしたら、こちらのことを気にしながら眠っているのか、それとも全く気にしていないのか。


分からないことがまだ多い。


だが今日、届いた。


それだけが、今夜確かなことだった。


分からないことと確かなことが、同時にある。分からないことの方がずっと多い。だが確かなことが一つ増えた。そのことだけを、今夜は持ち帰る。


表の前で、十六夜はしばらく動かなかった。


七つの音。動作と対応する一つ。セットで出てくる二つ。問いと答えの対かもしれない構造。それらが、頭の中で少しずつ繋がろうとしている。繋がりきっていない。だが繋がろうとしているのは分かる。


言語の解読というのは、こういうものだ、と十六夜は思った。


一度に全部分かることはない。断片が積み重なる。積み重なった断片が、ある瞬間に形を作る。形ができるまでは、断片を見続けるしかない。見続けることが、解読の大部分を占める。


派手な発見は最後の一瞬だ。その前の、地道な蓄積が全てだ。


明日の面会で、向こうが次の段階に移るかもしれない。移るとすれば、今夜の分析が土台になる。土台が薄ければ、明日来たものを受け取れない。


十六夜はもう一度、表に向かった。


七つの音を、別の組み合わせで並べてみる。出てきた順番ではなく、音の構造の近さで並べる。音の長さで並べる。動作との対応の有無で分ける。


同じデータでも、並べ方を変えると見えるものが変わる。


それが今夜の作業だった。


────


同日 深夜 官邸廊下


白瀬はメモ帳を出した。


「届いた」


今日の言葉を書いた。


これまでの言葉が並んでいる。「確認できない」「理由がない」「前提」「確認できた」「話す」「地図」「見えた」「聞こえている」。


そして今日。「届いた」。


届いた、ということは、向こうがこちらを認識しているということだ。認識している相手に、届いた。認識されていなければ、何を送っても届かない。認識されているから、届く。


届いた、ということは、次がある、ということだ。


届かない間は、次を考えられない。届いてから、次を考えられる。次が考えられるということは、動ける、ということだ。動けるということは、止まっていない、ということだ。


次は何か。


まだ分からない。だが、次がある。あの朝から今日まで、「次がある」と言えるようになるまでに、これだけの時間がかかった。一つ一つ積み重ねてきた。ロシアが来なかった。韓国が来なかった。中国が来なかった。外縁の向こうに何もないかと思ったら、帆船があった。捕虜がいた。少佐が来た。タンカーが出た。衛星が上がった。


そして今日、届いた。


この積み重ねは、誰かが計画したものではない。あの朝から一日一日、その日に分かることを分かる範囲で確認してきた結果として、今日がある。計画通りではない。だが、積み重ねてきたことは確かだ。


積み重なったものは、消えない。


廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。


その音はいつ変わるのか、あるいは変わらないのか、白瀬にはまだ分からない。


変わる必要があるかどうかも、まだ分からない。


変わらないことが、この建物の基準を作っている。変わらない音があるから、変わったことが分かる。変わらない場所があるから、変わったことを持ち帰る場所がある。


ただ、今夜もその音の下で、一つだけ確かなことが増えた。

・ハンドシェイク 通信を始める前に、送受信の双方が「準備できている」ことを確認し合うやり取り。コンピュータのネットワーク通信では、接続確立のための最初の手順として必ず行われる。今回の捕虜の行動が意図的なハンドシェイクであるとすれば、向こうは通信の手順を持っていることになる。


・段階的情報伝達 一度に全部の情報を出さず、相手の受信能力を確認しながら少しずつ情報量を増やしていく方法。受信側が処理できる範囲を超えた情報を一度に送っても、正確に届かない可能性があるためこうした手法が取られる。今回の面会では捕虜がこの手法に近い行動を取っていた。


・身振りと音の対応 言語において音声だけでなく身体の動作も意味を担う体系を、手話や身振り言語と呼ぶ。声を持つ言語でも、特定の動作が特定の音と組み合わさって一つの意味を作る場合がある。捕虜の手のひらを上に向ける動作が特定の音にのみ対応しているという観察は、この可能性を示唆している。


・音節と語の違い 音節は音の最小単位の一つで、母音を中心に構成される。語はいくつかの音節が組み合わさって意味を持つ単位。今回の分析では音節の対応表を作りながら、その組み合わせが語を構成しているかどうかを推定している段階にある。


・「届いた」と「伝わった」の違い 信号が物理的に相手に到達することと、その信号の意味が相手に理解されることは別の事柄だ。今日確認できたのは「届いた」だけであり、「伝わった」かどうかはまだ確認できていない。ただし、届かない段階では伝えることを考えても意味がない。届くことが確認できて初めて、次の段階として「伝える」ことを設計できる。

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