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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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分からないまま耐える日

西暦××××年××月××日 東京都千代田区 首相官邸地下 危機管理センター


「つまり、衛星が消えた」

黒崎恒一は、モニターを見ながら言った。問いかけではない。確認だ。声に感情を乗せない。乗せれば、場が動く。場が動けば、次の言葉が要る。今はまだ、次の言葉を用意できていない。

「正確には、日本上空に存在していたものを除いて、追尾不能になっています」

統合幕僚監部の藤堂光一一佐が答える。「追えなくなった」という表現を選んでいる。「消えた」とは言わない。消えたと言えば、次に「なぜ」が来る。「なぜ」に答えられない段階では、「消えた」という言葉を使ってはいけない。この部屋の全員が、暗黙のうちにそれを理解していた。

「落下したのか」

「落下の兆候はありません。どの追尾系統にも、落下を示す軌道変化の痕跡がありません。攻撃の痕跡もありません。電磁波による撃墜なら何らかの乱れが出るはずですが、それもない。軌道逸脱も確認されていません。ただ、追えなくなりました」

「どのタイミングで」

「今朝、報告が上がってきた段階では、すでに追尾不能の状態でした。いつから追えなくなったのか、その瞬間を特定できていません。夜間の監視体制では、追尾不能になった時刻の特定が難しい状況です」

「……じゃあGPSは」

「事実上、使えません。GPS衛星は全球配置なので、日本上空にいたもの以外は全部消えています。みちびきは生きていますが、あれはGPSの補完用なので、GPS抜きだと精度がガタ落ちです。測位誤差が数十メートルから場合によっては数百メートルに拡大する可能性があります」

「自衛隊の作戦への影響は」

「精密誘導への支障が出ます。ただ今は作戦を考える段階ではないので、それより現状確認を優先しています」

黒崎は腕を組んだ。「他は」

「通信が全滅です」横山和人総務次官が言う。モニターの前で立ったまま話している。部屋の広さの割に、人が多い。それぞれが背負ってきた情報の重さが、室温を上げているように感じられた。「国外向け全系統、応答なし。回線は生きています。送信は成立しています。ただ、返ってきません」

「返ってこない」

「はい。繋がっているのに、誰もいないような状態です。遮断されているなら断線の痕跡が出ます。妨害されているなら電磁的な乱れが出ます。今回はそのどちらもない。ただ単純に、向こうから返事がない」

繋がっているのに返事がない。その言葉の気持ち悪さを、部屋にいる全員が受け取っていた。繋がっていないなら原因を探せる。繋がっているのに返事がない、というのは、原因を探す場所がない。

「市場も止まりました」式守千春金融庁長官が続ける。「為替も株も、最後に取得した数値で固定されたままです。システム障害ではありません。エラーも出ていません。API接続は正常、冗長回線も生きている。にもかかわらず、更新が来ない。理由が分かりません」

「気象庁は」

黒瀬みなみ気象庁長官が手元の資料を見る。「観測データに異常はありません。雨量も風向も気圧も、すべて平常を示しています。ただ、日の出時刻が全国で四秒ずれています」

「四秒なら誤差じゃないか」

「ばらつきがないんです」黒瀬は続ける。「北海道から沖縄まで、全部同じ方向に同じ秒数だけずれています。誤差はばらつくものです。大気屈折の影響なら観測地点ごとに差が出ます。それがない。全国一律というのは、誤差では説明できない」

「……国土地理院は」

布藤当真院長が答える。「電子基準点に全国一律のズレが出ています。数センチ単位ですが、全国が同じ方向に同じ傾向で動いています。GPS消失の影響か、座標系そのものがずれているのか、現時点では切り分けができません。みちびきのみに頼る現状では、この二つを区別する手段がありません」

黒崎はしばらく天井を見た。

気象庁。国土地理院。総務省。金融庁。防衛省。

それぞれが別の窓口から、別の方向から、同じ方向に近づいている。

合流点はどこか。そこに何があるのか。

まだ言葉がない。言葉がない段階では、合流点の名前を呼べない。呼べないから、今日はここまでだ。

「結論は」と黒崎は言った。「今日中に出るか」

誰も答えなかった。

出ない、とは言えない。だが、出ると言える材料もない。

「ならいい」

黒崎は立ち上がった。椅子の引く音が、静かな部屋に響く。

「今日は、分からないまま耐える日だ」

それは命令ではない。方針だった。方針というより、現実の確認に近い。言葉にすることで、「今日は分からないことを認めた」という共通認識をこの部屋に落とす。その認識が、今日という日の地盤になる。

「……"異常事態"という言葉は使わないでください」白瀬誠が言った。官房副長官だ。声に感情はない。進行のための声だ。「使った瞬間、法令が動きます。法令が動けば手続きが動きます。手続きが動けば、現時点では説明できない行動を取ることになります。今は動かせる段階ではありません」

「"防衛出動"も同様だな」

「はい。要件を満たしていませんし、満たしていないと説明すること自体が余計な憶測を呼びます」

「対外発表は」

「"通常運用に影響なし"で統一します」相馬隆官房長官が言う。「詳細は問われたら"確認中"で止めます」

「それで乗り切れるか」

「今日一日は。ただし明日は問われます」

「明日のことは明日考える。今日は今日のことだけだ」

黒崎が立ち上がると、全員が続いた。地下の廊下に人が散っていく。それぞれが、それぞれの持ち場に戻る。

白瀬だけが少し遅れて残った。机の上の資料をまとめながら、部屋を一度だけ見回す。

モニターはまだついている。数字が並んでいる。どれも平常値だ。どれも「問題なし」を示している。

だが何かが、根本から狂っている。

狂い方が分からない。どこから狂っているのかが分からない。分からないから、どう直せばいいかも分からない。

直せないものは、そのまま抱えて動くしかない。

それが今日の結論だった。


────


同日 防衛省・市ヶ谷 情報運用室 午前10時


スクリーンには日本列島周辺の航跡情報が並んでいる。国内線、定期便、自衛隊機の航跡。どれも規定通りだ。どれも「いつも通り」を示している。

だが、その外側が違う。

スクリーンの外縁部は、空白だった。本来なら他国の軍用機、民間機、商船のAIS信号、さまざまな電波源が散らばっているはずの空間に、何もない。

「また増えました。追尾不能」

担当官の一人が淡々と報告する。感情を抑えた声だ。こういうとき、声のトーンを上げると場が崩れる。場が崩れると、各自が感情で動き始める。感情で動き始めると、記録が汚れる。それを全員が知っている。

「追尾不能の総数は」

「今朝時点で確認済みの分だけで、GPS衛星三十一機のうち、日本上空に軌道があったものを除く全機が追尾不能になっています。気象衛星、通信衛星、民間の衛星サービスも同様です。確認できている衛星は、日本の領土または領海の上空に軌道を持っていたものだけです」

「落下予測は」

「ありません。落下を示す軌道変化の痕跡が、どの衛星についても確認されていません」

「電磁妨害は」

「兆候なし。ECM反応もゼロです。特定の周波数帯に集中した妨害であれば、電波環境のモニタリングに変化が出るはずですが、それもない」

「攻撃の痕跡は」

「ありません。レーザー照射であれば、関連する電力消費のスパイクや、対衛星ミサイルの発射であれば、赤外線衛星による探知ができるはずですが、どちらも確認されていません」

「ではなぜ追えなくなっているのか」

「分かりません」

藤堂は短く言った。「"分からない"が今の状態の最も正確な表現です。妨害でも事故でも攻撃でも説明できない。残る可能性は、衛星が"そこにない"ことですが、それも証明できていません」

「"いない"は使うな」

「了解です。"確認できていない"で統一します」

「ロシア機の反応は」

「ありません。中国も朝鮮半島も同じです。通常なら有効な反射がある海空域で、全部確認できていません。E-767とJ/FPS-5でクロスチェック済みです。死角では説明できません。妨害の兆候もなし。それでも反応がない」

スクリーンを見ながら、誰かがぼそりと言った。「世界が、内側しかなくなったみたいだな」

誰も笑わなかった。笑えなかった。笑える話ではなかったし、笑える余裕もなかった。それ以上に、その言葉がどこか正確すぎて、笑う気が起きなかった。

内側はある。すべて正常だ。外側が見えない。

それだけが、今日確認できていることだった。


────


同日 気象庁本庁舎 予報部フロア 午前5時38分(あの朝に戻る)


予報部のフロアでは、夜勤と早番の引き継ぎが淡々と進んでいた。蛍光灯の白い光の下、紙コップのコーヒーを片手に端末を操作する者、印刷された資料に目を通す者、壁一面に並ぶモニターを無言で確認する者。そこにあるのは、いつもと同じ光景だった。

主任予報官の佐久間は、引き継ぎ票を受け取りながら、フロア全体の「音」を聞いていた。キーボードの打鍵音。プリンタの駆動音。空調の低い唸り。椅子のキャスターが床を擦るかすかな音。

どれも平常だ。平常であることが、この仕事の価値でもある。異常が起きないこと、それを確認し続けていること自体が、この組織に課された役割だった。

だが佐久間は、夜勤明けの若手、宮坂の表情が硬いことに気づいた。硬いというより、視線が妙に一点に固定されている。モニターから目が離せないというより、目が離れなくなっているという状態に見えた。

「納得できない数値」を前にした人間の目だ。佐久間はこの顔を何度か見たことがある。台風の進路が計算値と大幅にずれたとき。観測機器が一斉に変な値を出したとき。「自分は間違えていないのに、世界の方がおかしい」と感じているときの顔だ。

「合わないな」

宮坂の呟きは、誰かに聞かせるためのものではなかった。自分で自分を説得しようとして、失敗した声だった。自分の計算が間違っているはずだという方向で考えようとして、どうしてもそちらに結論が行かないときの声だ。

「何が合わない」

佐久間は、引き継ぎ票から目を離さずに聞いた。声の調子を変えない。変えれば、場の空気が変わる。空気が変われば、宮坂の判断に影響が出る。観測は、観測者の状態に影響される。それを防ぐために、声のトーンを維持する。

「日の出時刻です。計算値と実測値が四秒ずれてます」

「誤差の範囲じゃないか」

「全国で同じなんです」

佐久間は視線を上げた。「全部?」

「はい。北海道も沖縄も、同じ方向に同じ秒数だけずれています。気圧も風向も雲量も全部正常で、日の出時刻だけがおかしい。大気屈折の影響にしては、ばらつきがなさすぎます」

「外部基準と照合したか」

「それが……GPSが受信できていません。みちびきは受信していますが、みちびきの時刻基準そのものが正しいかどうかを確認する手段がありません。みちびきはGPSの補完用なので、GPS抜きだと完全には機能しない構造になっています」

「内部の原子時計は」

「庁内は正常です。でも、庁内で正しくても、それが世界標準と一致しているかどうかが確認できない。閉じた世界の中の時計です。外と繋がっていない」

佐久間は椅子を回してモニターの前に座った。

宮坂の言う通りだった。アメダスの観測点は全国で平常を示している。気象レーダーも、上空観測も、海象情報も、どれも問題ない。ただ一点を除いて。

北海道の観測点。東北。関東。中部。近畿。中国。四国。九州。沖縄。

全部、同じだ。同じ方向に、同じ秒数だけ、ずれている。

誤差というのは、ばらつくものだ。観測地点によって、天候によって、高度によって、少しずつ違う値が出る。それが「誤差」だ。これは違う。これはばらつかない。ばらつかない誤差は誤差ではない。それは「誤差という形で現れている別の現象」だ。

「いつから」

「気づいたのは三十分前です。ただ、どこから始まったのかは確認できていません。外部基準が使えないので、今この瞬間が正常かどうかも、本当は確認できていない状態です」

「データは全部残っているか」

「はい。ログは全部取れています」

「追加の確認を進めろ。全系統洗い直す。大きな声を出すな。外には何も言うな」

「異常、と言っていいですか」

佐久間は少し間を置いた。「まだ言えない。"ばらつきのない差異が全国で確認された"と言え。それ以上でも以下でもない」

「……はい」

宮坂は静かにキーボードに向き直った。フロアの音はいつも通りだった。打鍵音。プリンタの駆動音。空調の唸り。椅子のキャスターが床を擦る音。何一つ変わっていない。

それがかえって薄気味悪かった。

佐久間は内線を取った。課長補佐に一言だけ伝える。「全国一律のズレ。外部基準の同期不成立。原因不明。記録取ってます」

受話器を置いて、少しだけ考えた。電話している間、手が微かに震えていることに気づいていた。気づいていたが、気づいていないふりをした。現場の責任者が震えれば、フロア全体に伝染する。

外のことは分からない。だが、庁内は守れる。

それが今日の仕事だった。


────


同日 東京都千代田区 国土地理院 午前5時50分


測量データの定期更新作業は、通常なら最も退屈な業務の一つだった。基準点の数値を確認し、前回との差分をチェックし、問題がなければ承認する。判断の余地はほとんどない。

だからこそ、石黒係長は自分の目を疑った。

「これ、全部ですか」

担当者が頷く。「全部です。一か所だけならGPS消失の影響かと思いましたが、これは」

石黒はモニターを見た。全国に散らばる電子基準点、約千三百か所。そのほぼすべてが、同じ方向に、同じ傾向で、同じだけ動いている。

数センチ。一般人が聞けば「誤差」と言って終わる数字だ。しかしここでの数センチは、橋の設計が変わり、トンネルの位置が変わり、航空機の着陸経路が変わる数字だ。

「地震は」

「観測網に痕跡なしです。地殻変動の兆候もありません」

「GPS消失の影響か」

「それも考えましたが、GPS消失でこの種のズレが全国均一に出るとは考えにくい。みちびきの精度が落ちているなら、ばらつきがもっと大きくなるはずです。むしろ全国が均一にずれているというのは、GPS消失とは別の原因がある可能性があります」

石黒は深く息を吸った。国土地理院の仕事は、地図を作ることではない。「この国が、どこにあるか」を定義することだ。測位が狂えば、国境線が揺らぐ。災害復旧の座標が信用できなくなる。自衛隊の射撃諸元も、航空機の進入経路も、すべてが前提不明になる。

「記録と報告だけ上げろ。公表はするな。"ズレが生じている"以上のことは言うな。原因については何も言うな。言える段階ではない」

「了解しました」

石黒は電話を取った。気象庁からだった。彼らも同じことに気づいていた。電話を通じて確認し合う二人の声には、それぞれ「やっぱりか」という色があった。

やっぱりか、という感覚は、安心ではない。一人じゃなかった、という確認だ。だが一人じゃなかったということは、それだけ広い範囲で同じことが起きているということだ。それは、安心材料ではない。


────


同日 東京都千代田区 総務省 午前6時11分


通信インフラを担当するフロアでは、夜勤から早番への切り替えが終わりかけていた。

通常であれば、海外向け回線は時間帯によって波がある。早朝は一度落ち着き、欧州が動き出す頃に再び増える。アジアの市場が開けば東向きのトラフィックが増す。深夜でも、何らかの通信は常に流れている。完全に「静止」することは、まずない。

その朝は、静止していた。

「……返ってきません」

通信監理官の高瀬は、モニターから目を離さずに言った。事実を音にして確かめるための言い方だった。

「どの回線だ」

「国外向け全系統です。政府系、民間、衛星、短波。送信は成立していますが、応答がありません」

「物理的な断線か」

「海底ケーブルの監視も正常です。断線の検知なし。ケーブル自体は生きています。送信ログは積み上がっています。こちらからの声は出ている。ただ返ってこない」

「遮断されているということか」

「遮断なら、何らかのエラーや反射信号が出ます。フィルタリングされているなら、その痕跡が残ります。今は出ていません。ただ単純に、返事がない状態です。繋がっているのに誰もいない、というのが最も正確な言い方です」

上司は椅子に深く座り直した。ため息が出そうになるのを、出さずに飲み込んだ。「確認できないということか」

「はい」

「分かった。記録を続けろ。外には出すな。"不通"という言葉も使うな。不通は原因を含意する。今は原因が不明だ。"応答がない"と言え」

「了解です」

高瀬は電話を切って、再びモニターに向かった。送信ログは淡々と積み上がっていく。こちらからの声は、確かに出ている。

だが、世界は返事をしない。

返事がないということが、不在の証明ではない。ただ、返事がないという事実だけがある。その事実だけを、今日は抱えて業務を続ける。

フロアの外では、東京の朝が始まっていた。通勤する人たちの足音が、廊下の向こうに聞こえる。彼らは何も知らない。知らないのが正しい状態なのかもしれない。あるいは、知らなければならない段階がもうすぐ来るのかもしれない。

今は、まだ分からない。


────


同日 都内某所 金融機関システム監視室 午前6時30分


壁一面に並ぶモニターには、国内市場、海外市場、為替、商品先物、各種指数が表示されている。

更新されない。

エラー表示はない。通信状態も「正常」。APIも生きている。数値は、最後に取得した値のまま固定されている。

担当者の佐伯は、すでに三回、同じ確認を繰り返していた。ネットワーク。正常。API接続。正常。冗長回線。正常。マニュアルの「障害対応フロー」を最初から最後まで追ったが、「該当なし」が続く。

「……市場、動いてないな」

「障害じゃないのか」

「アラートが出てない。全部正常を示している。でも更新が来ない。最後に取得した値から一切動いていない。為替も株も商品も、全部固定されてる」

「取引を試みるか」

「注文は受け付けている。ただし、約定しない。向こうからの応答が来ないから」

「取引停止の告知は」

「どこからも出ていない。取引所からも、当局からも、何のアナウンスもない。ただ止まっている」

佐伯は一度だけ窓の外を見た。東の空が白み始めている。いつも通りの夜明けだ。

「こういうとき、普通は何かあるんだよ」と佐伯は言った。「リーマンショックのときも、コロナのときも、理由があった。動けたのは理由があったからだ。今回は理由がない。理由がないから動けない。動けないから、じっとしているしかない」

「……最悪ですね」

「最悪だ。パニックの方がまだマシだよ。理由のない静止が一番扱いづらい。何をすればいいのかの出発点がない」

画面の数値は、固定されたままだった。時間は動いているのに、市場の時間だけが止まっている。どこかの瞬間から、この世界の時計と、市場の時計が、別々に動き始めているかのようだった。


────


同日 東京都新宿区 防衛省市ヶ谷庁舎地下 午前6時50分


「追尾不能が増えています」

担当官が報告する。

「落下は」「兆候なし」「異常軌道は」「確認されていません」「電磁妨害は」「ゼロです」「攻撃の痕跡は」「ありません」

桐生一佐は腕を組んだ。事故ならば痕跡がある。攻撃ならばどこかに乱れが出る。妨害ならば電磁的な反応がある。自然現象ならば、それに対応する観測データが他の系統に出る。

だがそのどれもない。ただ単純に、追えなくなっている。消えたとも落ちたとも言えない。ただ、見えなくなった。

「"消えた"とは言うな」

「了解です」

「"見えない"と言え。見えないことと、ないことは違う。その差を守れ。見えないなら、見えるようにする方法を考えられる。ないと言った瞬間、そこで終わる」

「……見えなくなっています」

「それでいい。記録を続けろ。何か変化があれば即座に報告しろ。変化がない場合も、変化がないという事実を記録しろ」

桐生は、スクリーンの空白を見た。日本列島の周囲には航跡がある。だがその外側は、白い。広い白さだ。本来なら他国の軍用機、民間機、艦艇の反応が散らばっているはずの空間に、何もない。

空白は未知ではない。未知とは、探せば埋まる余地がある状態だ。これは違う。空白は「見るための手段がない」という確定した状態だ。見えないのではなく、見る手段が存在しない。

その違いを、桐生はまだ言葉にできていなかった。


────


同日 首相官邸地下 危機管理センター 午前7時29分


部屋の空気は重かった。

気象庁。国土地理院。総務省。金融庁。防衛省。それぞれが、それぞれの文脈で「説明できない何か」に直面しており、その報告が今この部屋に集まっている。

情報は、雪崩のようには集まらなかった。むしろ、点が静かに増えていく感覚だった。すべてが別の理由で、同じ場所に近づいている。

「原因は決めない。仮説も並べない。今は、測れるものだけを測る」

相馬が言った。これが今日の方針だ。

「SNSの状況は」柳田美玲内調が言った。「"GPSが使えなくなった""海外に電話が繋がらない"という投稿が増え始めています。通信障害に関連した投稿が中心です。今のところ、断定的な言説は少ない。ただし伸びが速い。午後には大手メディアが動く可能性があります」

「発表文は」

「"一部通信障害"という形の文案なら用意できます。ただ、対象範囲を言うと収拾がつかなくなります。"全通信が途絶"と受け取られると、社会的な混乱が起きます」

「範囲は言うな。"確認中"で止めろ。"対応中"は使うな。対応していると言えば、何を対応しているかを問われる。"確認中"は問われても"まだ確認しています"と言える」

「了解です」

「在日大使館の動きは」

「複数の大使館から、本国との通信が途絶しているとの連絡が来ています。ただし、問い合わせの形で来ており、抗議や要求ではありません。彼らも状況が分かっていない。どこも同じ状況にある可能性があります」

「それは今は言わない。言えば、"日本もまだ分かっていない"ということが伝わる。今はまだ、情報収集中の立場を維持しろ」


────


同日 官邸地下 午後1時


黒崎首相は、日本列島を映す統合状況表示モニターを見つめていた。

「新しく、確認できた事実は?」

誰も答えなかった。分からない、とは言わない。だが、分かったと言える情報もない。

「増えてはいます」藤堂が言った。「ただし、全部"確認できない"の積み上げです。何かが確定したわけではない。確認できないことが、種類として増えています」

「確認できないことが増えていく、か」

「はい。そして、その"確認できない"がすべて同じ方向を向いています。内側は全部正常です。電車は動いている、水道は出ている、発電所は動いている、国内通信は正常。問題は全部、外側との接点で起きています」

「外側と内側の境目はどこだ」

「日本列島の周囲、ある一定の距離から先です。その先で信号が返ってこなくなっている。ただし、その距離を正確に測る手段がまだありません」

黒崎は少し考えた。「範囲を広げろ。哨戒機を出す。護衛艦も動かす。ただし、帰投を絶対条件にしろ。戻れる範囲でだけ動け。戻れないことが一番困る」

「了解です」

「表向きは通常哨戒でいい。変える必要はない。ただ、少しだけ遠くまで見てこい」

「それと」黒崎は全員を見た。「"距離が正しい"という前提は、今日から保留だ。距離の計算値は参考程度に扱え。地図は今日から仮のものだ」

淡々とした言葉だった。だが部屋の中の全員が、その意味の重さを理解した。距離が信用できないということは、地図が信用できないということだ。地図が信用できないということは、国家の意思決定のあらゆる土台が揺らいでいるということだ。

「今日は以上だ。明日また集まれ」


────


同日 夜


白瀬は廊下でメモ帳を出して、三つの言葉を書いた。

「確認できない」「理由がない」「前提」

この三つが揃うとき、人間は最も間違いを犯しやすい。確認できないものを、理由なく、前提で補ってしまうから。補った瞬間、補った前提が現実のように機能し始める。現実のように機能し始めると、誰もそれを疑わなくなる。疑わなくなると、誤りが蓄積する。

それを防ぐためには、「確認できない」を「確認できない」のまま保ち続けるしかない。

どれほど苦しくても。どれほど時間がかかっても。

廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。地下はいつも通りだ。変わらない。変わらないから、誰も立ち止まらない。立ち止まらないから、何かが壊れていることに気づけない。

外では、夜が始まっていた。街の灯りは点き、人々は一日の終わりを迎えつつある。食事をし、テレビをつけ、眠りにつく準備をする。その日常は、今日何かが変わったことを、まだ知らない。

ただ、電話がつながりにくいとか、ニュースの更新が遅いとか、そういう小さな不便として感じているかもしれない。

それでいい。今日は、それでいい。

当たり前は、壊れるときに音を立てない。

それは、この国が静かに理解した、最初の事実だった。


◆準天頂衛星「みちびき」

日本が独自開発した測位衛星。「準天頂軌道」で日本上空に長時間とどまり続ける。GPSの補完用として設計されており、GPS衛星なしでは精度と機能が大幅に低下する。衛星が消えた今、みちびきだけが残っているが、外部の国際標準時との照合ができないため、時刻基準としての信頼性も下がっている。


◆GPS衛星

アメリカが運用する全球測位システム。約30機の衛星が地球全体をカバーする軌道に配置されている。この全球配置のため、日本上空にいた衛星以外はすべて見えなくなっている。


◆電子基準点

国土地理院が全国約1,300か所に設置した測位基準点。今回のズレがGPS消失の影響なのか別の原因なのかの判別ができないことが問題を複雑にしている。


◆ECM(電子戦妨害)

Electronic Counter Measuresの略。敵のレーダーや通信を妨害するための電磁的な措置。今回は妨害の兆候が一切確認されていないことが「意図的な妨害ではない」という判断の根拠になっている。


◆大気屈折

光や電波が大気中を進む際、温度・湿度・気圧の差によってわずかに曲がる現象。日の出時刻の計算値と実測値にズレが生じる原因の一つ。ただし通常は観測地点ごとに異なる値を示すため、「全国同一のズレ」が出た時点でこの説明は成立しなくなる。

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