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首筋に触れた、あの冬の風よりも冷たい鉄の感触を、私は一生忘れないだろう。
――いや、「一生」という言葉は、あの日、あの瞬間に、私の喉を断ち切った刃によって無意味なものへと変えられたはずだった。
熱い液体が溢れ、視界が冬の青空から、どろりとした赤に染まっていく。
民衆の罵声。石を投げる手の動き。そして、執行台の脇で、誰よりも「哀しげな」表情を浮かべながら、その実、満足げに目を細めて私を見下ろしていた、あの男の顔。
カシアン・ヴォル・ゼヴァンス。
私の家を、母を、そして私の命さえも食い荒らした、飢えた獣。
「……っは……!」
跳ね起きると同時に、私は自分の喉を両手で掴んでいた。
指先に伝わるのは、脈打つ確かな鼓動。傷一つない、滑らかな皮膚の感触。
寝台の天蓋から下がる豪奢なレースのカーテン。月光が差し込む静謐な寝室。
そこは、オルディス公爵邸にある、私の私室だった。
夢ではない。あれは、夢などという生ぬるいものではなかった。
私は確かに死んだのだ。オルディス公爵家の長女、エルゼリカとして、全ての罪を被せられ、泥にまみれて。
私は震える手で、枕元に置かれた「それ」に触れた。
それは、一冊の日記帳だった。
この世界のどこを探しても、これと同じ素材は見つからないだろう。革でもなければ、紙でもない。白磁のように滑らかでいて、指に吸い付くような柔らかな弾力を持つ不思議な表紙。
一ヶ月前、亡き父の書斎の隠し棚で見つけたこの日記には、驚くべきことに、これから起こる「未来」が、私の、あるいはオルディス家の破滅へと至る道筋が、克明に記されていた。
最初は、タチの悪い冗談だと思っていた。
けれど、日記に書かれた通りに、母は「病」で急逝した。
日記に書かれた通りに、母の看病に献身的だったはずの紳士――カシアンが、母の死からわずか三ヶ月で、私の継父としてこの館に収まった。
そして今日、日記にはこう記されている。
『聖導暦四〇二年、三月十五日。カシアン、王家秘蔵の宝飾品を盗み出し、それをエルゼリカの私物の中に隠す。彼女の没落、その第一歩なり』
カレンダーに目を向ける。今日は、三月十五日の深夜。
今まさに、運命の歯車が回り始めようとしている。
「……ふふ、あははは……っ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
恐怖? いいえ、違う。
胸を焦がしているのは、氷のように冷たく、それでいて業火のように激しい殺意だ。
私には、魔術の才能など微塵もない。この国の貴族令嬢が嗜む程度の、指先を灯す灯火すら、満足に操ることはできない。
けれど、私にはこの「未来」がある。
そして一度死に、地獄を見てきたという冷徹な覚悟がある。
私は寝台から這い出し、絹の寝間着の上に重厚なガウンを羽織った。
カシアン。あの男は狡猾だ。
人当たりが良く、慈善活動に精を出し、王家からの信頼も厚い。そんな男を今すぐ「不当だ」と告発したところで、狂ったのは私だと判断されるのが落ちだ。
社会的、法的に奴を追い詰める。それが正攻法だ。
けれど、日記によれば、奴はその全ての網を潜り抜けていく。私が仕掛けるあらゆる「正義」は、奴の甘言と偽装工作によって、私自身を縛る罠へと変えられてしまう。
ならば。
「……法が貴方を生かすというのなら。私は、法を捨てるわ」
私は、日記に触れた。
日記の余白に、私は羽ペンを走らせる。
この日記は、ただ未来を記すだけではない。私が「行動」を変えれば、それに合わせて文字が歪み、新たな未来を提示し始める。
私は書いた。
――カシアンが私の部屋に忍び込む、その瞬間のことを。
――そして、彼が最も忌み嫌い、かつライバル視している「アルヴィン子爵」の家紋が入ったカフスボタンを、私が事前に用意していたとしたら、どうなるかを。
カシアンは、ただ私を陥れるだけでは満足しない男だ。
奴は、自分の手を汚さず、常に「誰か」のせいにする。
なら、私も同じことをしてあげましょう。
コン、コン、と控えめな、けれど私の耳には死神の足音のように響くノックの音がした。
「エルゼリカ。まだ起きているかい? 少し、母さんの形見について話したいことがあってね」
扉の向こうから聞こえる、あの猫撫で声。
カシアン・ヴォル・ゼヴァンスだ。
彼は、私がまだ何も知らない、世間知らずの小娘だと思っている。母を亡くし、縋る相手を求めている可哀想な羊だと。
私は鏡の前に立ち、自分の顔を確認した。
頬を少し叩いて赤らめ、瞳に不安の色を浮かべる。
かつての私なら、本当に不安だった。けれど今の私は、鏡の中の自分を「最高の役者だわ」と冷ややかに評することができる。
「ええ、お父様。どうぞ、お入りください」
扉が開く。
入ってきたのは、仕立ての良い漆黒の燕尾服に身を包んだ、優男だった。
三十代半ば。整った顔立ちに、知的な瞳。その瞳の奥に潜む、底なしの貪欲さを隠しながら、彼は微笑んだ。
「夜分に済まないね。寂しがっているのではないかと思って」
彼は私の手を取り、いたわるように包み込んだ。
その手の平の下で、彼が何を持とうとしているか、私は知っている。
小さな、王家の刻印が入ったサファイアのブローチ。
彼は私と会話しながら、さりげなく私のドレッサーの引き出しにそれを滑り込ませるつもりだ。
私は、彼の胸元に視線を落とした。
そこには、彼の自慢である完璧な結び目のネクタイ。
私は、よろめくふりをして、彼の胸に飛び込んだ。
「……お父様、私、まだ母がいない実感が湧かなくて……」
「おお、可哀想に。私がついているよ、エルゼリカ」
抱きしめられ、その背中に手を回しながら、私は指先を動かした。
彼のポケットから、彼が用意していたブローチを「抜き取る」のではない。
そんな子供騙しはしない。
私は、彼がブローチを隠そうとする「その瞬間」を待った。
日記にはこうあった。
『午前二時十五分。エルゼリカが涙を拭うために目を離した隙に、カシアンはドレッサーの第二引き出しにブローチを置く』
その通りに、私は目を伏せ、ハンカチを取り出す。
カシアンの手が動く。
カチリ、と微かな音がした。
彼は満足げに笑った。これで数日後、騎士団が家宅捜索に訪れた際、私は「王家の至宝を盗んだ大罪人」として連行されることになる……はずだった。
けれど。
彼が部屋を出て行った後、私はドレッサーの引き出しを開けた。
そこにあるのは、ブローチではない。
私は、彼がブローチを置こうとした瞬間に、自分の袖口に隠していた「ある物」を彼の手に押し込み、代わりにブローチを奪い取っていたのだ。
彼が今、自分のポケットに戻した(あるいは隠したと信じ込んでいる)ものは、私が用意した偽造工作品。
彼が密かに敵対している、急進派貴族の筆頭・アルヴィン子爵の隠し紋章が刻まれた、毒入りの小瓶だ。
明日、彼は自分の持ち物の中に、それを見つけることになる。
自分が誰かを陥れようとしたその手で、自分が最も恐れる相手からの「宣戦布告」を握らされていたことに、彼はいつ気づくだろうか。
私は手の中に残った、本物のサファイア・ブローチを見つめた。
月の光を吸い込んで、それは残酷なまでに美しく輝いている。
「まずは、貴方の『完璧な紳士』という仮面を、法の名の下に剥ぎ取ってあげる」
私はブローチを、あえてそのまま引き出しに戻した。
ただし、彼が置いたのとは違う、より目立つ場所へ。
そして私は、もう一度日記を開く。
文字が、蠢いている。
未来が、書き換わっていく。
没落の日は、遠のいた。
けれど、まだ「消えて」はいない。
日記の末尾に、新しい一文が浮かび上がった。
『……しかし、カシアン・ヴォル・ゼヴァンスの執念は、法の裁きすらも食い破る。彼は獄中から刺客を放ち、オルディス邸を火の海にするだろう』
私は、その文字を冷ややかに見つめ、羽ペンを強く握りしめた。
「そう。やっぱり、生かしておいてはダメなのね」
社会的な破滅は、あくまで序曲。
彼が最も絶望し、誰も信じられなくなったその瞬間に、私の手で引導を渡してあげる。
それが断頭台で果てた私の、ただ一つの誓い。
窓の外では夜の闇が深まっていた。
私の戦いはまだ始まったばかりだ。
「……まずは明日。あの『影』の一族の男を、買いに行かなくては」
日記に記された、もう一人の重要人物。
イグナート・レ・ヴァルセラム。
私の復讐の共犯者となる男の名を、私は唇の中で転がした。
冷たい風がカーテンを揺らす。
私は二度と戻らない安らぎを捨て、血塗られた未来へと足を踏み出した。




