第二十二話
労るような抱擁を解いたあと。
圭介は、葉山へ向けて車を走らせた。
横浜横須賀道路を経由して、逗子ICに降りる頃。
CDは、ジョシュア・レッドマンの"BEYOND"に変わっていた。
明の好きなアルバムだ。
その左手に縋るようにして、明は、束の間の眠りに落ちていた。
圭介の優しさと、温もりを感じながら。
そんな明を、愛おしく思う一方で。
片手でステアリングを操る彼は、複雑な気分だった。
世界的に有名な指揮者である父と、天才ピアニストの母を持つ明。
名門の肩書きは、彼女には重過ぎるのだろう。
そのせいか。
余りある才能を持ちながら、明は敢えて、ジャズ・ピアニストの道を選んだ。
都内のマンションで一人暮らしをし、日本各地で演奏活動をする傍ら、スタジオ・ミュージシャンとしての仕事に甘んじているのだった。
「お前ほどの奴がさ。ほんと、勿体ないよな…」
六本目の煙草に火を点けながら、圭介は思わず一人ごちる。
明とのGigが終わったあと。
その演奏の素晴らしさに胸震わせながら、彼は、いつも思うのだ。
明の実力なら、海外でも充分通用するだろうにと。
実際。
日本人であり、女性であるというハンディを抱えながらも、明は成功した一人だった。
十六歳でデビューして以来、早熟の天才と称され、多くのミュージシャンに愛されていた。
クラシックからポップス、歌伴からビッグ・バンドまでそつなくこなす明は、ニューヨークでも重宝がられていた筈だ。
それなのに。
何故、生まれた土地を捨て、友人達を捨て、日本に戻って来たのだろうと。
エージェントとトラブルがあったという説もある。
彼女の我儘のせいだと陰口を叩く奴もいる。
男女関係のもつれから、コネクションを失ったという噂を聞いたりもした。
しかし。
ことの真相を知る人間は、二人しかいない。
本人と、彼女のマネージャーである坂口晴男と。
あれほど慕っている銘にすら、彼女は、自分のことを殆ど話さない。
日々の軽口と鋭い言葉の端々に、圭介は以前から、明の底知れない孤独を見ていた。
だからこそ。
彼女を理解し、支えてやりたかったのだ。
暗闇を、ヘッドライトが切り裂いていく中。
入り組んだ坂道を上がりきったところに、灰水色の古びた洋館が見えてきた。
明の母、青の生家だ。
蔦の絡まる門を抜け、車を駐車場に入れたところで、ようやく明が目を覚ました。
「着いたぞ」
「うん」
彼女は圭介の腕を離し、伸びをして、物憂げに車から降りた。
それから、溜息を一つつく。
気丈に見える明だが、母親に会う時だけは、どうしても気が重くなるようだ。
暗がりの向こうに、逗子の夜景が広がっていた。
そんな、美しい景色の中で。
明はまた、溜息をつく。
その背中を、圭介は平手で叩いてやる。
「大丈夫。俺がいるだろ?」
「まあ、そうだね。一人よりはましかな」
「おふくろさん、覚えててくれるといいけどな」
「さあ、どうだか。下手すると、僕のことさえ忘れてる人だから」
そう言って。
彼女は、肩を竦めて見せた。
広いエントランスを潜ると、黒い石畳の床には、沢山の木の葉が落ちていた。
「お帰りなさいまし」
玄関の灯りを点けながら、スガが、笑顔で出迎える。
「ただいま。青はまだ寝てる?」
「もう、お目覚めですよ」
「どうしたの、これ」
「ああ。昨晩は風が強くて。一階の窓を、お嬢様が全部開けてしまわれたのですよ」
この家に長年仕える老婆が、恭しくお嬢様と呼ぶのは、明ではなく、彼女の母のことだ。
初めてこの家に来た時、圭介はそのことを不思議に思ったのだが、
青に会って、大いに納得したのだった。
「へぇ、一階まで降りてくるなんて、珍しいね」
「ええ、先程お紅茶をお淹れしましたけど、大層ご機嫌が宜しくて」
「ほんと」
玄関前から続く階段に、足をかけた時。
明は、思い出したように付け加える。
「スガさん、ごめん。彼の寝る部屋を用意して貰える?」
「畏まりました。明さんと、ご一緒で?」
「あ、そうか。じゃあいいや。僕の部屋だけで」
「畏まりました」
そう言って、丁重に頭を下げたあと。
スガは、圭介に微笑みかける。
「宜しゅうございますね、お若い方は」
「いや、あの、すいません。そういうんじゃないんで、俺」
当惑しながら、圭介は首を振る。
何度か一緒に来ているせいか、スガは、彼を明の恋人だと思っているようだ。
その時。
明が、にっこりして言う。
「スガさん、彼、ゲイだから。ただの友達だよ」
「は? 芸ですか?」
スガは、首を傾げる。
「うわ、馬鹿。何言ってんだ!」
圭介は慌てて、明の口を塞ぐ。
その様子を。
スガは、くすくす笑いながら見ている。
「あらあら、相変わらず仲のお宜しいこと」
曖昧に微笑して、階段を上り終えたあと。
圭介は、明を睨みつける。
「何考えてるんだよ! 婆さんにあんなこと言うなんて」
「どうせ判らないよ。スガさんは、前世紀の遺物みたいな人だから」
「だからって…」
そう、言いかけた時。
薄暗い廊下に佇む人影に、彼は気付いた。
明もまた、その視線を感じて、振り返る。
古めかしいシャンデリアの光に透ける、金色の長い髪。
ゆったりと風に靡く、アンティーク・レースとオーガンジー。
肩から腰にかけての滑らかな曲線、完璧なシルエット。
その女性は。
とても、生身の人間とは思えなかった。