表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
青の旋律  作者: 一宮 集
21/55

第二十一話

体を重ねたまま。

肩で息をし、激しい動悸を堪えながら。

彼は彩を、きつく抱き締めていた。


それでいて。

彼には、信じられなかった。

彼女がまだ、無垢な体であったことが。


銘の背を抱きながら。

彼女は、そっと囁いた。


「…驚いたでしょう」


そう言うと。

彩は、愛おしそうに、彼の耳に口付けてくる。


「24にもなって、しかも、結婚して三年も経つのにって…」


彼は、答えられなかった。

苦しさと切なさは、込み上げるばかりで。

どんな想いも、言葉になりはしない。


上体をやや起こすと。

銘はあらためて、彼女に口付けした。

柔らかな唇を、何度も求めているうちに。

愛しさに、息が止まりそうになる。


唇を離し、彼女を抱き締めた頃。

世界は、薄らと明るさを取り戻しつつあった。

彩の温もりと、うっとりするような肌の滑らかさを。

彼は、生涯忘れまいと思った。


「…彩さん」


「うん」


「良かったの? 俺で…」


返事の変わりに。

彩は、彼を抱く腕に力を込める。

その目から溢れ出す温かい涙を、彼は、指先で感じていた。


「これまで何度も、恋をして。でも、誰も、応えてなんかくれなかったの…わたし、見つけて欲しかった。ずっと。ここから、連れ出して欲しかったの…」


彼は、頷いた。

その涙を、そっと指先で拭いながら。


「ねえ、信じられる? わたしね、十六であの人と出会って…それから一度も、こういう風になったことはなかった。結婚前は勿論、してからもずっと…」


「……」


「槙村が求めているのは、お人形さんなの。綺麗に着飾って、家にいるだけの。パーティーがある時、横に並んで、ただにこにこしているだけのお人形さん。…彼が愛しているのは、絵と、絵の中のわたしだけ。現実のわたしは必要なくて」


銘は、頷きながら、彼女の言葉に耳を傾ける。


噂には、聞いていた。

彼女が元々、槙村英のモデルであったことを。


五年もの間、彼を支え続けてきた彩を。

槙村は、何があっても手放したくはなかった。

だからこそ。

糟糠の妻を捨て、彼女と一緒になったのだ。

丁度。

レンブラントが、若き家政婦ヘンドリッキェを求めたように。


「だから、この八年間、知らなかった。誰かを心から愛することも、愛されることも。何も知らずにこのまま、年を取って死んでいくんだろうなって思ってた。…銘さんに会うまでは」


彼の腕の中で。

感情の昂りを必死に堪えながら、彩は続ける。


「ずっと、誰にも言えなくて。でも、辛かった。逃げ出したかった。出来ることなら。誰かを好きになったとしても、誰一人として、わたしを助けてなんかくれなかった」


「……」


「最初は、あんなに優しくしてくれたのに…皆、簡単にわたしを見捨てるの。わたしが、槙村英の妻だから。禁忌(タブー)を犯してまで、付き合うつもりはないって…」


「…それは、判るよ。俺だって最初は、迷いがあったから」


「銘さんも、逃げ出したかった…?」


「逃げ出したいって訳じゃないけど、やっぱり…いけないことだとは思ったよ」


彼はその額に口付けし、微笑んでから、そっと体を離した。

その時。

夥しい血が、互いの半身を染めていることに気付いた。

微かな罪悪感と共に。

初めて、銘は悟った。

あの夢が、何を示唆していたのかを。



真っ白な絹布で、彩の体を拭いてやりながら。

銘は、外した腕時計を拾い上げ、時間を確かめる。


「…大丈夫?」


不安そうに、彩が訊く。


「大丈夫。飛行機の中で、一時間ぐらいは眠れるだろうから」


「シャワー、する?」


「その方がいいだろうね」


そう、答えながら。

彼はまた、彩に口付ける。

美しい体を捉え、優しく抱き締めながら。



豪奢なバス・ルームで、一緒にシャワーを浴びながら。

銘は何度も、彼女とキスを繰り返す。

温かく濡れた肌を合わせ、髪を撫でているだけで、

心はどうしようもなく満たされていく。

こんなことは、初めてだった。



彩の部屋は、三階の一角にあった。

青色のグラデーションの中にぽつりと置かれた、淡いピンクのベッド。


「別々に寝てるの?」


「そう。必要のある時だけ、彼の部屋へ行く形なの」


「必要って ―― 」


思わず、彼はそう訊きかけた。

被せるように、彩が言う。


「彼はわたしを愛してはくれないけど、時々、奉仕は求めるの。…判るでしょう?」


銘は、何と答えていいか判らなかった。

戸惑って、彩を見る。

彼女は微笑んで、彼の首に腕を回してくる。


「でも、もう、それもおしまいにする。わたしは、銘さんのものだから…」


それから。

彼は彩を抱き上げて、ベッドまで連れていく。

まっさらなシーツの上で、彼女と抱き合った時。

ようやく、実感が湧いてきた。

愛する女性と、初めての朝を迎えたことの。


小さな体を抱き締め、瞳を合わせると。

彩は微笑みつつ、唇を重ねてくる。


穏やかな抱擁と、優しい言葉の中で。

彼はもう一度、彩を求めた。

明けゆく空の青と、太陽の赤が溶け合っていくように。

しっかりと繋がれた心を、その感触を、何度も確かめ合いながら。





午前六時。

結局、銘は一睡もしないまま、ベッドを抜け出した。

彩の眠りを妨げないように。


気怠い体を無理に起こして、服を身に着けていく間。

銘は、彼女の寝顔をずっと眺めていた。


(このまま、離れた方がいいのかもしれない…)


静かに、ベッドの端に腰を下ろしてから。

彼はふと、そんなことを思った。


柔らかな髪を撫で、額に口付けしようとした時。

彩の小さな手が、彼の手に触れてくる。


「あ、ごめん。起こしちゃったかな」


銘は慌てて、体を離す。


「ううん。いいの」


はにかむような笑顔を、彩は浮かべた。

胸の奥が、俄かに熱くなる感触。


朝の日差しの中で、触れ合うだけの口付けを交わしながら。

銘は、確信していた。

彼女を失うことなど、考えられないと。


素裸の彩をシーツごと抱き締めて、彼は言う。


「彩さん…電話してもいい?」


「うん。わたしにも、携帯の番号教えてくれる?」


「あ、ごめん。携帯、持ってないんだ」


「え、そうなんだ。じゃあ、どうしよう…」


「四日後には帰るから、店に電話して。どうせ、俺しか出ないから」


「判った」


その時。

彼は、ふと閃いた。


「向こうに行ったら、買うよ。買ったら、真っ先に彩さんに電話する」


「ほんとに?」


「うん。本当は嫌いなんだけど。彩さんのためなら」


「嬉しいな。じゃあ、わたしのを教えておくね」


彼女は手を伸ばし、アンティークなサイドテーブルの上から、青いメモ用紙を取った。

自宅の番号と、携帯の番号を書くと、銘に手渡す。


「どっちでもいいから、いつでも電話して」


「判った。向こうに着いたら、一度電話入れるよ」


「うん」


「番号決まったら、必ず連絡するから」


「うん」


「それと…」


彼は、ちょっと迷ってから、あらためて口を開いた。


「木曜日、いや、水曜の夜、また会えるかな」


彩は、黙って彼を見詰めていた。

何もかも、見透かされてしまいそうな瞳を向けて。


「銘さん…」


「うん」


「…また、会ってくれるの?」


「会いたいよ。今だって本当は…あなたといたいくらいだ」


息がかかるほどの距離にいて、瞳を合わせながら。

銘は、彼女の頬を、両手でそっと包み込む。


「待っててくれる? 俺が、帰って来るまで」


彩は、何度も小さく頷く。

その拍子に。

長い睫の先から、涙がこぼれた。


「心配、要らないからね」


「うん」


「必ず、電話する」


「うん」


彩は、懸命に笑顔を返そうとするのだが、涙は止まらない。

堪えきれず、彼はまた唇を重ねていく。

溢れる愛おしさに突き上げられながら。

彼女と離れる苦しさに、胸塞がれながら。

 

 

 

 

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ