第二十話
芝浦に向け、車を走らせている時。
彩は、思い掛けない言葉を口にした。
「…銘さん」
「うん」
「…うちまで、送ってくれる?」
「え?」
彼は思わず、彩を見た。
彼女は俯いたまま、膝の上で、手を握り締めている。
「迷惑でなければ」
「まさか。迷惑だなんて…」
そう、答えつつ。
彼は俄かに、緊張を覚えていた。
その言葉に秘められた意味を。
彼はすぐに、理解していた。
彩は、踏み出そうとしているのだ。
これまで、銘自身が決して踏み出せなかった、最初の一歩を。
その決意を思うだけで。
彼の鼓動は、みるみる高鳴っていく。
苦しいほどに。
いつも彼女を降ろす場所から、2キロほど進んだ辺り。
槙村邸は、埠頭の近くにあった。
広大な敷地の只中に、ぽつりと佇む純白の家。
正方形の建物は、何の飾りもない。
窓やドアといったものさえ、恐ろしく無機質で。
住居と言うよりはまるで、私設の美術館のようだ。
玄関に続く小道には、美しい白砂が敷かれている。
踏み締めるたびに、細かな砂が、軽く軋む音がした。
「これは、クレタ島の砂なの。いつの間にか、彼、持ってきたみたい」
彩は、事もなげに言う。
そして、慣れた足取りで、その砂の上を歩いていく。
やや遅れて、銘もそのあとに続く。
何の飾り気もないドアに、彩が、クラシックな真鍮製の鍵を差し入れると。
かちりと、小気味良い音がした。
「どうぞ」
「お邪魔します」
彼は、恐る恐る玄関に足を踏み入れた。
建物の半分は吹き抜けになっており、そこがリビングとして使われているようだった。
南側の片隅に、二階へ通じる階段があった。
空気は思ったより冷やりとしていて、仄かな画材の匂いを孕んでいる。
小さな彩の姿を見失わないように、彼は階段を上った。
毛足の長い絨緞の感触を確かめながら、三階まで上っていった時。
不意に、彩の姿が消えた。
「…彩さん?」
彼は、不安になって声をかける。
しかし、返事はない。
暗い廊下を進んでいくにつれ、明らかに空気が変化した。
開け放たれた窓から流れてくる、潮の香り。
導かれるように足を運んでいるうちに、恐ろしく広い部屋に出た。
特殊なガラスを巡らせた空間の中で、銘はゆっくりと首を巡らせる。
その部屋からは、東京湾が一望出来た。
何処までがネオンで、何処からが星空か判らないほどの、クリアな夜景。
余りの美しさに。
彼は思わず息を呑み、その場に立ち竦む。
その時。
「 ―― 銘さん」
彩の声がした。
彼ははっとして、辺りを見回した。
しかし、彼女の姿は、何処にも見えない。
「ねえ、わたしを探して…」
その言葉に、導かれるようにして。
暗さに目が慣れないまま、彼は歩き出す。
広い部屋の一角には、画廊にあったような絹布が、高い天井から吊るされている。
何重にも立ち塞がる布を避けながら、彼は懸命に彩を探した。
そのうちに。
奇妙な既視感が、彼を襲い始める。
そう。
あの、渚の夢だ。
彩を求めつつ、彼は恐れていた。
もしあの夢が本当なら。
自分は何れ、彼女を傷付けることになるかもしれないと。
しかし。
今更、引き下がる訳にはいかない。
(彼女は、俺を試しているんだ)
ようやく、目が慣れてきた頃。
銘は、そう確信していた。
潮風の吹き込む暗がりの中、はためく白布を掻い潜りながら。
彼は諦めることなく、彩を探し続けた。
(死角は、この辺りしかない。だとしたら…)
そして。
星灯りに映る影を、通り過ぎようとする彩の姿を。
彼の目は、ついに捉えた。
その腕を掴み、華奢な肢体を抱き締めた拍子に。
布を吊っている糸が、ぷつりと切れた。
それは、ようやく出会った二人の上に、ふわりと落ちかかる。
大理石の床に、広がる布の上に彼女を横たえながら。
銘は、これまでにない息苦しさを感じていた。
明らかに、異常な痛みを。
不意に。
彼の執刀医だった、松村教授の言葉を思い出す。
( ―― 銘くん。恋は、君の体に障るからね。そのことを、よく覚えておきなさい)
しかし。
彼にはもう、止められそうもなかった。
命の危険を抱えながら、彩を愛することを。
その腕の中で。
彩は真っ直ぐに、彼を見詰めてくる。
ひたむきに、彼だけを見ている。
床に広がる亜麻色の髪、美しい瞳に。
彼は、長い間見とれていた。
何か言わなくては。
そう、思いはするものの。
言葉は空回りするばかりで、何の役にも立たない。
一方で。
冷静な自分は、なおも押し留めようとする。
禁忌を犯してはならないと。
しかし。
彩を思う気持ちの前で。
理性は、あまりにも無力だった。
「…銘さん」
彩が、口を開く。
その呼吸もまた、速かった。
「離さないで。嫌いにならないで…わたしのこと…」
その言葉に。
彼は今にも、魂を奪われてしまいそうだった。
「離さないよ。離すものか、もう…」
苦しい息の下で、銘は、何とか言葉を繋ぐ。
「どんな罰でも、俺は受けるよ。彩さんのためなら、俺は、何だってする。あなたと、こうして、いられるのなら ―― 」
彩の腕が、自分を強く抱く。
まるで、何かの合図のように。
その唇に、唇を重ねた時。
彼は、覚悟した。
これから先、全ての運命を受け入れることを。
彼女のために、越えていかなければならない試練を。
熱い口付けを交わし、服を脱ぎ捨てたあと。
彼は初めて、彩の肌を知った。
時折襲う胸の痛みに、意識を失いそうになりながらも。
銘は、彼女を愛することを止めなかった。
その吐息を、切ない声を耳元で聞くたびに。
思いは、募るばかりだった。
やがて。
請われるままに、彼女を貫こうとした時。
彼は、予想外の抵抗を感じた。
しかし。
躊躇うことを、彩は許さなかった。
彼女は、銘の体を強く引き寄せる。
何もかも、判っていたように。
そして。
ついに、その封印を解かせた。
何度も繰り返す、官能的な揺らぎの中で。
彼は今にも、自分を見失ってしまいそうだった。
このまま、命が尽きてしまってもいい。
たった一度でも。
彼女と、結ばれることが出来るのなら。
薄れそうになる意識と戦いながら。
彼は、何度もそう思っていた。
そして、その思いが伝わったかのように。
彼女の四肢には、みるみる緊張が漲ってくる。
その吐息が、啜り泣くような声に変わっていく。
限界は、近かった。
彼が、その細い体を抱き締め、さらに深く求めようとした時。
彩の小さな悲鳴が、耳元を掠めた。
ほぼ、同時に。
彼もまた、解き放たれていく。
痛みを伴うハレーションと、痺れるような感触の中で。
これまで味わったことのない、切なさの中で。