episode3-12
身動き一つ取れなかった。予想だにしない展開の数々に、もはや頭も体も混乱状態だった。
話は数分前に遡る。
昇降口を出たところで、僕の前を走っていた麻倉先生が、急に立ち止まった。彼女は昇降口付近の水飲み場の後ろに隠れ、僕にもこちらに来るよう指示した。
「どうしたんですか。早く中学校に行かないと」
「いいんですよ。私たちはここで待機です。それが、道元先生の作戦です」
「さ、作戦?」
「はい。そうです」
そうこうしているうちに、彼女の携帯電話が震えた。電話ではなくメールのようだった。彼女は画面を見るなり立ち上がり、こう言った。
「どうやら体育館のようです。行きましょう」
わけがわからぬまま、僕は麻倉先生のあとをついて行った。途中、何度か彼女に事情を説明するよう言ったが、いいから急いで、と相手にしてもらえなかった。そうこうしているうちに、体育館に到着してしまった。
そして、この状況に出会したのである。体育倉庫の前で対峙する道元先生と亘先生、そしてその奥で体の自由を奪われている木村翔。
「木村君!? それに亘先生……え、これは、何が……え?」
何だこれは。何が起きている。
「なんだよ、こんなところにいたのか」
背後から声が聞こえたので振り返ると、そこには岡部銀河を連れた久茂先生が立っていた。少し息があがっているのを見ると、どうやらあちこち探しまわったらしい。
「岡部を連れてこいっていうからいう通りにしたってのに、どうして会議室にいないんだ。体育館に行くなら最初から……」
文句を垂れる久茂先生が、不意に言葉を切った。
「……おい、児玉先生。こりゃ一体どういうことだ。あの縛られてるやつ、もしかして木村ってやつか」
「い、いえ、あ、いやそうです。木村君です。でも僕には何が何だか」
とまどう僕と久茂先生を尻目に、麻倉先生は道元先生を呼んだ。
「あら、みんな来たわね」
「みんな来たわね、じゃないですよ。これはどういうことなんですか。どうして、どうしてこんなところに木村君がいるんです。しかも、そんな格好で……それに亘先生も。先生は、職員室で待機しているはずじゃ……!」
「亘先生よ」
「え?」
「亘先生が、この子を縛り上げたのよ」
……は?
「おい、それは一体どういうことだ! 亘先生、あんた……」
「ご、誤解ですよ久茂先生! それに、道元先生も……」
亘先生は酷く慌てた様子だった。よく見ると、手に何か握られている。照明と太陽光に反射され、それが銀色に光った。あれは……ま、まさか、ナイフ?
「僕はただ、偶然ここに来て、たまたま木村君を発見しただけなんです。それで、助けようとして……本当です。信じてください!」
「あらそうなの。だったら、あなたの手に握られているものは何なのかしら」
「こ、これは……そうです、タオルがなかなか解けなかったので、これを使って切ろうとしたんです」
よく見ると、彼が手にしているのはサバイバルナイフのようだった。しかしなぜ、亘先生はあんなものを……。
「なるほどね。そんなもの、一体どこにあったのかしら。学校にそんな備品はあるわけがないし。まさか亘先生の私物じゃないわよね」
「いや、これは、護身用、みたいな……」
なんだこれは。どうして亘先生はサバイバルナイフなんか持っているんだ。どうして木村は手足を縛られているんだ。犯人は木村大助じゃないのか。道元先生は、道元先生は全てを知っているのか。
「『そのかわり誰にも見られるなよ。体育館裏の非常口を使え。いいか、もし誰かに見られたら、マジでぶっ殺してやるからな』」
突如、亘先生の声が静かな体育館に響いた。しかしそれはくぐもったような、なんとも聞き取り辛い音声だった。
「……なんですか、今の」
僕は道元先生の背中に問いかけた。
「これよ」
そういって、道元先生は自分の携帯電話を取り出した。どうやら、ムービー再生機能を起動しているようだ。
「悪いけど、さっきの中での会話は全部聞かせてもらったわ。あなたが翔君を脅しているところ。『遊び』を中止にしたこと。全部よ」
木村を脅す? そんな……どうして。亘先生が、あの亘先生が……。
その時、隣にいた久茂先生が動いた。大きな図体からは想像もできないほどの俊敏な動きで道元先生の横をすり抜け、そのままのスピードで亘先生に飛びかかった。対する亘先生は咄嗟にナイフを構えたが、時既に遅し。久茂先生の超烈な蹴りが腹部に命中し、亘先生は体ごと後方へ吹っ飛ばされた。倒れた拍子にナイフを手放してしまった亘先生は、そのままうつぶせに倒れ、久茂先生によって押さえ付けられた。
僕は亘先生が身動きを取れなくなったことを確認してから木村に近づき、硬く結ばれたタオルのようなものをなんとか解き、それを使って今度は久茂先生と一緒に亘先生の手足を縛った。
頭の中での整理はまったくできていなかった。しかし、亘先生がおかしいことは体が判断した。本能的危機感のみで、僕は亘先生を縛り上げたのだ。
「おい、てめえ、一体なにをしたんだ。お前は、この子に何をしたんだ!」
久茂先生が亘先生に凄む。身動きが取れない亘先生に対して馬乗りになり、襟を締め上げた。
「……どうして」
亘先生が苦しそうに呻いた。
「どうして、分かったんだ。あんたらは、木村大助が犯人だと睨んだんじゃないのか」
普段の温厚そうな亘先生はそこにはいなかった。久茂先生に締め上げられながらも横目で道元先生をキツく睨むその姿は、まるで血に飢えた怪物のようだった。
「木村大助?……ああ、あれ。あんなの嘘に決まっているじゃない」
亘先生の剣幕をものともせず、道元先生はあっけらかんと白状した。
嘘? 木村大助が犯人だという彼女の言葉は、全て嘘だというのか。
「……嘘って、じゃ、木村大助は」
「そうよ。あなたが犯人であるという決定的な証拠を得るためについた嘘。まんまと嵌ってくれたわね」
そういうと、道元先生はくるりと身を翻し、僕の方を向いた。
「児玉先生。あなたは机に書かれた文字を見て、全ての犯人は銀河君だと考えた。そうよね?」
背後で、ハッと息を呑む音が聞こえた。振り向くと、岡部銀河が驚愕の表情を浮かべていた。ばつが悪い、などという言葉では表しきれないほどの気まずさだった。
「……はい」
仕方なく、白状した。
「でも、それは真犯人の策略だった。犯人は落書きに、小学生が書くには難解な漢字を敢えて用いることで、疑いの目を銀河君一人に向けようとした。あなたが考えたように、難解な漢字を使えるのは、学年一の秀才である銀河君でしかありえないと、私たちに思い込ませるように」
返す言葉もなかった。僕は、犯人の目論みにまんまと嵌ったのだ。
「でも、犯人はある大きな過ちを犯した」
「過ち……」
「そう。犯人は知らなかった。銀河君が、そんな難解な漢字を用いるわけがないことを」
……そうか、そういうことか。
亘先生はあのことを知らなかったのだ。あの時の亘先生の言葉。おかしいと思ったのだ。どうして亘先生は、こんなことを言ったのだろうかと。
『運動が苦手な子が利き手でない方で投げても、それくらいは飛びそうですが……』
「そうか……亘先生は知らなかった。岡部君が、漢字を書けないことを」
授業で用いたプリントの、あのミミズが這ったような文字。極端に記録が低いソフトボール投げ。そして、サッカーができない理由。
「そう、知らなかったのよ。銀河君が、右手の人差し指と中指を骨折していたということを」
「……こ、骨折……?」
亘先生は、その言葉自体を初めて聞いた、というふうな反応を見せた。きっと、それほどまでに意外だったのだろう。
「骨折って、おい、一体どういうことだ」
そして同じ反応を見せたのがもう一人。亘先生を押さえ付けている久茂先生だった。
「やっぱり、久茂先生も知らなかったんですね」
麻倉先生が言った。ということは、彼女は知っていたのか。いや、そう言えば、彼女から岡部の手の怪我について心配されたことがあった。大森が岡部を突き飛ばしたあとのことだったように記憶している。
「そう。銀河君は右利きだけど、指を骨折していたから最近は左手を使っていた。もし骨折していたのが腕だったら目立ってしまったかもしれないけど、指だから手に包帯をして固定しているだけだったし、冬は長袖を着るからそれも見え辛かった」
これが以前の、左利きが右利きに矯正されていたような時代だったらもしかしたら不自然に思ったかもしれないが、当然ながら、現代には左利きの人間は五万といる。
「慣れない左手で画数の多い漢字をわざわざ用いるなんてあり得ない。普通は、画数の少ないカタカナを用いるでしょう。それに、学年一の秀才ならわざわざ疑いの目を自分に向けるような書き方はしない」
どうしてそこまで頭が回らなかったのだろうと、己の間抜けさを呪った。やはり心の何処かで、僕は最初から岡部を疑ってかかっていたのだ。
「犯人は難しい漢字を使うことで銀河君を犯人に仕立て上げたかったのだけれど、それが却って自分の首を絞める形になってしまった。犯人は銀河君が骨折していることを知らない人物、という新たなフィルターを作ってしまったのね。間抜けな話だけれど」
「……ちょっと待て」
道元先生を睨みつけたまま、亘先生が言った。
「岡部の骨折を知らなかった奴が犯人? 笑わせるな。そんな奴、僕以外にも大勢いるはずだ」
「あらそうかしら。結構絞られると思うけど。だって、まずこの時点で同じクラスの子では決してあり得ないわね。骨折を知らないわけがないから。それに私と麻倉先生、児玉先生も知っていたから除外。さらにうちのクラスの大森君もないわね。彼が木村君の机をねらうことなど出来ないし、例え木村君と同じクラスの子に聞いたとしても、その子がずっと黙っている理由がない。第一、あの子は確実にあんな漢字は書けないし書く必要がない。同じ理由で、この小学校のほとんどの児童が除外されるわ」
「……お前が言った、こいつの兄貴はどうなんだ」
「それもないわ。児玉先生が木村大助君とお話しした時、彼は『弟とよく会話をしている』という発言をしたと聞いたわ。翔君はきっと、お兄さんに話していると思った。銀河君が骨折したんだって」
「そんなの、憶測じゃないか」
「憶測じゃないわ。電話して直接聞いたから」
いつの間に……。いや、もうこの程度では驚かなくなってきた。
「あ、でもちょっと待ってください」
「なに? 児玉先生」
「他の先生はどうです。五年生の担任だったら分かりませんけど、ほとんどの先生は、岡部君が骨折していることを知らなかったんじゃないですか。それなのに、どうして犯人は亘先生だと断定できたんですか」
児童が骨折したという情報は一度流れたかもしれないが、誰が骨折したかをはっきり覚えているものは少ないだろう。
「そうね。確かに銀河君の骨折はあまり知られていないかもしれない。でも逆に、木村君が誰かに暴力を振るわれていて、岡部君が疑われていることを知っている先生も少ないはずよ」
「あ……」
そうだった。この問題は、何も学校全体で取り組んでいた問題ではない。だって道元先生が、彼女と麻倉先生、亘先生、久茂先生、そして僕というグループを組んだのだから。岡部の骨折を知らないような先生たちは、木村が腕に痣を作ったことさえ知らない。
「そうか。つまり、この事件の流れを知っていて、岡部君が犯人ではないかと疑われていることを把握し、なおかつ彼の骨折を知らない人物が犯人。確かにこれなら、亘先生だと絞り込むことが……」
……いや、できない。
「……おい。それだと、俺も犯人候補になっちまうじゃねぇか」
心外そうに久茂先生が言った。そうだ。久茂先生の言う通り、彼もまた岡部の骨折は知らなかった。つまり彼と亘先生のどちらかが犯人、というところまでしか絞り込めない。
「そう。正直、どっちが犯人なのかは分からなかった。だから、さっき確かめさせてもらいました」
「さっき?」
「ほら、久茂先生に、翔君と銀河君を連れてきてほしいと頼んだでしょう。あれよ」
確かに、道元先生は久茂先生にそう頼んだが、しかしそれが一体なんだというのだ。
「想像してみて。もしも久茂先生が犯人だったら、すぐに銀河君を呼びに行くという彼の行動は少しおかしいじゃない」
「というと?」
「久茂先生が会議室を出ていって、私に電話をかけてくるまで僅か数分。そして見つけたのは岡部君だけ。彼は岡部君を簡単に見つけたけれど、木村君の居場所は分からなかった。もしも久茂先生が犯人だったら、私たちが動き出す前に一種の「証拠」である翔君をここから逃がして、それから銀河君を連れてくるのが自然じゃない? そこで転がっている亘先生みたいに」
確かに彼女の言う通り、自分が犯人だと疑われている状況でいつまでも木村をここに放っておくのは不自然だ。敢えて木村を放置して、僕たちに追求された時に口裏を合わさせるという方法もあるが、それでも、一度はここに訪れなければならないだろう。だったら逃がしてすっとぼけた方がいい。小学五年生が道元先生の追求に口を割らない保証などどこにもない。しかし……。
道元先生の言葉に疑問を呈したのは麻倉先生だった。
「それはおかしくないですか。久茂先生は、道元先生の嘘のせいで木村大助が犯人だと思っていたんですから、急いで彼を逃がす必要はありません。それに、私たちが中学校に行って帰ってくる時間も考慮するでしょうから、時間はいくらでもあります」
そう、道元先生の言っていることは、あくまでも久茂先生が、自分が犯人であると道元先生に疑われていると思っていることを前提としている。道元先生が木村大助を犯人だと考えていた、と久茂先生が思っていたとしたら、もし彼が犯人であっても危機感は生まれなかっただろう。
……いや、違う。久茂先生はあの時……。
「久茂先生は、知らない」
「え?」
「久茂先生は、道元先生が木村大助の名前を出した時、すでに会議室を出ていました。だから、久茂先生は道元先生がかまをかけたことも知らないんですよ」
「あ……」
「その通りよ。久茂先生が知っていたのはただ一つ。私が犯人を突き止めたということだけ。もしも彼が犯人なら、そんな状態で木村君を体育館に放置するなんて真似が出来るかしら。現に、亘先生は私やあなたたちが会議室を出てすぐに此所に向かい、木村君を解放し、逃がそうとした。逆に言えば、久茂先生の行動は『事件の真相を知らない者』として凄く自然だった」
そこまで計算していたのか、と舌を巻く思いだった。
道元先生の理屈は理解出来たが、しかしそうなると新たな疑問が生じる。
「ちょっと待ってください。その企てって、犯人が今日、木村君をここに閉じ込めると知っていなければ実行不可能です」
たまたま亘先生が木村をここに縛り付けていたから良かったものの、そうでなければ今回のことは彼女の徒労に終わってしまうはずだ。
「それは簡単なことよ。私には、亘先生が今日翔君に何かするって分かっていたの」
「……は?」
「考えてご覧なさい。翔君は毎日、塾や柔道、それに友達とのサッカーで忙しいけど、唯一、水曜日の午後だけは僅かに時間があるの。逆に言えば、犯人はその時間に一人になる翔君を狙うに決まっているでしょう」
そうか、だから道元先生は、木村のスケジュールを聞きたがったのか。僕は正直、道元先生も岡部を疑っていて、彼に犯行の機会がないかを探っているのだと思っていた。しかしそれは逆だったのだ。道元先生は、木村が狙われる時間を見つけ出そうとしていたのだ。
「ということは、俺もさっきまでは疑われていたわけだな」
久茂先生がそう呟いた。
「ごめんなさい、久茂先生。でも正直、最近まで休職していたあなたが犯人だとは考えていなかったわ。ま、とにかくそういうわけで、亘先生が犯人だと突き止めることが出来た。御納得いただけたかしら、亘先生」
亘先生、いや、亘は彼女を睨みつけたまま黙っている。
「じゃ、麻倉先生。悪いけど職員室に行って教頭先生を呼んできて。その後、警察に連絡。教頭は穏便に済まそうとするかもしれないけど、そんなの構ってないで、110番しちゃいなさい。責任は私が持つから」
わかりました、といって麻倉先生はその場を離れていった。
その時、殺伐とした場に酷く不釣り合いな鳴き声が体育館に響いた。道元先生を見ると、彼女にも心当たりがないらしい。純粋に驚いているようだった。おそらく、亘と木村以外の人間は思っただろう。
どうして、猫の鳴き声がしたのだろうと。
「……道元先生。どうも跳び箱の裏から聞こえてきたみたいだ。ちょっと見てみてください」
久茂先生の言葉に従い、道元先生は倉庫内の跳び箱の裏に姿を消した。そして……。
道元先生は、小振りなケージを持って再び姿を現した。中に何かいるようだ。
「あらかわいい。中に子猫が入っているわ」
そう言って、中から小さな茶色い猫を取り出した。子猫は暴れることもなく、道元先生の腕の中で丸くなっている。
その時、いつの間にか隣にきていた岡部が小さく声を上げた。どうやら、その子猫に心当たりがあるらしい。
「……岡部君、何か知っているの?」
「……野良猫です」
「野良猫?」
「通学路に捨ててあって、その中の一匹です。チョコって、名前を付けていました」
ということは捨て猫か。もしやその猫、いやチョコを人質にして、亘は木村を脅していたのか?
「……大分痩せているわね。よほど悪い人間に捕まってしまったみたい」
道元先生も同じことを考えたのか、ちらりと亘の方に目をやった。
「まさか、その猫を人質に?」
「……そう言えば貴様、ワイシャツの袖を血で染めていたことがあったな。あのときは児童が鼻血を出したのだと宣っていたが、まさか、この猫に引っ掻かれたんじゃねぇのか」
まさか、こんな小さな猫まで暴力の捌け口にしていたのだろうか。だとしたらコイツは、最低のクズだ。
「……悪くない」
呻くように低く、それでいて癇癪持ちの子供のような声だった。亘は、僕たちではなく、自分自身に言い訳をするような口調で語り始めた。
「僕は悪くない。僕は悪くないんだ。だって、お母さんが悪いんだから。僕はお母さんの真似をしただけだ。僕の先生に無茶なことを言ったり、他のお母さんの悪口を言って仲間はずれにしたり、そうやって、何かを虐げているお母さんの真似をしただけなんだよ。そもそも、人間は誰かを虐げることに快感を覚えるんだ。何喰わぬ顔で生活しているみんなと変わらない。僕は、僕のお母さんは、その快感に忠実だっただけだ。人として、当たり前に思うことを、当たり前にしただけなんだ。僕は、そんなお母さんの真似をした。そうだ。お母さんの教育が悪いんだ。あんなお母さんだったから、僕は、今こんなことになっているんだ。僕は悪くない。悪くない……」
滅茶苦茶だった。理屈云々のレベルですらない。しかし、僕と岡部、そして久茂先生はそれを言葉にすることができなかった。なぜか。怖かったからだ。
モンスターだ。
コイツは本物のモンスターだ。無闇矢鱈に火を噴いて、辺り一面焼け野原にしてしまうような、恐ろしいモンスターだ。
誰もが息を詰まらせ、ただ、そのモンスターをじっと眺めていた。狂っている。僕たちとは、決定的に何かが違う。
……いや、違わないのかもしれない。僕も、久茂先生も、麻倉先生も道元先生も心の何処かで、彼と同じことを思っているのかもしれない。そうだ。僕は、コイツが怖いんじゃない。自分の中にいるコイツに怯えているんだ。
「ふざけないで」
静寂を破ったのは、道元先生だった。
「三十過ぎたいい大人がママ、ママって、笑わせるわね。確かにあなたの母親はモンスターだったのかもしれない。でも、だからなに、って話よ。そのせいで歪んでしまったの? そのせいでおかしくなってしまったの? 違う。あなたがおかしいのよ。親なんか関係ない。あなたがおかしくなって、あなたがこの子を傷つけたの。結局は、全部あなたが悪いの」
声こそ荒げていないものの、その言葉に限りないほどの怒りが込められているのは明らかだった。
「モンスターの子供は、モンスターなんかじゃない。誤った道に迷い込むこともあれば、必死に正しい人生を歩もうともする、一人の立派な人間なの。あなたは、ただ自分の母親像に縛られた、図体だけでかくなったただの子供。自分の頭ではなにも考えられず、ただ欲望むき出しで歩き回っているだけの、一匹の愚かなモンスターよ」
道元先生の言葉を聞いた亘先生は、それでも彼女を睨み続けている。しかし、言葉を発しようとはしなかった。
遠くからざわめき声と慌ただしい足音が聞こえてくる。麻倉先生から話を聞いた他の先生たちがこちらへ向かっているのだろう。
「……でも、そう考えると、安藤が見たのは何だったんでしょうか。やっぱり、あれは嘘だったんでしょうか」
「嘘なんかじゃないわ。あれは、全て真実。銀河君は翔君の腕をつねって、痣を作った」
「しかし……」
「でもそれは、仕組まれたことだったの。多分翔君が、銀河君に頼んだのよ。腕をつねってほしいって」
木村が岡部に、自分を傷つけるように指示をした? 一体どういうことだ。
「亘先生は、多分周りの人間にバレるのを恐れて、翔君の体に傷を付けるようなことはしなかった。子猫を脅しの材料にされたから、翔君自身が誰かに話すことも出来ない。そこで翔君は考えた。どうすればこの現状を打破出来るだろうかと。そうして出した結論は、『周りの大人に騒いでもらう』というものだった。でも、それには起爆剤が必要だったの」
「起爆剤?」
「そう。その起爆剤こそが、あの腕の痣だったの。翔君は自分の体に傷を付けることで、自らの身に起きている異変を周囲に知らせようとした。でも、自分でやっても痛くてうまくできなかった。だから、友人である銀河君に頼んだのね。自分の腕をつねってくれって」
そしてその結果、木村の母親はその痣に気づき、それがきっかけで僕たちが調査に乗り出した。つまり、事態は彼が思い描いた通りに進展していったことになる。
「ということは、安藤は偶然その場に居合わせた目撃者……」
「そうだと思う。銀河君はどこまで知っていたかは分からないけど、多分、深い事情は知らないんじゃないかしら」
岡部に目をやると、彼は小さく、コクリと頷いた。
「まったく知りませんでした。でも、腕をつねってくれと言う翔が、すごく真剣だったから、僕は、何も言いませんでした」
岡部は何も悪くないと言った木村の言葉は正しかったのだ。岡部は木村をいじめているどころか、自分の行動の意味すら把握していなかった。
何人かの先生が、体育館になだれ込んできた。誰もが息を切らし、先陣を切ってきたと思われる教頭先生の表情は顔面蒼白そのものだった。
「ちょっとちょっと、一体どういうことなんです。亘先生が暴力事件って、麻倉先生は警察に連絡とか……」
明らかに気が動転している様子だったが、久茂先生に押さえつけられている亘と、傍で蹲っている木村を見た瞬間、呆気にとられたのか、顔中の筋肉を強ばらせ、そのまま押し黙ってしまった。
「じゃ、あとのことは警察に任せましょ。教師が児童虐待だなんてマスコミが喜びそうな事件だけど、隠蔽なんて許されませんからね」
教頭先生に向かってそう言うと、道元先生は蹲っている木村に近づいていった。
「翔君。あなた、もしかしたら亘先生に何かおかしなことを吹き込まれたかもしれないけれど、そんなことは全て忘れなさい。あなたは彼を恐れていたかもしれないけど、見てご覧なさい。今はあんなに惨めな姿をさらしている。結局、彼の考えは間違い以外の何者でもなかったってこと。だから、あんな奴の言ったことは全部忘れる。いい?」
道元先生からの問いかけに、木村は弱々しくもしっかりと頷いた。
「……あの、道元先生」
「なに?」
「少し気になることが……」
教頭への事情報告は久茂先生に任せ、僕は道元先生を木村から離した。
「えっと、あの猫の件なんです」
「猫?」
「木村君は、あの子猫を、人質にとられていたんですよね」
「猫質よ」
「どっちでもいいですけど、木村君はあの子猫に危害を加えられると思って、いままで誰にも相談しなかったんですよね。僕は猫ってあんまり好きじゃないから分からないんですが、それだけであの子を縛り付けられるものなのでしょうか。僕には、もっと他の要因があったのではないかと……」
「知らなくていい」
僕が口を閉じる前に、道元先生はぴしゃりと言った。
「残念だけど、あなたはそこまで知らなくていい。それが、あの子の望みでもあるから」
そう言い放つと、道元先生はただただ呆気にとられている僕から離れていった。
知らなくていいって……。
遠くでサイレンの音が聞こえる。僕は釈然としない思いを抱えたまま、慌てふためく教頭を宥めに向かった。




