episode3-9.5
「お前、余計なことしてくれたみたいじゃん」
そう言って、アイツは俺の腕を掴み、袖を無理矢理まくり上げた。
「これ、何だよ」
「これ」とは、俺の腕につけられた痣のことだろう。
「何だこれは。こんなものつけた覚えはないぞ」
コイツは決して痣になるような暴力は振るわない。自分のしていることを周りに知られないようにするためだ。
「これは、転んで……」
「あ? 転んだ?」
あざ笑うような口調だったが、その目は全く笑っていなかった。
「んなことはどうでもいいんだよ。いいか、その痣を見てぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるようなヒマな連中がいるんだ。もしコレがバレたらどう責任とるつもりだ。あ?」
俺としてはそれで万々歳なのだが、そんなことを言ったら半殺しにされるだろう。いや、もしかしたら本当に殺されるかもしれない。
「こんな痣じゃ、誰も……」
「ところがそうでもないんだよ。どうも、お前の担任や道元やらがかぎ回ってるみたいだ。この間も、お前の担任が母親に話を聞きに行ったみたいだぞ」
初耳だった。児玉先生が家にきた、ということだろうか。お母さんはそんなこと言ってなかったし、当然俺も会っていない。もしかしたら、日曜日の午後、柔道の練習があった日かもしれない。
「まったくふざけやがって。こんな楽しい遊び、こんなところで終わらせて堪るかってんだ」
嫌な予感がした。今日はいつになくイライラしているようだった。酷い目に遭う、かもしれない。
「まあいい。今日はひとつ、面白ーい遊びを思いついたからさ、一緒に遊ぼうぜ?」
そう言ってアイツが鞄から取り出したのは、十センチよりは短そうな、黒い棒状の何かだった。それが何かは分からなかったが、不思議と何処かで見たことがあるような気がした。
「これ、何か分かるか」
俺は、正直に首を横に振った。
「ふうん、じゃ、これならどうだ」
そう言って、アイツはその黒い棒を、軽く回すように振った。
「うわぁ!」
思わず声が出た。黒い棒状のものは、ある恐ろしい道具にその姿を変えたのだ。
それは、小さなナイフだった。
「刃が収納されるナイフだよ。これはバタフライナイフって言うんだけどな」
バタフライナイフ……ゲームによく出てくる武器だ。だから見覚えがあったのか。
「昨日新調したばかりだからな。よーく切れるはずだ」
新調……ということは、コイツは今まで何度もこのナイフを使っていたということだ。一体、その収納される刃は誰に対して向けられたのだろうか。野菜やお肉だったらどんなにいいか。
「これでお前のことをズタズタに切り刻む」
全身から血の気が引いていくのが分かった。手足からは体温がひき、背筋は凍り、息が詰まる。だのに、心臓だけはバクバクと暴れ回っている。
「……ギャハハ! なんて言うかと思ったか。嘘だよ、嘘」
アイツはぐにゃりと唇を持ち上げた。
「切り刻むのは、コイツだよ」
……まさか。
嫌な予感は当たった。
「チョコ!」
アイツの腕の中で、チョコが怯えた様子で丸まっていた。
「止めろ! チョコを殺さないで!」
俺は思わず叫んだ。チョコが死ぬ。それだけはなんとしてでも避けなければならない。
「え、やだなぁ、殺さないよ。こんなかわいい猫、殺すわけないじゃん」
予想外の台詞だった。しかし、束の間の安堵も、次の一言でいとも簡単に消し去られてしまった。
「この子を殺すのは、お、ま、え」
そう言ってアイツは、持っていたバタフライナイフを俺に差し出した。
「……は?」
「お前が殺すんだよ、この猫を」
言葉の意味が分からなかった。俺が殺す? チョコを? どうして? なんで……。
「い、嫌だ」
「嫌だ、じゃねぇよ。やれ」
アイツは、無理矢理俺の手にナイフを握らせた。そして腕に抱えたチョコを、そっと床に下ろし、俺の方へと差し出した。
チョコはか細い泣声を上げながら、俺のことをじっと見上げていた。そして俺はナイフを握ったまま、ガタガタと手を震わせていた。
「なに震えてんだよ。さっさとやれって」
アイツは、そう言って俺の後ろに回り込み、ナイフを握る俺の手を背後から包み込んだ。
「ちょ、ちょっと……」
「しょうがないなぁ。出来ないみたいだから手伝ってあげるよ。ようし、いくぞ」
「や、やめろ!」
「やめないよ。さあ、一緒に遊ぼう!」
俺の手が、俺の意志に反して持ち上げられていく。ナイフは俺の視界から外れ、頭上にまで持っていかれた。本気で抵抗したなら逃れられたかもしれない。しかし、俺の体はチョコを殺すという恐怖によって縛り付けられており、手の震えを止めることさえままならなかった。
「よし、じゃあカウントダウンだ。3、2……」
「やめろ、やめろって!」
「1……」
「やめろおおおおおおおおおお!」
無慈悲にも、腕が振り下ろされた。
「はあ、はあ……」
俺の息づかいだけが、体育倉庫に木霊する。緊張と脱力感が同時に体に走り、全身の感覚が過敏に、そして鈍くなったような、おかしな感覚に襲われた。まるで、体全部が故障してしまったみたいだった。
ナイフは、チョコの背中、から少し外れた床に突き刺さっていた。ただの肉片になりかけていたチョコは、自らの危機を察することもなく、ただその鈍く光るナイフの刃を見つめていた。
「どう、楽しかった?」
アイツが、耳元でそっと囁いた。全身に鳥肌が立ち、指先がわなわなと震えだした。
「生き物を殺すって、ゾクゾクするでしょう。最初は怖いかもしれないけど、でもその恐怖が、何時の日にか快感になるんだ。あの緊張感をまた味わいたいって、あの感覚をもう一度体験したいって」
「やめろ!」
俺は耳を塞ごうとした。しかし、両手はまだ、コイツの手の内だった。
「きっと人ってさ、何かを虐げることに快感を覚えるんだよ。自分より下にいる人間を虐げて、自分の思うままに操りたいと思っているんだ。それは決して他の誰かのためなんかじゃない。自分自身の欲求のためなんだよ」
もう、拒絶する気にもならなかった。コイツの発する言葉が、心の奥の暗いところにストンと落ちていく。
人は暴力を用いずとも、いとも簡単に人の心を掌握することができる。そのことを俺はこの一ヶ月で、コイツから痛いほど理解させられた。




