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episode2-9

 

 翌日、朝のSHRのために教室へ向かうと、遠野と小林が仲良く談笑していた。仲直りをしたようでホッとした気持ちになったのも束の間、遠野が中々話をやめようとしないことへの苛立ちで、そのほとんどがかき消されてしまった。


 今日の一時間目は算数だった。昨日宿題用に配布したプリントを回収したが、珍しく、遠野もちゃんと提出した。普段は宿題をやったかと聞くと、あからさまに目を合わせようとしない遠野が、得意そうな顔をしてこちらを見ていたときからおかしいとは思っていた。いつもはやってこないのに、一体どういう風の吹き回しか。まあ、黒板に提示した教科書の練習問題の宿題はやってこなかったから、単なる気まぐれだろうが。


 授業が終わって職員室に帰ろうと教室を出た時、ふと、道元の言葉が頭を過った。先日、麻倉を交えて三人で話をしていたときに言われた言葉tだ。


 春季君と、少しお話ししてみたらどうかしら。


 どうして、今そんなことを思い出したのかは分からない。だが俺は、何故か無意識のうちに教室の中をのぞき、声を上げた。


「遠野、少し話がある。ちょっといいか」

 遠野は、なぜかニコニコしながら教室を出てきた。そして、宇喜田でも怯む俺の顔を、友人と話すときと変わらない表情で見上げてくる。肝の据わった奴だと思った。俺と一対一で話す児童は、大抵蛇に睨まれた蛙のような表情を浮かべるというのに。


「どしたの、先生」

「どうしたんですか先生、だろう」

 いや、言葉遣いを注意するために呼んだのではなかった。普段から、あまり児童と話すことがないため、少し調子が狂う。


「お前、どうして毎日宿題をやってこないんだ」

 どうやら説教らしいと気づいた遠野は、シュンと肩を窄める。

「それに、朝俺が教室に入ってきても中々静かにしない。一体どうしてなんだ」

「……わかんない」

 わかんない、なんてことはないだろう。


「宿題はちゃんとやらにゃいけないことくらい分かっとるだろう。事実、今日はプリントの宿題をやってきたじゃないか」

 遠野の表情が明るくなる。いや、別に褒めたつもりはないのだが……。ま、ここはひとつ、乗せてみるか。

「それに、夏休みの宿題もちゃんとしたな。間違いも多かったが、それでも偉いぞ」

「でしょ? 俺、偉いでしょ?」

「だから、なぜ普段はやらないかと聞いてるんだ。何か理由があるのか。あるなら話してみろ」

 遠野は、少し迷った素振りを見せた。なんだ、本当に何か理由があるのか。


「……プリントのほうが良い」

「……は?」

「俺、プリントの宿題のほうが良い!」

 プリントのほうがいい? 予想外の返答に、俺は少々面食らった。

「なんでだ。教科書の問題は嫌ということか。なんでプリントのほうがいいんだ」

 プリントも教科書の問題も、内容にはさほど違いはない。適当なことを言っているのか。それとも本当に、プリントのほうがいい理由があるのか。

「んー……わかんないけど、プリントのほうがいい!」

 そう言い残すと、遠野は足早に教室へと戻っていってしまった。



 釈然としない思いを抱えながら、俺も職員室へ戻った。次の時間は音楽だから、授業がない。そこで、俺は先ほど集めたプリントを一枚とり、しげしげと見つめてみた。当たり前だが、載っているのは簡単な計算問題だ。パソコンで打った無機質な文字が羅列している。本当に、教科書に載っている問題と大きな違いはない。


 それなのに、遠野は教科書の問題を宿題として出されるよりも、プリントのほうが良いと言う。一体何が違うのか。数分眺めてみたが、違いは分からない。

「どうしたんですか。さっきから、プリントなんかじっと見つめて」

 いつの間にいたのか、背後から、亘がそう声を掛けてきた。

「ん、いやぁ、ちょっとな」

 ……そう言えば、このプリントを作ったのは誰でもない、この俺だ。もしかしたら、全く関係のない赤の他人が見れば、教科書の問題との違いが分かるかもしれない。


「おい、ちょっとこれ、見てくれるか」

 俺は手に持っていたプリントを、そのまま亘に差し出した。

「算数の宿題ですか」

「ああ、どう思う」

「……どうって、至って普通の計算プリントですね」


「ならこっちはどうだ」

 今度は、算数の教科書を開いて、昨日の宿題の範囲の部分を亘に見せた。

「えっと、これは……」

 困惑する亘に質問した。

「おい、この問題とさっきのプリントの問題、どっちが好きだ」

「……はい?」


 更に困惑した様子の亘に、先ほどの遠野の話を聞かせた。

「遠野くんがそんなことを……」

「正直、わけがわからん。ま、あいつが適当なことを言ってるだけかもしれんが」

 そもそも、プリントの宿題は教科書の練習問題が少ない時に作成する補助的なものだ。毎回の授業でプリントを作成していては俺の身が持たない。


「この教科書の宿題のほうは、回収するんですか?」

「いや。ノートに書いてこさせて、授業で答え合わせをしている中、俺が見回る形だ」

 そういう意味では、プリントの宿題は全て回収するから、誤摩化しはきかないかもしれない。しかし、誤摩化しがきかないほうがいいなどと、遠野が言うはずもない。

「他に違いはないんですか」

「ううん、教科書のほうは、口頭と、あとはその範囲を黒板に書いて掲示する。プリントは、その授業の最後に配る。そのくらいだな」

 そこに理由があるのだろうか。パッと思いつくようなものはないが。

「僕も、ちょっと分からないですね……すみません」

 亘もお手上げなようだ。

「いや、構わん。多分、またアイツの戯れ言だよ」


 そう吐き捨てた後、俺はあることに気が付いた。

「おい、その袖、どうした?」

 え、と亘は自分の腕を見る。背広から見えるワイシャツの袖の一部が、赤く変色していた。

「それ、血じゃないか!」

「え……あ!」

 亘も今気づいたようだ。その出血量から、かなり大きな怪我を疑った。

「大丈夫か、早く保健室に……」

「ああ、いや、大丈夫です」

 慌てる俺とは対照的に、亘は呑気に笑みを浮かべている。

「さっき、うちのクラスの子が鼻血を出したんです。その手当をした時に、ついたんでしょう」

 なんだ、そういうことか。心配してしまったではないか。子供はよく鼻血を出すものだ。俺にも経験がある。


 そのとき、二時間目の開始を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。

「あ、しまった。次はうちも算数だから早くいかないと。じゃあ久茂先生、これで失礼します」

 そう言って、亘は荷物を抱えて足早に職員室を出て行った。その後ろ姿を見送った俺は、再び、宿題のプリントに目を落とした。


 何度見ても、遠野の言った言葉の意味は分からない。教科書の問題よりも、プリントのほうが良い理由。まるで、あいつから宿題を出されたようで、俺はなんとなく、むしゃくしゃした思いを抱いた。


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