episode2-6
遠野に話を聞いても埒が明きそうもないので、頬の傷の手当のために保健室に連れて行くことにした。遠野に歩くよう促したが、歩行に問題はなさそうだった。目に見える傷も、頬の引っ掻き傷だけの様だ。手足の一部を必要以上に庇っている素振りも見られない。
図工室を出ようと、扉に手をかける。すると……。
ガラッ。
なぜか、力を入れていないのに、扉がひとりでに開いた。いや、そんなわけがない。ちょうど外側から、誰かが扉を開けたのだ。
「あら、どこへ行くの。久茂先生」
目の前に立っていたのは、なんと道元だった。なぜ、コイツがこんなところに。
「どうしたんですか、道元先生」
「どうしたのって、子供たちが喧嘩をしているって聞いたから、駆けつけたのよ」
やけに情報が早い。一体誰に聞いたのだ。
「さっき、ええと、小林君だったかしら。彼を連れた宇喜田先生に会ってね。事情は聞いたわよ。春季君、大分やらかしたみたいね」
道元は、いつもの微笑みを浮かべて遠野の顔を覗き込んだ。
「あら、ほっぺたに傷が……」
「ああ、小林にやられたみたいです。今から保健室に行こうと……」
そう言うと、道元はダメよ、と言いながら俺のほうに向き直った。
「保健室には小林君がいるわよ。二人を突き合わせても構わないならいいけど」
そうだ、迂闊だった。小林を連れた宇喜田は当然、彼を保健室へ連れて行ったはずだ。詳しくは分からないが、彼のほうが傷は深刻だろうから。
「大丈夫よ。春季君も怪我をしてると思って、救急箱、一個借りてきたから」
道元はそう言いながら、木製の箱を手に掲げた。
「白井先生みたいにはできないかもしれないけど、そこは堪忍ね」
道元に手当してもらっている間、遠野は大人しく椅子に腰掛けていた。道元の手際も良かった。消毒から絆創膏を貼るまでの動作が実に機敏だった。
「他に痛いところはある?」
道元の問いに、遠野は首を横に振ることで答えた。念のため頭や腕などを観察してみたが、見える範囲に怪我はなさそうだった。
「手当てしてもらったんだ。何か、道元先生にいうことがあるだろう」
俺が促すと、遠野は小さく、ありがとう、といった。
「そう言えば、道元先生は大丈夫なんですか。ご自分のクラスの交流会があるでしょう」
「ああ、それなら大丈夫よ。麻倉先生がちゃんと見てくれているから」
ああ、そうだった。四年三組には麻倉もいたんだっけか。しかし、一年三組の先生がいたとしても、まだ一年目のぺーぺーに任せるなんて、怖くないのだろうか。
「彼女のほうは大丈夫なんですか。彼女、まだ一年目でしょう」
「ぜんぜん平気よぉ。私なんかよりもよっぽどしっかりしてるわ」
能天気そうに、ホホホ、と笑った。
「いや、そんなことはないでしょう」
「あるわよ、全然。彼女、ここ最近すごく成長したから。もう一人前の教師よ」
そんなものだろうか。道元が甘過ぎるような気もするが……。いや、でもそういえば、さっき会話をした時、以前よりもずっと積極的になっていたような……。
「彼女、ここに来てからずっとあんな感じでしたか? 最初はもっと、おどおどしてるというか、大人しい奴だと思っとりましたが」
少なくとも、俺などに話しかけてくるような奴ではなかった気がする。
「そうね、確かにそうだったかもしれない。でも最近は、あまり小さいことで悩まなくなったように見えるわね。麻倉先生最近ちょっと怖い、なんていう子もいるくらいなんだから」
逆立ちしてみてもあんな奴怖くも何ともないが、子供からはまた違ったように見えるのだろう。
「じゃ、春季君は教室に戻りましょうか。特に怪我はないようですし」
道元の言葉に、俺は慌てた。
「ちょっと待ってください。コイツから事情を聞かないといかんのです。俺はその場に居合わせてなかったもんで……」
「あら、事情なんて聞ける? 多分、また興奮しちゃってうまく聞けないと思うわよ」
しかし、と反論しようとしたが、道元はさっさと遠野を廊下に出してしまった。
「じゃあ、俺もクラスに戻ります。あいつ一人を教室に戻すのは心配ですから」
「大丈夫よ。教頭がヒマそうにしてたから、二年二組に行くように言っておいたわ」
教頭を顎で使うのか、コイツ。
「とりあえず、喧嘩の件はあの子たちよりも宇喜田先生に聞いたほうがいいわね。当事者に聞いても、自分は悪くない、の一点張りで埒が明かないだろうから」
ううむ、確かにその通りかもしれない。あとで聞いておくことにする。
「それより、ちょっとあなたに聞きたいことがあるのよ」
「な、なんですか」
急に改まった雰囲気を出してきた道元に、少し戸惑った。
「春季君のことよ」
「遠野ですか。アイツが、何か」
もしや、道元のクラスの児童に何かしたのだろうか。嫌な予感がしたが、道元の口から出てきた言葉は、俺がまったく予想もしていなかったものだった。
「あなた、ADHDって知ってる?」
「え、ADHD?」
ADHD。もちろん知っている。教育に、いや、子供に関わる仕事をしている者なら一度は聞いたことがあるだろう。
「注意欠如多動性障害、ですか」
注意欠如多動性障害。その名の通り、不注意さや多動性、衝動性を特徴とする発達障害である。集中力が続かない、忘れっぽい、落ち着きがないなどの症状が見られる障害で、育て方や躾などに原因を見出せない先天的なものという説が有力だ。
「そう、最近、いろいろなところで話題になっている発達障害ね」
「もしかして……遠野がそうだというんですか?」
注意力の欠如、落ち着きのなさなどは子供によく見られる行動だ。それゆえに、ADHDかどうかの判断は困難だと言われる。
「分からない。久茂先生はどう思う? 担任として、その可能性を考えたことはある?」
ない、わけがない。むしろ、常にその可能性を疑っているくらいだった。だが……。
「正直よく分かりませんが、俺は違うんじゃないか、と思っとります」
「どうして?」
「……なんというか、アイツの行動の一つ一つが、ADHDの症状と微妙にずれているような気がするんです」
実を言えば、遠野の母にも、ADHDについて話をしたことがあった。確か、夏休みに入る前だったと思う。その後、適切な診断を受けたかどうかは分からないが、ADHDであるという報告は受けていなかった。
「例えば、落ち着きがないという症状は、アイツには当てはまりません。そりゃ、喧嘩をした時には取り乱したりもしますが、授業中に立ち歩いたりはしません。ただ、騒ぎ立てたり、小林などに話しかけるだけです。それに、勉強に関しても、宿題を忘れたり、集中力がもたない、といったものとは違うような気がします。どちらかと言えば、しない、やらないに近い気がします」
「と言うと?」
「宿題を例に挙げるとします。普通、宿題を忘れた生徒は、多少なりとも慌てた様子を見せます。急いでノートを開いて宿題をやり始める奴もいますし、諦めて、青い顔をして座っとる奴もいます。でも遠野はそうじゃない。アイツは笑って、俺に言うんです。『先生、宿題やってません』、と」
忘れた、やったけど家に忘れた、という言葉は、遠野は使わない。宿題があったことはちゃんと覚えているのに、あえてやってこなかった。そういう気がしてならないのだ。
「忘れていないのに、やってこない……」
「ええ、そんな気がします」
「……春季君、夏休みの宿題はちゃんとやってきた?」
いきなりなんだ。どうして、夏休みの宿題の話になるのだ。……いや、待てよ。
「そういえば、やってきてました。絵日記も歯磨きカレンダーも適当にやったのが一目瞭然でしたが、出すことには出してました」
普段の宿題はやらないのに、なぜ夏休みの宿題はちゃんと提出するのか。あの時も、不思議に思ったことを思い出した。
「うーん……」
道元がなにやら考える素振りを見せた。
「ま、もしかしたら俺への当てつけかもしれません。俺を困らせたくて、わざとふざけた行動をとっているのかも……」
「分からないけど、とりあえず、宇喜田先生によく話を聞いたほうがいいかもわね。意外とそこから、彼の問題を解決する何かが見えてくるかも……」
その時、授業終了を知らせるチャイムが鳴った。かなり長い時間、道元と話し込んでいたようだ。
「大変、クラスに戻らないと。じゃあね、久茂先生」
そういうと、道元は丸い体を揺らしながら図工室を出て行った。俺も戻らなければ。長い時間、教頭にまで世話をかけてしまった。
小林も、もうおそらく教室に戻っているだろう。宇喜田に話を聞くのは、放課後にしようと、俺は思った。




