episode2-2
教室に入る前から、中の騒がしさが耳をつく。声変わりの予兆すらない甲高い猿のような声は、ここは学校ではなく動物園なのではないかという錯覚に陥らせる。一体どうして、朝っぱらからこんなに元気なのか。渋る右手を無理矢理持ち上げ、扉を開く。
俺が教室に入った瞬間、ほとんどの児童が会話を中断させて黙り込み、散り散りになって自分の席につく。さっきまでは猿だったのに、今度は蜘蛛の子か、と心の中で笑う。
しかし、そんなに素直な児童ばかりではない。俺のほうをちらりと見るだけで、すぐに会話を続行しようとする不届きものも中には存在する。
「おい遠野、前を向かんか」
小生意気そうな後頭部に向かっていつもの言葉を投げかける。後ろの席の小林綾斗に話しかけているのだ。
話に夢中なのか、遠野は気づかない。一方、こちらを向いている小林は状況を察し、遠野に前を向くように諭す。
ようやく前を向いた遠野は、一瞬だけ気まずそうな表情を浮かべ、そのまま黙り込んだ。
「おい遠野、先生が来たら席について前を向けといつもいっておるだろう。まったく、毎朝毎朝、何度同じことを言わせるつもりだ」
「あ、先生聞いてよ」
舌足らずな話し方が、俺の苛立ちを加速させる。
「綾斗がね、すっごいんだよ。昨日ゲームで、おれの兄ちゃんに勝ったんだ。うちの兄ちゃん、すっげーゲームうまいのに。あ、昨日、兄ちゃん帰って来てたんだけどさ。で、それでね、なんでそんな上手なんだって聞いたら……」
「黙れ!」
張り上げた声が、教室中を凍り付かせる。
「そんな話は休み時間にしろ! 今は前を向いて、席に座っとれ。どうしてそんな簡単なことができないんだ!」
遠野が黙り込む。どこか不貞腐れたような顔で、じっと机を見つめている。
まただ、と俺は心の中で溜め息をつく。朝、同じようなことを注意して、今日で何日目になるだろう。長年教師を務めてきたが、本当に、この遠野春季ほど聞き分けのない児童は珍しい。ことあるごとに騒ぎ立て、授業を妨害しようとし、居眠りをし、喧嘩をし、誰かを泣かし……毎日毎日こんなことばかりだ。まるで俺に恨みでもあるかの様に、俺の気に触るようなことばかりをするのだ。そのくせ、宿題や
予習復習など、こちらからやれと言ったことはほとんどしてこない。
まさに、親子揃ってモンスターだ。
確かコイツの兄貴は、大分歳が離れていたのではなかったか。高校には行かず、働きながら一人暮らしをしていたと、誰かから聞いたことがある。彼もここの卒業生だったが、弟とは違い、あまり目立たない児童だったように思える。受け持ったことはないが、分厚い眼鏡をかけた、ガリ勉タイプの児童だったと記憶している。
反対に、この弟はすこぶる頭が悪い。例によって体育だけは得意なようだが、他はてんでダメで、毎回テストの点数は半分取れればいいほう、という状態が続いている。兄貴も一人暮らしなどしていないで、実家に戻り、コイツを起こすなり勉強を教えるなりしてくれやしないだろうか。ゲームばかりしていないで。
出席を確認したが、休みはいなかった。そう言えば、授業態度は不真面目な遠野も休むことはしないな、と思った。確か、一学期の頭に風邪で休んだ以外は毎日学校に来ているはずだ。たまには休んでくれたほうがこちらも楽なのだが。
朝のSHRを終え、国語の授業を開始してから十分、早くも窓際の後ろの席からヒソヒソ声が聞こえ始める。振り向くと、やはり喋っているのは遠野と小林だ。小林が一番後ろ、その前が遠野の席だが、二人とも、後ろの席だからバレないと思っているらしい。だが、実は後ろの席のほうがそういった行動が目につきやすい。顔を上げたとき、ちょうそ視線がそちらを向くからだ。
「おい! 何をくっちゃべっている!」
ビクリ、と肩を震わせたのは遠野ではなく、小林とその他無関係の児童だけだった。遠野はこちらを向くと、なぜかニタニタと笑い始めた。
「あ、すいませぇーん」
口では謝っているが、白目をむいた変顔で体をくねらせながらでは全く反省の念
が伝わらない。もっとも反省などしていないだろうが。
周りには、遠野のおどけた姿に笑うもの半分、この後の展開を予想して顔を強ばらせるもの半分、と言った様子だ。
「それで謝っているつもりか、遠野」
遠野は黙ったが、顔はにやけたままだった。
「始まってからまだ十分だろうが。なんで喋ってた」
俺の問いかけに、遠野は笑ってごまかすだけだ。なぜその一挙一動が、俺の怒りを逆なでしていることに気づかないのだ。
「お前のせいで、授業が遅れているんだ。周りに申し訳ないとは思わないか」
遠野は答えない。それどころか、退屈そうに窓の外なんか眺めていやがる。
「おい、ちょっと前に来い」
俺の呼びかけに、遠野は面倒くさそうに腰を上げた。そのまま手ぶらでこちらへ向かおうとしたので、ちょっと待て、と彼を静止させる。
「その国語のノートを持ってこい」
余裕ぶっていた表情に、ほんの少しだけ翳りが見えた。それを見ただけで、そのノートが真っ白であることが窺えた。
「どうした。早く持ってこんか」
諦めたように、遠野はノートを持ってこちらにやってきた。俺を舐めきったような笑顔は、大分弱々しいものになっていた。
目の前までやってきた遠野からノートを奪い取るように手にとり、中をぱらぱらと捲っていく。案の定、そこに黒板の内容は何一つ、書かれてはいなかった。今日だけではない。その前の授業内容もほとんど書かれていない。どのページも空っぽだ。そんな中で唯一書かれていたのは、その日の授業のタイトルと、落書きだけだった。
「これはどういうことだ」
真っ白なノートを遠野につきつける。
「何も書いてないじゃないか。お前は、この授業中、一体何をしてたんだ」
「え、えっと。あ、先生の話を一生懸命聞いていたら、ノート書くの忘れました!」
悪びれることもなく、遠野はそう言い放った。その言葉に、何人かの児童が笑い声をあげた。なんだコイツらは。俺を、教師であるこの俺を、こけにしているのか。
「いい加減にしろ!」
俺の怒鳴り声が、むなしく響く。怒鳴り慣れた俺と同様、怒鳴られ慣れた児童たちは、反省した素振りを見せながら項垂れる。小さな頭頂部に向かって、俺は昨日も言ったような説教を浴びせかける。
そして心の中で、大きく溜め息をついた。また今日も、授業時間を無駄にしてしまった。




