episode2-1
「先生に朝、うちの子を起こしてあげてほしいんです」
出された茶を一口飲むや否や、みすぼらしい格好をしたこの女は俺に向かってそう言った。
「……遠野さん、そりゃ一体、どういうことです」
そう聞き返したが、無論意味が分からなかったわけではない。ただ、彼女の言葉が信じられなかっただけだ。
「ですから、毎朝七時に、うちの春季を起こしてあげてほしいんです」
「起こす?」
春季、というのはこの女の息子であり、俺が受け持っているクラスの児童である。
「ええ、例えば朝七時にうちへ寄っていただくとか、あ、もちろん電話でも構いません。お願いできませんか」
できるわけないだろう。この母親、俺が家政婦ではなくて教師であることを本当に分かっているのだろうか。なぜ俺が、子供の目覚まし時計にならなきゃいけないのだ。
「とりあえず、事情を説明してもらえませんか」
怒りを抑えてそう訪ねると、遠野春季の母親、遠野理子はこう言った。
「ええ、実は私、仕事が終わるのが五時頃なんです。あ、夕方じゃないです。朝です」
はあ、と気のない相槌を返す。だから何だというのだ。
「それで家に帰って、寝ますよね。普通。その日だって、午後からパートに出て、夜にはまた仕事なんですから」
そりゃそうだ。人間、寝なけりゃ元気も出ない。
「正直、七時に春季を起こすの、辛いんです」
目の前の机をひっくり返したい衝動を必死に抑えた。
「……で、代わりに私が春季君を起こせと。そう仰りたいんですね」
果たして目の前のこの女は、本当に俺と同じ人間なのだろうか。どうやったらそんな理屈を思いつくのか、俺には想像もつかないのだが。
「失礼ですが、お父さんは……」
「あ、いますよ。ただ、今はキュウショク中でして……私が働きに出ているんです」
なんだ、いるんじゃないか。「キュウショク」という言葉が、「休職」か「求職」かは分からないが、自分の息子を起こすことくらいは出来るだろう。
「だったら、お父さんが起こせばいいじゃないですか」
「ええ、でも……」
歯切れが悪い。もしかして、何か重大な病気かなにかだろうか。
「主人、朝は十時まで寝ているものですから」
危なかった。本当に危なかった。あと少しで、手が出るところだった。
「……あのですね、遠野さん」
右手の握りこぶしを左手で包み込みながら、俺は答えた。
「申し訳ないんだけれども、ね。春季君を起こすには、我々教師の仕事じゃないんですよ。親御さんの役目です」
「そ、それは……。でも、だ、だから、こうしてお願いに……」
「お願いされてもダメなんですよ。春季君だけを特別扱いすることは出来ません」
俺の返答は、遠野の母親にとって不服以外の何者でもなかったようだ。
「でも、先生も、家庭の事情っていうのを、少しくらい考えてくれても……」
「お言葉ですが、春季君はもう二年生です。寝る前に目覚まし時計をセットするのも、朝、時間通り起きることも出来る年齢ではないですか? ご家庭では、そのような指導はしていないんでしょうか?」
俺の言葉に遠野の母親は押し黙ったので、さらに続ける。
「お言葉ですが、春季君、授業中に居眠りをしていることがあります。お子さん、いつもは何時頃に寝ているか、ご存知ですか」
九時ぐらい、と遠野の母親は呟いたが、その声の大きさから子供の寝る時間を把握していないことは窺い知れた。当然だ。この母親は、その時間は仕事に出ているのだから。
「それに、春季君は普段から、授業中に騒ぐなどといった行動も見られます。ご家庭でよく言っておくようにと、家庭訪問の際に言いましたよね」
遠野の母親は、不貞腐れたように何も話さない。
「とにかく、春季君の起床時間については、私どもは介入しかねますので、ご家庭でよく、話し合ってみてください」
分かりました、と小さく呟いて、遠野の母親は立ち上がり、応接間を出て行った。見送る必要はないだろう。俺は凝り固まった背中を、柔らかいソファの背もたれに埋めた。
「また遠野さんですか。久茂先生」
隣の職員室に戻ると、一人の男がそう話しかけてきた。同じ二年生の担任をしている、亘という男だ。俺が二組、亘は一組を受け持っている。
「ああ。まったく困ったもんだよ」
「先月から、会わせて五回目ですか。最近、よくお見えになりますよね」
「しかもよ、毎回違うクレームなんだぜ。今日なんて、朝、自分の息子を起こしてくれ、だとよ」
「あらら、それはまた……」
相槌を打ちながら、亘は藍色の、がっちりとした湯呑みを手渡した。緑茶の匂いが鼻をくすぐる。お、悪いな、と言って受け取り、一口啜る。熱くて旨い茶だった。
近頃、この男に愚痴をこぼすことが多くなっている気がする。それはもちろん、遠野の母親という新たなストレス源が誕生したせいでもある。しかしこの亘という男には、何かそういったことを相談しやすい雰囲気がある。少し生意気なところもあるが、かわいい後輩であり、頼りになる同僚である。確か、まだ三十くらいだったと思う。
「ところで、そっちのほうはどうなんだよ、最近」
「え? ……ああ、御子柴さんですか。しばらくは来てないですよ。お忙しいんじゃないですかね」
「ふうん。なんでも、あの若い姉ちゃんとやり合ったって聞いたけど」
「若い姉ちゃんって、キャバクラじゃないんですだから。麻倉先生、ですよ。まぁ、ちょっといろいろあったみたいですけど」
ちょっといろいろ、などと濁したが、こいつがその場に同席していたことは俺だって知っている。しかし、それももう二ヶ月も前のことだ。季節は秋になり、そして冬が訪れようとしている。
「で、結局どうなさったんですか? 遠野さんは」
「どうもなにも、突っぱねたに決まってるだろ」
「あはは、さすがですね」
「当たり前だよ。ああいうのはな、こっちが下手に出るからつけあがるんだ。こっちがビシッとしてりゃ、若い姉ちゃんのときみたいにゴチャゴチャしねぇんだよ」
麻倉先生です、と、亘がもう一度嗜める。
「でも、僕も以前お会いしたことありますよ。遠野さん。御子柴さんと違って、すごく大人しそうな方ですよね」
その通り。確かに遠野の母親は、一見すると地味で、大人しい印象を受ける。服だって白や淡い色とか、御子柴の母親みたいな仮装行列さながらの衣装とは大分異なる。
しかし、モンスター度で言えば、遠野の母親は御子柴の母親に全く引けを取らない。むしろそれ以上だ。一ヶ月ほど前から、何度も学校に乗り込んでは先ほどのような理不尽な要求をこちらに突きつけてくる。それも毎回違う内容だ。前回は確か、給食費を払いたくない、だったと思う。
「大人しかろうが何だろうが、こっちにとっちゃ皆モンスターだ。あれか、今の親っていうのは、教師がそんなに楽な仕事だと思ってんのか」
少なくとも、俺たちの若い頃はそんな親はほとんどいなかった。それとも、単に気づかなかっただけなのだろうか。
「大分ストレス溜まってますね」
「ああ、今度吞みにでも付き合ってくれよ」
じゃあ、いつでも声かけてください、と笑いながら、亘は去って行った。
時計は四時を回った。一服しようと、職員室を出て喫煙室という隔離部屋へ向かう。心の中で、教師と喫煙者の地位の低下を嘆きながら。




