最終話 花見
春の空は、どこまでも青かった。
大学裏の公園。
満開の桜が空を覆っている。
レジャーシートの上には弁当と酒。
風が吹くたびに桜の花びらが舞った。
「かんぱーい!」
千夏が勢いよく缶をぶつけてくる。
「近い!」
玲が慌てる。
しかし千夏は笑ったまま玲の腕を掴む。
「いいじゃん」
そのまま腕をぎゅっと組む。
柔らかい感触が腕に当たる。
「ちょっと!」
玲が顔を逸らす。
千夏はいたずらっぽく笑う。
「あ、玲、顔赤い!酒でも飲んでるの?」
「赤くない!てかまだ未成年だって!」
「赤い赤い笑」
さらに胸を押しつける。
「ここ私の席だから」
「だから勝手に決めるな!」
「やだ!もう決めたもん!」
その笑顔はあまりにも楽しそうだった。
「離れなさい、千夏」
落ち着いた声。
千春だった。
ワインを持って近づいてくる。
「玲くん」
「え、なに?」
「ちょっと動かないで」
玲の後ろに回る。
「ほら色々大変だったし疲れたでしょ?肩凝ってるよ」
そのまま肩を揉み始める。
ああ、めちゃくちゃ気持ちいい。
千春姉ちゃんマッサージも上手いんだな。
しばらくして。
ふわっと腕が玲の首に回される。
「……え?」
千春が後ろから抱きついていた。
背中に柔らかく大きな感触が。
「ちょっと千春姉!」
千夏が叫ぶ。
「何してるの!」
「何って、マッサージだけど?」
千春は平然としている。
耳元で玲に囁く。
「玲くんってさ」
「ん?」
「昔から頑張りすぎなのよ」
さらに玲に体重を預ける。
玲の背中に千春の大きな胸が潰れる。
玲が固まる。
千春はくすっと笑う。
「どうしたの?」
「……いや、当たってるんだけど」
「別にいいじゃない。それとも玲くんには刺激が強すぎたかな?」
「いや、周りの目もあるし、普通に恥ずかしいんだけど」
そして耳元で小さく囁く。
「もっと素直になっていいのよ。今日くらいお姉さんに甘えても。せっかくのお花見なんだし」
「ずるい!」
千夏がさらに腕を抱きしめる。
「玲は私の!」
「千夏、たまにはお姉さんに華を持たせなさいよ」
「関係ない!だめ!やだ!」
千夏は玲の腕を抱え込む。
胸がまた当たる。
玲は視線の置き場に困る。
「千夏もそんなにくっつくなよ」
「やだやだやだ!」
千夏は満面の笑み。
「玲の隣は私の特等席だもん♡」
「……玲くん」
小さな声。
千秋だった。
玲の正面から近づいてくる。
風が吹く。
桜の花びらが玲の髪に落ちる。
千秋がそれを取る。
「ついてたよ」
「ああ千秋……ありがとう」
千秋は少し恥ずかしそうに笑う。
そして。
玲の袖をそっと掴む。
そのまま離さない。
「千秋?」
「……このくらいなら。近くても、いいよね」
小さく言う。
顔が赤い。
あれ?千秋お酒を飲んでるのか?
千秋の手が袖から玲の手に移動した。
少しの間玲の手に触れてそっと離す。
そして不意打ちで玲の頬に唇をそっと当てる。
玲はドキッとした。
「え?千秋!?」
千夏は先を越されたとばかりに青ざめ、千春は目を真ん丸に見開いていた。
「ちょっと千秋?何してるの?酔ってるの?てかどうしちゃったの?!」
「んーあんまり酔ってない。私だって負けないもん」
しばらくして。
「玲」
冷静な声。
千冬だった。
タブレットを持っている。
「……一体何をしているのですか」
玲が言う。
「見れば分かるだろ」
「分かりません」
「大変非効率な花見です」
千夏が笑う。
「花見に効率とかあるの?」
「あります」
即答。
「あなたは無駄な接触が多すぎます」
そう言いながら。
千冬は玲のすぐ前に座る。
距離が近い。
そして。
「ちょっと動かないでください」
玲の頭を抱えてそのまま玲の耳を自分の胸に押し当てる。
柔らかい感触。
玲の思考が止まる。
「え、え、待て!!」
「ちょ!千冬!それはやばすぎだって!」
千夏が青ざめる。
千春は爆笑している。
「あはは!理系ならではのアプローチね」
でも千冬は真顔。
「玲」
「な、なんだ」
「私を観測してください。超至近距離で。こんな機会めったにありませんよ。どうですか?柔らかいですか?」
「観測なんてできるか!!」
千冬は一瞬だけ沈黙する。
そしてほんのわずかに視線を逸らす。
「……別にあなたに触れてほしいとか、そういう意図ではありません」
千夏が即ツッコミ。
「いや完全にそうでしょ」
「いえ、違います」
少しだけ強い声。
「断じて違います」
だが手は離さない。
むしろほんの少しだけ指に力が入る。
「玲の心拍数」
玲を見る。
「大きく上昇しました」
「お前のせいだろ!」
「違います」
「きっと環境要因です……私のせいではありません」
玲がため息を吐く。
「はいはい」
その瞬間、さりげなく千冬は玲の目の前に背を向けて座る。
小さい背中とお尻が当たっている。
そして両手の人差し指を握ってくる。
「……玲」
「ん?」
「ここは私の観測位置ですので」
「は?」
「あなたはここを移動しないでください」
千夏が食い気味に言う。
「それ!玲のことキープしたいだけでしょ!」
「違います。断じて違います」
即答。
だが。
手は離さない。
そして小さく。
「……これが最も効率が良い花見です」
他の姉妹(いや、独占したいだけじゃん…)
四人に囲まれて。
玲は完全に逃げ場がない。
千春「ちょっと待って!」
千夏「待たない!玲は私の隣!」
千春「年上が優先!」
千冬「効率的に判断すべきです」
千秋「……玲くんの隣……」
四方向から引っ張られる。
「痛い!」
玲が叫ぶ。
そのとき。
「玲」
優しい声。
千咲だった。
ピンクのワンピース。
春の風で髪が揺れる。
その姿を見た瞬間。
玲の胸の奥が、ほんのわずかに痛んだ。
――もう二度と、失いたくない。
そんな感情が、言葉になる前に消える。
「楽しそうだね」
「まぁな」
玲は苦笑する。
「人気者だね」
「もう勘弁してほしいよ」
その瞬間。
四姉妹が同時に言う。
「勘弁しない!!」
全員が玲を掴む。
そして。
千咲はくすっと笑った。
少しだけ玲に近づく。
「玲」
「ん?」
千咲は小さく言う。
「ちょっとだけ」
「なに」
その瞬間。
千咲は玲の手を取った。
そっと。
指を絡める。
恋人繋ぎ。
誰にも見えないように。
クーラーボックスの影で。
玲が驚く。
「……千咲?」
千咲は小さく笑う。
「今みんなわちゃわちゃしてるから。絶対みんなには内緒だよ」
その手は、少しだけ強く握られていた。
まるでもう絶対に離れないように。
四人の姉妹はまだ言い争っている。
「玲は私の!」
「いや私よ!」
「もっと効率性を!」
「……玲くん」
その騒ぎを横目に。
千咲は玲の手を握ったまま言う。
「玲。花見、来年も来ようね」
玲は笑った。
「ああ」
しばらくして。
春の風が吹いた。
そのとき、ふと、誰も何も言わなくなった。
桜が一枚、静かに落ちた。
そして千秋がゆっくり立ち上がる。
ケースを開く。
中からバイオリンを取り出した。
見慣れているはずなのに。
どこか、いつもと違って見えた。
千夏が驚く。
「え、弾くの?」
千秋は頷く。
「うん。今弾きたい気分なの」
千秋はそれだけ言った。
桜の木の下へ歩いていく。
風が吹く。
花びらが、肩に落ちる。
千秋はそれを払わない。
静かに構える。
弓を持つ手は、少しだけ震えていた。
だがその震えは、すぐに消えた。
息を吸う。
そして――
音が、生まれる。
最初の一音。
それだけで。
空気が変わる。
ざわめきが、消える。
近くの笑い声も、遠くに行き交う自動車の喧騒も。
すべてが遠のいていく。
ただ音だけが残る。
優しい旋律。
どこか懐かしくて。
少しだけ、切ない。
風が吹く。
桜が舞う。
音に合わせるように。
花びらが、空を泳ぐ。
千秋の髪に、肩に、バイオリンに降り注ぐ。
それでも彼女は止まらない。
ただ、弾き続ける。
その音はまるで遠くの誰かに届けるように。
何かを、伝えるように。
あまりの美しさに玲は、動けなかった。
……ああ
この音は。
“生きている証”なんだ。
何度も、何度も、何度も。
壊れては失われかけたもの。
その全ての結果が、ここにある。
気づけば玲の頬には涙が流れていた。
静かに一滴。そしてもう一滴。
理由なんて、いらなかった。
こうして大切な人たちと一緒に過ごす時間。
広大な宇宙や時の中で、それはほんの刹那なのかもしれない。
しかしこの世界は美しいと感じた。
そう思えたこと。
それは何事にも代えがたい宝であり、俺が生きる意味なのかもしれない。
桜が舞う、春の光。
そして玲は思う。
この春は、もう失われないのだと。
もう、あの日のように。
誰かの手を、離すことはない。
長い旅が終わった。
もう、やり直すことはない。
季節はまた巡る。
この先何が起こるのか。
それは誰にも分からない。
それでも――
この春は、ここにあった。
確かに。
END




