見習いメイド5
目が覚めたとき、左目のあった場所が温かかった。痛みはない。ただ、じんわりとした熱だけがそこにあった。左目のあった場所にそっと触れた。皮膚が塞がれているような感触がある。爛れていた昨日とは明らかに違うことが分かった。
体を起こし、部屋の中を見渡す。私が座っているベッドのほかに2つのベッドが見えた。3人部屋だが、奴隷に与える部屋としてはかなり広く、何より装飾品の量が多すぎる。清潔な床に、整えられたベッド。窓から朝の光が入ってくる温かな風景は、奴隷商にいたあの透明な板の部屋とは全く違うものだった。
私は立ち上がり、ほかのベッドのそばに移動した。片方のベッドにはまだ眠っている人が横たわっていて、もう片方のベッドは空だ。
しばらく部屋を物色していると、扉が開く音がした。入ってきたのは金髪のメイドだった。二十代前半くらいに見える。整った顔立ちで、所作に無駄がない。盆の上には食事が乗っていた。
「メルテ、おはよう。アナスタシアは……まだ寝ているようね。」
怒鳴られるわけでも命令されるわけでもない。ただ自然に、話しかけてきた。
「……おはよう、ございます。」
「カルメラよ。ローズの一人。今日からあなたたちをサポートするものよ。」
そう言って盆を机に置いた。その上には、パンとスープと果物が乗っていた。
「あなたたちには今日からグルンレイドのメイドとして働いてもらうわ。まずは見習いから始める。訓練を重ねて、実力をつけていくことになるわ。」
メイド、という言葉が頭の中で繰り返された。奴隷として買われたのに、メイドとして働く。その意味がまだうまく飲み込めなかった。そして、メイドが訓練を重ねる……?
「今日はゆっくりしていていいわ。屋敷に慣れることが先。訓練は明日から始めましょう。あと1時間後くらいに、また来るわ。」
それだけ言って、カルメラは扉のもとへと移動する。ドアノブに手をかけようとしたところで立ち止まる。
「私がまた来るまで、アナスタシアを起こして、ご飯を食べさせておいて。頼んだわ。」
そういうと、扉が閉まる。
1人になって……実際は2人だが、私はスープに手を伸ばした。温かい。それがじわじわと手のひらに広がる。村を出てから、こんな食事を食べたのはいつぶりだろう。お母さんが作ってくれた夜ご飯以来かもしれない。そう思ったら、少し目の奥が熱くなった。
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食事を半分ほど食べ終えたところで、もう一つのベッドが軋んだ。
「……ここは、どこですの。」
アナスタシアが目を覚ましたようだ。金色の髪が乱れていたが、それでも端正な顔立ちは変わらなかった。きょろきょろと部屋を見回し、やがて私を見て視線を止めた。
「……グルンレイドの屋敷。」
短く答えると、アナスタシアはしばらく黙る。昨日のことを整理しているのだろうか。
しばらくすると、アナスタシアが口を開いた。
「あなたは……昨日、私と一緒に買われた方、ですわね。」
「そう。」
私は短くそう答える。私自身、もともとコミュニケーションが得意なほうではなく、このようなそっけない返事になってしまうのだが、アナスタシアは不快に思うような表情を表には出さなかった。
アナスタシアはベッドの上でゆっくりと体を起こし、乱れた金色の髪を手で整えた。それから、まっすぐに私を見た。
「私のアナスタシアと申します。今は……貴族奴隷という立場ですわ。」
「メルテ。……よろしく。」
それだけ返した。アナスタシアは少し間を置いてから、静かに頷いた。
「たしか、もう一人はいらっしゃいましたよね?体に黒いあざのある方。」
「確かにいた。けど、私が起きた時からベッドは空だった。」
「そうですの。」
アナスタシアは確かめるように、空の、シーツがくしゃくしゃになっていない方のベッドを見た。そして、アナスタシアは立ち上がり部屋の中を見渡した。私が最初にした時と同じような動作で、その視線が装飾品を、清潔な床を、整えられたベッドをなぞっていく。
「奴隷に与えるには、広すぎる部屋ですわね。」
「そう思う。」
確かに、この部屋は奴隷に与えるにしてはおかしすぎる部屋だ。絨毯も壁紙も、窓枠の細工も、何もかもが上等すぎる。
「さっき、カルメラさん……というメイドが来た。食事をして待っていて、だって。」
そう言って私は、アナスタシアの分の食事を移動させる。
「しっかりとした食事まであるんですのね……」
さらに驚いた様子で、こちらへ移動してきた。机の前に座ると、椀をそっと両手で持ち上げ、口をつける前に一度だけ中身を確認するように見下ろした。それから、静かに飲む。その所作は無駄がなく、育ちの良さがが滲み出るような丁寧な動きだった。
「メルテ、あなた、目は問題ないのかしら?」
私の眼帯を見て、アナスタシアがそう言った。
「すべてご主人様が治してくれた。痛みもない。」
「そう、ですのね。」
アナスタシアは何かを考えるように、少し静かになる。私もその気持ちはわかる。奴隷に対して、この丁寧な扱いはあまりにおかしい。
それ以降、私たちは静かに、黙々とこの食事を口に運んだ。パンを嚙む音と、スープをすする音だけが部屋に漂う。窓の外では鳥の声がした。遠くで誰かが何かを運んでいる足音も聞こえてくる。こんな穏やかな日常は、いったいいつぶりだろうかと、心の中で思いかえす。
しばらくそのまま時間が流れた。部屋の光が少しずつ動いて、朝が進んでいくのがわかった。やがて、扉をノックする音が聞こえる。
「入るわよ。」
カルメラさんが部屋に入ってきた。
「食べ終わったのね。よかった。」
私たちの空になった食器を見て、そうつぶやく。そして、アナスタシアに私にした説明と同様の説明をする。
「今日はグルンレイドの屋敷を案内するわ。ついてきなさい。」
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屋敷の廊下は広く、どこまでも続いているように見えた。屋敷を歩きながら、カルメラさんの説明が行われる。
「ここはグルンレイドの屋敷。グルンレイド領の領主がいる場所よ。その領主こそが、私たちのご主人様。」
奴隷として買われたはずなのに、メイドとして働く……これはこの世界の常識では考えられないようなことだった。普通、メイドは平民がなるものだ。奴隷がメイドとして働くこともできないことはないが、雇う側、つまりご主人様が『平民を雇う金がなく、奴隷をメイドとして使っている貧乏人』というレッテルが張られてしまう。
「奴隷をメイドとして雇う……周辺貴族の評価は大丈夫なのでしょうか?」
アナスタシアがそう尋ねた。元貴族というだけあって、アナスタシアもこの違和感に気づいていた。
「問題ないわ。」
言い切った。迷いがまるでない。
「ご主人様の力は、周辺貴族が束になっても及ばない。それどころか国が相手であっても及ばないでしょうね。だから誰も文句は言えないし、言おうとも思わない。」
私はその言葉を聞きながら、昨日のことを思い出した。奴隷商の一室で、ご主人様が放っていた圧倒的な気配……。
「それに。」
カルメラが続ける。
「あなたたちは奴隷である前に、グルンレイドのメイドよ。この屋敷のメイドを馬鹿にできる人間は、この世界にそう多くない。」
グルンレイドのメイドがいったいどれほどの影響を及ぼしているのか、今はまだ理解できなかった。
廊下を歩いているといたるところに飾れている絵画に目が行く。どれも精緻で、一枚一枚に存在感があった。きっと値段も想像を絶するほどのものなのだろう。
「絵画には気をつけて。」
カルメラが立ち止まり、振り返る。
「この屋敷に飾られている絵画は、無害なものばかりじゃないわ。」
メルテは改めて廊下を見渡した。絵画の種類はばらばらだ。風景画、人物画、抽象的な模様のもの。一見すると普通の装飾に見えるが……。
「長時間見つめていると精神がかき乱されるもの、視線を合わせると魔力が少しずつ吸い取られていくもの。近づくだけで眠気が来るものもあるわ。あとは……見た者の記憶を一部書き換えるものもある。」
「どの絵画が危険なんですの?」
アナスタシアが思わずといった様子で聞いた。
「今のあなたたちにはすべての絵画が危険……と答えたほうがいいわね。けど、あなたたちが住んでいる1階は比較的安全な絵画しか飾られてないから安心して。でも、慣れるまでは絵画をじっくり眺めるのはやめておいて。特に、何か引き寄せられるような感覚があったときはすぐに目を離す。いいわね。」
二人は頷いた。メルテはもう一度廊下の絵画に目をやった。さっきまでただの飾りだと思っていたものが、今は少し違って見えた。
さらにカルメラさんは、厨房、応接室といった様々な場所を案内してくれた。しかし2階以上の案内はなかった。
「2階はローズたちの部屋、3階はマリーローズたちの部屋よ。4階はご主人様とメイド長の部屋があるわ。」
「私たちが入ってはいけない部屋などはあるのでしょうか。」
案内がなかったため、私はそうたずねた。
「宝物庫と、プライベートな空間……メイドたちの自室ね。それ以外はどこでも行っていいわよ。でも、今回案内しなかったのは、あなたたち実力ではその空間に滞在することも困難だからよ。」
言っている意味をあまり理解できなかった、といいう私の表情を見て、さらにカルメラさんは続ける。
「さっき絵画の説明をしたでしょ?簡単に言うと、その絵画の危険度が階を重ねるごとに危険なものになっていくということよ。魔法による防御なしでは、前を通り過ぎるだけで意識を失ってしまうものもあるわ。」
「それは怖いですわね……。」
「でも安心して。あなたたちは数か月後には、2階に行けるようになると思うから。」
「それはどういう……」
そう言いかけたアナスタシアの言葉が途切れた。廊下の先に、大きな扉があった。カルメラがそれを開けると、広い空間が目の前に広がった。
訓練場だった。
天井が高く、外の光が大きな窓から差し込んでいる。その中で、メイド服を着た数人が動いていた。片方では魔法の光が飛び交い、壁際では剣を持った人が素振りを繰り返している。
「感覚に頼りすぎだ。」
「わかりました。」
「この魔法、構築が崩れてる。もう一回。」
「えー細かい。」
様々な声が飛び交っていた。指摘され、頷き、またやり直す。その繰り返しが、淀みなく続いている。
メルテは無意識に立ち止まった。隣でアナスタシアも同じように足を止めている。
メイドが戦闘の訓練をしている。頭ではわかっていても、実際に目の前で見ると、その光景はどこか現実感がなかった。
「あなたたちにも、ああやって訓練してもらうわ。」
カルメラが当然のように言った。
「……わたくしたちも、ですか。」
アナスタシアの声が、驚きを含んだ声色でそう答えた。
「心配しなくてもいいわ。あなたたちは才能がある。だからご主人様が選んだのよ。」
「……あれほどの実力を身に着けられるか不安です。」
「それも心配しなくていいわ。私が教えるから。」
そういうとカルメラさんは微笑んだ。
私は驚きと、どこかくすぶるような期待と、拭いきれない不安が、胸の中で入り混じっていた。




