20.それも幸せ
ベンノとの婚約を正式に解消したドリスはかなり落ち込んではいたが、地理局の勤務は続けていた。ベンノが贈った本を片手に、一心不乱に計算をこなしている。何もしないでいるより、計算に集中している方が辛さを忘れることができるような気がしていた。
そして、ベンノの父であるノルデンソン伯爵が『ベンノが生きた証』だと言ったのであれば、計算を頑張るしかない。幸い、多角形の面積の算出方法はベンノに教えてもらっていたので、地理局では随分と役立つことができた。
そうして頑張っていると、ドリスは地理局の局長に認められ、中級文官へと取り立ててもらえることになった。ノルデンソン一族に生まれた女性の中には文官として計算能力を活かしている者はいるが、成人してから計算を教えられた者で王宮の文官になったのはドリスが初めてである。
地理局としても初めての女性局員なので、最初は虐められるのではないかと恐れたドリスだったが、ノルデンソン伯爵が計算の使用を認めた彼女に誰も文句は言えなかった。
下級文官の兄より高給取りとなってしまったドリスは、複雑な思いがあるのではと心配したが、兄は王宮で仕事するより検地の旅に出る方が好きらしく、笑ってドリスを応援した。
歴代のノルデンソン一族による膨大な知識のごく一部しか教えられていないドリスは、計算能力では一族の者に劣るものの、元々侍女をしていたので細かいところまで気を配ることができ、必要以上の計算に没頭することもなく、局長の評価はとても高かった。
計算方法を教えることをノルデンソン伯爵から許されていると知り、ドリスには多くの求婚者が現れた。子どもに計算を習得させれば、継ぐ爵位がなくても王宮で職を得ることが可能で、ずっと貴族として生活できる。それは継ぐ爵位を持たない貴族の次男以下にとってとても魅力的だ。しかも、ドリスは高給取りなので贅沢な暮らしが保証されている。その上、前の王太子が見初めるほど美しい女性なのだ。彼女を妻にしたいと思うのも無理はない。
しかし、ドリスは縁談の全てを断っていた。一生一人で生きていこうとドリスは決めていたのだ。ベンノから教わった計算がそれを可能にする。
そして、この国のために計算を役立てることが、ベンノの生きた証になるとドリスは思っていた。
それから半年ほど経ち、ドリスはその計算能力を買われてカルネウス公爵が局長を務めている財務局にも呼ばれるほどになっていた。
「皆のおかげで来年の予算を無事決定することができた。本当にご苦労だった。慰労の意味も兼ねて、我が家でささやかな慰労の宴を開きたいと思う」
最近娘のセシーリアが修道院から戻ってきたので、カルネウス公爵はかなり機嫌が良かった。
浮気をするような男の妻にはなりたくないとセシーリアが言うので、浮気するほど器用でない騎士のフレデリクと婚約させたのは少し気にくわないが、それでもセシーリアが幸せそうなので公爵は概ね満足している。
「もちろんドリス君も来てくれたまえ。随分と戦力になってくれて、本当に感謝しているのだ」
時が巻き戻る前、フレデリクに命じてドリスを殺させたのはカルネウス公爵だ。あの時の憎しみのこもった眼差しをドリスはまだ覚えていた。その目が今は優しくドリスを見つめている。
ドリスが王太子に見初められたおかげで、焦ったグランフェルト伯爵たちが暴漢にドリスを襲わせたので悪事が発覚したのだ。セシーリアの敵をとれたのもドリスのおかげと言って過言ではない。カルネウス公爵がドリスに優しくなるのも当然だった。
「ありがとうございます」
本音では公爵と関わり合いになりたくないドリスだが、これからも文官として生きていく以上、無視はできないので慰労会に顔を出すことにした。
慰労会は夕方から始まるがドリスは少し早めに公爵邸に着いた。既に来ている者もいるが、他部署の男性と一緒に待たせるのも忍びないと思った公爵夫人は庭の散策を勧めた。ドリスは素直に従い庭に出る。
さすがに公爵邸の庭だ。想像していたよりずっと立派で、ドリスはベンノとよく散歩した王宮の庭を思い出す。
『整数の一番目と二番目を足して三番目にする。次に二番目と三番目を足して四番目。その次は三番目と四番目を足して五番目。そんな風に計算して並べた特別な数列があるんだ。この庭に咲いている多くの花はね、花びらの数がこの数列になっているんだよ。それに、葉の生える角度にもこの数列が現れるんだ。とっても不思議だよね。数学の神様は花が好きだと思う。だから、僕はこの庭が大好きなんだ』
色とりどりの美しい花々でさえ、ベンノにとっては計算対象だった。美しい花に囲まれているとそんなベンノの声が聞こえてきそうで、ドリスは涙が出そうになる。
色っぽい雰囲気などどこにもなかったけれど、それでもドリスはベンノと一緒にいるのが楽しかった。この世界は不思議に満ちているのだと感じ、ベンノが見ている世界の一部に触れることができたと思ったのだ。
それなのに、ドリスはもうベンノの蘊蓄を聞くことはできない。彼女のせいでベンノは計算ができなくなりノルデンソン一族の名を捨ててしまったのだ。
これ以上巻き込むことなどできなかった。
ドリスがベンノのことを想いながら花を見ていると、セシーリアとフレデリクが並んで歩いてくるのが見えた。
「きゃ!」
突然セシーリアが躓いたらしく、可愛い悲鳴を上げてフレデリクにしがみつく。
『あざとい! あれは絶対にわざとだわ』
ドリスは思わず苦笑していた。いつも冷ややかな目で王太子とドリスを見ていたセシーリアが、こんな見え見えな手を使うとは思ってもいなかった。
「フレデリク様、ごめんなさい。転んでしまいました」
フレデリクの腕を掴みながら、潤んだ瞳で見上げるセシーリア。
「いえ。セシーリア様に怪我がなくて良かったです」
フレデリクはそう答えて、素早くセシーリアから離れた。
『フレデリクのやつ、馬鹿じゃないの。そこは抱きしめてキスの一つもしなさいよ。婚約しているのでしょう? 婚約者に何をさせているのよ!』
呆れて二人を見ていたドリスはフレデリクと目が合った。
「フェーホルム男爵令嬢?」
そう呟いたフレデリクをドリスから隠すようにセシーリアが前に出る。その目は不安に揺れていた。
『フレデリクが大きすぎて全然隠せていないわよ。それに、そんなことしなくても、フレデリクを取ったりしないわ』
ドリスはそう思いつつ、社交的な笑みを浮かべた。
「財務局長閣下が慰労会へ招待してくださいましたの。会が始まるまで時間があるので、こうして庭を散策させていただいております。お邪魔してしまい申し訳ありません」
もちろんドリスは二人の邪魔をするつもりなどない。
「この前、ベンノが女性を連れて我が家にやってきた。古物商に勤めている女性で、二人は仲が良さそうだったぞ」
ドリスはその場を立ち去ろうとしたが、その前にフレデリクが声をかけた。
「ベンノさんが幸せそうなら良かったです」
これはドリスが選んだことだ。泣くなんて許されない。フレデリクに涙なんて見せたくないと、ドリスは唇を噛みしめた。
平民になったベンノをあっさり捨てたのかと責めようとしたフレデリクだったが、ドリスの表情があまりに痛々しく黙ってしまう。
「妹さんはお元気ですか?」
片腕になってしまったイェルドと結婚したブリットのことを、ドリスはとても気にしていた。ベンノと婚約解消したせいでブリットが不幸になったとしたら、ベンノを奪ったドリスにも責任がある。
「ブリットは幸せそうにしているぞ。ベンノと結婚するより絶対に良かった」
「ブリットさんはお友達なのよ。今は領地にいらっしゃるので気軽には会えないけれど、お手紙のやり取りは続けているの。毎回イェルド様の惚気が書いてあって、本当に幸せそうだわ。少し羨ましい」
フレデリクとドリスはあまり仲が良くないと安心したのか、セシーリアも話に混ざってきた。
「それは安心しました。それでは失礼します」
セシーリアとフレデリクも幸せになりそうだとドリスは思う。
『でも、祝ったりしないけどね』
ドリスは二人に背を向けて歩き出す。その頬を涙が一筋流れていた。
その後もドリスは結婚せず、地理局で中級文官を続けた。
兄が地理局の先輩の娘と結婚して甥と姪が二人できたので、彼らに計算を教えることにする。
ドリスは時間が巻き戻ったのは彼らのためだと思うようになっていた。ドリスのせいでフェーホルム男爵家は取り潰されて、兄も結婚などできなかったはずだ。愚かな叔母のせいで生まれることがなかった子どもたちを憐れんで、神が時を巻き戻してくれたのに違いないと。
ベンノが教えてくれた計算で文官として身を立てる。そして、甥と姪に計算の師として仰がれる。誰が何と言おうと、それはドリスのとって幸せなことだった。




