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番外. その後

エルヴィン・ゴットハルトは今日で13回目のため息をついた。

今夜は年に一度だけ城で開かれる大きな舞踏会だ。ほんとうにこの辺りに住む人間は舞踏会が好きだなと、いつもならのんきに笑っているところだが、今夜はそれどころではなかった。


「おやおや! ゴットハルト殿ではないか」


年配の男の声で名を呼ばれ、エルヴィンは振り返った。げっと声を漏らすのをかろうじて引っ込めることができた。


「これは、グルテア侯爵」


笑みを貼り付けて彼と握手を交わす。最初に話した時から、彼はどうも苦手なのだ。


「この度は貴族入り、おめでとう。子爵になったとききました」


そう。エルヴィンはシュヴァルツ夫人を助けた事、そしてその後の所作も褒められたため、彼は余ったホルツの爵位を譲り受けたのである。あのホルツの、というところが嬉しくないが。


「ありがとうございます。まだまだ未熟者ですが、精一杯やっていこうと思っております」


ああめんどくさい。エルヴィンはなんでも器用にこなすが、美辞麗句を並べて心にもないことを言うのはばかばかしいと思っていた。まあ、このグルテアって侯爵は一番ましな方だけど。

侯爵が言った。


「ところで、今夜はマリアンナ嬢とは一緒ではないのですか?」


「ああ、彼女なら後で会う約束をしています。今夜は私ではなく……彼女の兄上のエスコートで出席するそうで」


そうだ、そうだった。エルヴィンは自分で言ってその事を思い出し、またため息をつきそうになった。


「なんと! フランツ殿が帰ってらっしゃるのか。それはそれは……。では、もしや今夜が、フランツ殿と初めての対面なのですか?」


「……お察しの通りです。なので少し緊張してしまって」


グルテア侯爵は歯を見せて笑った。


「ははは、そうなのですか。まあ彼は少し過保護なところがあるが、あなたなら大丈夫でしょう。健闘を祈ります」


そう言って爽やかに笑いながら侯爵は去っていってしまった。何が大丈夫なもんか。エルヴィンは心の中で悪態をついた。


マリアンナの話では、グルテア侯爵をもっと気難しく用心深く、そして無口にしたのが兄上だということだ。正直言ってお手上げである。







エルヴィンにとってマリアンナは、ほしくてほしくてたまらない存在だった。どれだけの女を集めても、彼女には及ばないと本気でそう思っていた。

5年前のあの夜、エルヴィンは1人の人間の魂を奪おうとして失敗した。普通なら、死んでから魂を取るのだが、まだ死んでいなかったのだ。そんな致命的なミスはやはり悪魔になりたてだったからだろう。他の悪魔と群れることはなく、常に1人で行動していたので、誰かに助けを求めることなど思いつきもしなかった。助けを求めるなんて、哀れな人間のすることだと思っていたのだ。

ともかく、死にかけた人間の近くにいたエルヴィンは、憲兵に追いかけられ街のあちこちに逃げ回った。慌てていたのでやたらと何かにぶつかったり翼が引っかかったりしたが、逃げることに必死だったため気にかけることもなかった。

いつのまにか追い詰められていて、エルヴィンは逃げ場を失っていた。だから窓からあの部屋に侵入したのだ。

中にいた少女は、エルヴィンの姿に驚いたが、彼を匿い、頼んでもないのに傷の手当てまでしてくれた。

その手際の良さに、エルヴィンはもしかしてこれは罠なのかと疑った。気を抜いた瞬間に、追手が飛び込んでくるのではと思っていた。だから、何事もなく彼女が寝てしまったのに、拍子抜けしたのである。

何の思惑もなしに助けられたのは、エルヴィンには初めてだった。自分で自分を守らなければ死んでしまう、生まれてからそういう世界を生きてきたエルヴィンにはとても新鮮で、心に何かが込み上げてくるのを感じた。


彼女の名前はマリアンナ・フォン・バフマン。伯爵家の一人娘だと、後から調べてわかった。

彼女はエルヴィンにとって特別な存在ではあったが、何かをするつもりは全くなかった。傷の手当てをしてもらった時、つっけんどんな態度をとってしまったし、会ったところで人間ではないと知っているから怯えられるだろうと思っていた。あの優しい彼女が、どこかで幸せに暮らしているのなら、それでいいと思っていた。

だが、ホルツと契約を交わした時、彼の見せた婚約者候補のリストの中からマリアンナの名前を見つけ、初めて「嫌だ」と思った。彼女が、このホルツのような打算にまみれた男と一緒になることもあり得ると思った瞬間に、そんなことはさせるかと決めた。

ホルツの関心を彼女から逸らすのは容易であったが、久しぶりに彼女を見たエルヴィンは、たちまち心を溶かされてしまった。貴族らしい上品なしぐさ、ピンと立った背、美しい微笑み。5年前は幼いように見えたが、その名残を残して彼女は美しくなっていた。

マリアンナが美しいのは顔だけではないというのは初めてあった時から知っていたが、それでもエルヴィンは彼女に嫌われたくない一心で、ホルツとの契約には必要ない、多くのことを身につけようとしたのである。




子爵の称号を受け、ようやく社交界に正式に入り、晴れて彼女と婚約までこぎつけたのだが。

先ほどグルテア侯爵に言ったように、今夜はマリアンナの兄フランツと初めて対面するのだ。

マリアンナが大好きと言ってくれる、このうさんくさい自分の微笑みを、彼女の兄はどう思うだろうか。

彼は軍に所属しており、今は地方の駐屯地に配属されているらしい。

一体どのような人物なのか。血の気の多い人間は苦手だ。殴られるかもしれない。いや、殴られることで彼女の夫になれるならいくら殴られてもかまわないが。

父親である伯爵からは、子爵の爵位を賜った時にすぐ挨拶に行ったので、信用を得ている。あとは彼女の兄のフランツを残すのみだった。






「エルヴィン様!」


鈴を転がすような声がエルヴィンの耳に飛び込んできて、そわそわしていたエルヴィンはぐるっと振り返った。


マリアンナが嬉しそうな笑みを浮かべてこちらに駆け寄ってくる。いつもよりも凝った髪型だ。ああ、なんてかわいらしいんだろう。エルヴィンも思わず笑みを浮かべる。


「マリアンナ様。今夜もお美しいですね」


「ふふ、ありがとうございます。エルヴィン様もとっても素敵」


あんな恐ろしい姿を見せても、拒否することなく受け入れて「素敵」とまで言ってくれるなんて。彼女みたいな人間はそうそういない。エルヴィンは幸せそうに微笑んだ。

が、次のマリアンナの「早速お兄様を紹介するわね」の言葉でガッチンと音を立てるようにして固まった。


マリアンナの後ろから歩いて来たのは、紛れもなく、彼女の兄フランツ・フォン・バフマンだった。背が大きいだけでなく、身体も大きい。マリアンナと同じ栗色の髪の毛で後ろは短く刈り込んでいる。目つきは堂々しており、まるで、お前なんか一捻りだぞとでも言い出すのではないかとエルヴィンは思った。やはり、一番苦手なタイプだ。


「は、はじめまして。エルヴィン・ゴットハルトと申します」


よかった、声は裏返らなかった。エルヴィンが笑みを浮かべてそう言うと、向かいの男はにこりともせずに低い声を出した。


「フランツ・フォン・バフマン。妹が、世話になっているときいている」


それだけ言うと、そっけなく右手を差し出してきた。

めちゃくちゃに警戒されているようだとエルヴィンは冷や汗を隠しながら彼の手を握った。

だが、エルヴィンの嫌いな長ったらしい軍の称号を言わずに名前だけ名乗るということは、彼女の兄として来たということだ。


「い、いえ。こちらこそ……」


沈黙が流れた。

思惑のわからない者ほど近寄りがたい人間はいない。マリアンナの閉ざされた心には惹かれたが、このような鉄仮面の男は実に苦手だ。何か……何か言わなければ。

しかし声に出せず、エルヴィンがただ引きつった笑いを浮かべていると、マリアンナが憤慨したように兄を小さな拳で叩いた。


「お兄様! そんな風に睨みつけなくてもいいじゃない。私の大切な人よ」


「い、いや、私は睨みつけているつもりは……」


フランツが何か言っていたが、エルヴィンは耳に入ってこなかった。

“私の大切な人”……。その言葉だけでエルヴィンは酔いそうだ。

エルヴィンは急に元気を取り戻し、仕切り直すように咳払いをした。


「すみません、マリアンナ様の兄上があまりに立派な方でしたので圧倒されてしまいました。私自身、貴族社会に入ったばかりなので、至らない点ばかりで恐縮ですが、マリアンナ様の幸せのために努力を惜しまないつもりです」


よく言った。あくまで謙虚な姿勢を保ったエルヴィンは心の中で自分を褒め称えた。

しかし、フランツの方は口の端を上げるどころか、目を細めただけで無言だった。

怖い。悪魔が怖がってどうする、と自分に突っ込みをいれている余裕は、エルヴィンにはなかった。なぜ何も言わないんだ。なんで目を細めた? 何を考えているんだ。

エルヴィンは頭をかきむしりたくなる衝動を必死で抑えた。

しかし、彼はこれでほんとうに貴族なのだろうか? じき伯爵を継がれるだろうに、こんな無口でいいのか?

ひたすらこの軍人の彼からの視線を笑顔で受け止めながら、エルヴィンは思った。

わかっている。妹が嫁ぐ男というだけで、彼はこの俺の存在が気に入らないのだろう。

なんなら早く殴ってくれればいいのに。


エルヴィンの心の葛藤を知るはずもなく、無言だったフランツがやがて口を開いた。


「妹は、今まで父や私が守ってきた。同時に貴族の義務に縛りつけてきた。だが、そこからあなたが解放してくれたと、妹からきいた」


エルヴィンははっと顔をあげてフランツを見た。

フランツの瞳は堂々とこちらを見つめている。そこにはなんと驚くべきことに、感謝の意が見えた。感謝?


「わ、私は……」


エルヴィンは、この伯爵家の嫡男がずっと心のままに話をしていることにようやく気づいた。奥で考えている心が読めないのではない、最初から誠心誠意、言葉にしているのだ。ただ無口なだけで。

表面的な言い方ではだめだ。

エルヴィンはしっかりとフランツの目を見据えた。


「私は、マリアンナ様を愛しただけです。ですが、彼女のためならどんなことでもやり遂げてみせる覚悟があります。どうか、彼女との関係をお許しください」


その言葉に、フランツは頷いた。


「もとより、妹はあなたのことを信頼している。ならばそれは父も私も同じ。どうかくれぐれも妹を頼む」







エルヴィン・ゴットハルトは、フランツとの挨拶を済ませた後、にぎやかなホールの隅で安堵の息を漏らした。

緊張した。

緊張はしたが、やはりマリアンナの兄上だとエルヴィンは思った。


「悪魔でも緊張するのですね」


エルヴィンの隣からマリアンナがひょこっと首を出した。兄から婚約者のそばにいるようにと言われたのだそうだ。


「しますよ。嫌われては困りますからね。まあ、たとえこの世から追放されても結婚するつもりですが……。どうせなら祝福されてあなたの夫になりたい」


マリアンナは「この世ですか」と笑みを漏らした。


「あいかわらずエルヴィン様は視野が広いですわね。こんなに狭量な私で釣り合うのかしら」


「釣り合うとかそういうことは問題にしないでください。そもそも属する世界も違うんですから。私もあなたも互いを想いあっている、それだけで十分なんです」


俺もずいぶん安っぽい事を言うようになったな、とエルヴィンは自分で言って思った。だが、人間が深く考えすぎなのだ。自分で障害を作って何が楽しいのか。

マリアンナは笑った。


「ほかの方がそう言ったら陳腐に聞こえるかもしれないけど、エルヴィン様がおっしゃると説得力がありますわね」


「ち、陳腐……!? そうでしたか……うわあ」


エルヴィンは額に手を当てた。

エルヴィン自身も、だてに悪魔を何年もやっているわけではない。もう姿を変えられるまでの力を持てるような上級になった。人間を喜ばせる美辞麗句は朝飯前だし、魂を取るために多くの人間を騙してきている。

だが、マリアンナに出会うまで、本心を言ったことは一度もなかった。そもそもそこまで1人の人間のことを深く考えたことがなかったのだ。

とにかくマリアンナの前では、それまで積んできた人間を喜ばせる技がうまくいかなかった。

最初の下っぱ時代は仕方ないとして、あのお茶の時はどうだ。せっかく彼女と2人で話す機会に恵まれたというのに、何を話したらいいのかわからなくなってしまったのだ。彼女に嘘はつきたくない。心から誠意を持って接したいと考えれば考えるほど、よく回るはずの舌がぴくりとも動いてくれなかった。

ようやく慣れてきて少しは話せるようにはなったと思ったが、結局彼女に陳腐だと言われてしまった。がっかりである。


しかしマリアンナは慌てたように首を振った。


「違うの、違うのです、ごめんなさい。私はあなたのそういうところがとても好きだと言いたくて……! だって……あなたは嘘をおっしゃっているのではないでしょう?」


エルヴィンは「もちろん、あなたに嘘はつきませんよ」とそっぽを向いて言った。


マリアンナはほっとした顔で続けた。


「私が言いたかったことは……他の方が言っても何も思わないのに、あなたが言うとまるで違って聞こえるのです。あなたのすべてが愛しく思えて」


エルヴィンはそっぽを向いたまま固まった。マリアンナは時々こういうことをさらっと言う。そしてそれが嘘ではないとわかっているから、余計に心臓に負担がかかるのだ。最近動悸が激しいのはこのせいだ。

エルヴィンは小さく息を吐いてからマリアンナの方をぐるっと向くと、彼女の頬に手を当てた。


「私にとってもあなただけですよ、こんなに心が振り回されるのは。そしてそれが幸せだと思ってしまうのですからね。重症かもしれません」


よし! 今の言葉は最高に決まっていたはずだ。エルヴィンは心の中で再び自分を褒め称えた。自分はいつも彼女にどぎまぎさせられているのだ。こんなに至近距離なら、彼女もきっと恥ずかしがるに違いない。

しかしマリアンナは、恥ずかしがるどころか頬にある彼の手に自分の手を重ねると、嬉しそうに笑った。


「よかった、私と一緒ですのね」


エルヴィンは、目の前が真っ白になった気がしたーーが、心臓を射抜かれる衝撃にぐっと耐えた。


「ダ」


マリアンナは「え?」と目を瞬かせる。


「ダダ、ダ、ダンスを一緒にどうですか! ほら、音楽も始まりますよ」


突然のエルヴィンの提案に、少し驚きつつもマリアンナは微笑んで「喜んで」と頷き、2人でホールの真ん中へと歩いていく。


うまくごまかせた。エルヴィンはほっと安心して、彼女の手を握った。

マリアンナが“あなたと踊るのは楽しい”と言ってくれたように、エルヴィンも彼女とのダンスがとても好きだった。

ダンスをしている時が、マリアンナがもっとも心から楽しそうにしているからだ。

彼女の笑顔を見るために、俺はこの先ずっと何度も彼女をダンスに誘うだろう。そして、ずっと彼女にどぎまぎさせられるのだろうと、エルヴィンは遠い未来を思った。







最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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