後日談 七日間の父親(三)
ターゲットは隣の領地の伯爵家、下見もない一発勝負。今思えばあり得ない博打だが、当時の俺はそれくらい焦っていたし、蝙蝠として有名になったことへの驕りもあったと思う。
盗みは成功した。屋敷の主人である伯爵を気絶させて、宝石箱を丸ごと奪って逃げた。
これまでは盗みを働いた場所から離れた土地で金に換えていたが、リザと赤ん坊を残して何日も家を空けるわけにはいかない。翌朝、とりあえず近場で宝石箱の中身だけを換金した。
これだけの額があれば家族三人で一年、いや二年は暮らせる。その間に仕事を替えるなり増やすなりすればいい。
リザのホッとした顔を見て、ようやく俺はこれからの生活に希望が見えたと、そう思った。
盗みを働いてから二日後の夕方、皿洗いの仕事に出掛ける俺を、ベッドに横たわるリザが呼び止めた。
「帰ってきたら、いい加減にこの子の名前を決めてよね。生まれてからもう七日になるのよ? 早く名前で呼んであげたいわ」
「リザが決めていいって言っただろ」
「もーっ、それじゃダメなの! お父さんなんだからしっかりしてよね!」
はいはいと適当にあしらって、リザの横ですやすやと眠る赤ん坊の頬をつついて、家を出た。
まだ体がきついはずのリザが笑顔で手を振るのを見て、ドアを閉めた。
皿を洗いながら子供の名前を考えた。うっかり皿を割って、店の主人にこっぴどく怒られて、弁償代を給金から引かれた。
でも今は金がある、焦ることはない。それよりも赤ん坊に早く名前をつけてやりたかった。いい名前を思いついたんだ。きっとリザも気に入ってくれる。
足取り軽い、深夜の帰り道。春の強い風に運ばれてきた妙な匂いが鼻を突き、顔を上げた。
月のない夜にしては明るい空。見上げた方向から血相を変えて走ってきたのは、俺たちの家の近所に住む男だった。
『おい、あんた! 家が燃えてるぞ!』
日が昇って、黒焦げになった大人の遺体と、その腕の中で見つかった小さな小さな亡骸を前に、俺は立ち尽くすことしかできなかった。
大人の遺体の背中には深い刺し傷があった。赤ん坊を必死で守ろうとしたのだろう。
火が上がる少し前に、複数の男が家に入っていくのを近所の住民が目撃していた。その男たちの格好から、隣の領地の伯爵家が抱えている私兵に違いない、と誰かが言った。
だが、それだけだった。
誰も憲兵に通報しない。誰も、憲兵が平民に手を貸してくれるなんて期待していない。それよりも、どんな理由であれ伯爵家の逆鱗に触れた俺を遠巻きに見ている者がほとんどだった。
やり場のない感情をぶつける場所なんて、俺にはひとつしか見出せなかった。
その夜、俺は再び、三日前に盗みに入った伯爵の屋敷にいた。
すでに火の手が回り始めた寝室で、顔の原型がわからないほどボコボコに殴った伯爵を、俺は本気で、殺してやるつもりだった。
命乞いをする男にナイフを向ける。たったひと突き、リザが背中に受けたように――。
『どんな理由があっても、ダメなものはダメなの!』
なんで。
なんでダメなんだよ。
どうしてこんな時まで、あいつの声が聞こえるんだ。
なにを叫んだかは覚えていない。ただがむしゃらに伯爵を罵って、肥えた体を窓へ放り投げた。
ガラスの割れる音に続いて、外に避難していた夫人や使用人の悲鳴が聞こえた。窓の外は低木の多い庭園になっていたから、二階から落ちたところで死にはしないだろう。骨の一、二本は折れるかもしれないが。
復讐なんてくだらない。
相手を殺したって家を焼いたって、二人は帰ってこない。
吸い込んだ煙で意識が遠のいて、豪奢な絨毯の上に倒れ込んだ。熱波は勢いを増すが、こんなのは序の口に過ぎない。
なんで二人が苦しまなければならなかったんだ。
貴族のせい? 一向に貧富の差が縮まらない世の中のせい?
そうじゃない。
俺が、この屋敷に盗みに入ったりしなければ。
これが最後なんて言わないで、潔く足を洗っていれば。
二人は今も生きていたはずなのに。
慟哭は業火にかき消されていく。
生きる意味なんて完全に消え失せていた。このまま灰になって、リザと赤ん坊のところへ行きたかった。
――だけど、そんなことできるだろうか。
二人が許してくれるはずがない。俺のせいで殺されたのに、どうして俺のことを受け入れられるだろうか。
肌を焼く熱よりも、肺を締めつける息苦しさよりも、二人に詰られることが、怖くて。
気がつけば、俺は煤だらけになって町外れを歩いていた。
まだ薄暗い空から降り始めた雨は勢いを増していく。屋敷の火はじきに消えるだろう。神様は結局、祈りよりも金を捧げる相手の味方しかしないらしい。
神様がいるのなら、なぜ二人を救ってくれなかったんだ。
神様がいるのなら、なぜ二人じゃなくて、俺を殺してくれなかったんだ。
◇◇◇
「……ま、死ぬ度胸もなくて、そのままフラフラ生きてただけだよ」
話し終えたヴェスは何気なく隣に座るロレッタを見て、ギョッと目を見開いた。
青い瞳からこぼれ落ちた大粒の涙が膝の上のティーカップに吸い込まれ、冷め切ったハーブティーに波紋を描いていた。
「お前、なんで泣いて……」
「ひどすぎるわ! そんなこと許されてたまるものですか!」
「いや、俺だっていまさら許されるなんて微塵も思っちゃ――」
「そっちじゃありません!!」
ロレッタが怒鳴るとソーサーの上でカップが跳ねた。ヴェスは慌てて中身の残ったカップとソーサーを奪い取り、サイドテーブルの上へ避難させた。
「あんまりよ……生まれたばかりの赤ちゃんと母親の命を奪っていい理由なんてどこにもないわ……」
ロレッタは両手で顔を覆い、なおもしゃくりあげている。ヴェスは面食らい、肩をすくめた。
「本当に変わった貴族だな、お前は……」
「変わってなどいないわ! 過剰な報復を行なったその伯爵がおかしいんです!」
ヴェスは困ったようにガシガシと頭を掻くと、クローゼットから白いハンカチを取り出しロレッタに差し出した。ロレッタがそれを受け取り目元に当てていると、嗚咽は次第に小さくなっていく。
「しつこく訊きたがってごめんなさい、こんなにつらい話だとは思わなくて……」
「別に気にしちゃいねえよ。もう二十年も前の話だ」
「孤児院への寄付は、そのあとから?」
「あー……まあな。あの後、各地を転々としてたときにみすぼらしいガキに呼び止められてな」
――ねえおじさん、食べるものちょうだい?
「娘が生きていたら同じくらいの年かなって思ったら、いつの間にか金貨を渡してたってだけだ」
「でも、それからずっと盗みで得たお金を各地で寄付してたんでしょう?」
「全部じゃねえよ、半分は酒に使った。……だが、あのガキだけじゃ不公平だからな」
「やっぱり、ヴェスは優しいのね」
「泥棒に優しいもクソもあるかよ。お前、本当に貴族か?」
眉根を寄せるヴェスを見て、ロレッタはようやく落ち着きを取り戻した。
「リザさんと娘さん、きっとヴェスのこと許してくれると思うわ」
「んなわけあるかよ。そもそも俺は地獄行きだ、あいつらと同じところに行けるわけがない」
ヴェスの横顔から表情が消える。するとロレッタは自分の胸に手を当てて自信満々に言った。
「じゃあ、わたくしが神様に直談判してあげるわ。『この人は大悪党ですが悪い人じゃないんです。だからどうか天国に行かせてください、雑用でもなんでもしますから』って」
「……神様の人使いがお前より荒くないといいけどな」
顔を背けるヴェスにロレッタはクスッと笑うと、勢いよくベッドから立ち上がった。
「決めたわ! 明日はまず我が領地の孤児院を視察します。あと市場の様子と……」
「おいおい、今の市政は親戚が代理でやってんだろ、なに勝手なこと言ってんだ」
「もちろん叔父様には相談するわ。でもフロックハート伯爵家に嫁ぐ必要がなくなったから、本来の通りにわたくしが爵位を継ぎませんと。叔父様は領地経営にはあまり積極的でなくて、だからあくまで代理なのよ」
「あ、そう……」
「わたくし、領民みんなが幸せになれるような、立派な領主になってみせるわ」
腰に手を当てて堂々と宣言するロレッタは、先程まで泣いていたとは思えないほどはつらつとした笑顔をヴェスに見せた。
「……まあ、せいぜい頑張ることだな」
ヴェスは冷淡に返す。そんなものは夢物語だとあしらう心の片隅に、彼女ならひょっとしてと期待してしまうのも事実だった。
「だから、ヴェスも手伝うのよ?」
「まだこき使うのかよ」
ヴェスはベッドにあげた片膝の上で頬杖をつき、うんざりした声を漏らす。
すると、反対側の無防備な頬に軽くキスが落とされた。
「今日はありがと、おやすみ!」
ロレッタは早口で言うと亜麻色の髪をなびかせ、振り返ることなく部屋を出ていった。
ドアがバタンと音を立てて閉まる。しばらくして硬直が溶けたヴェスは、真っ赤になった顔を片手で覆った。
「だからそういうことをするんじゃないッ……!!」
翌朝、爽やかに目覚めたロレッタとは対照的に、ヴェスの目の下には濃い隈があったとか。
(完)
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